それからの香港おのぼりさんツアー


二章 新界探検!ボーダーラインの向こう側 (99.1.2)

香港という地域は大きく別けて4つに分けることができる。アヘン戦争後の1842年に清と英国との間に結ばれた南京条約により正式に領有することになった香港島。そして、1860年のアロー号事件(第2アヘン戦争)がきっかけになって、英国に永久割譲された九龍地区である。この2地区はいわば香港の中心部。これについては今さらながら語るなどと野暮なことはやめておこう。これから語るのはそれ以外の新界地区と235の島部のことだ。これらの2地域は1898年に中国と英国との間に結ばれた北京条約により99年(1997年まで)の租借権を英国が得ることになる。取り分け、今回はその新界地区について語ろうと思う。

「藤澤さん、鐵路博物館なんてどうですか?」
今回は今まで行ったことのない地域に行こうと決めた二人であった。で、ターゲットになったのは問題の新界地区と島部である。新界地区を見ておきたいという私の希望をきいてはんちゃんが提案してくれたのが「鐵路博物館」なのであった。
「ここは一度いってみたかったんですよ。あ、藤澤さん「博物館」って興味ないですか?」
実は私は高校時代の苦手科目が「歴史」だった。が、しかし、日本国内を旅していくうちにその地域の風土や歴史に興味をもってしまい、その地域の博物館、資料館には必ず足を運ぶことが常となってしまった。今ではすっかり「歴史ファン」になってしまったのである。だから、はんちゃんの提案は願ってもなかったのである。
「そんなことないですよ。行きましょう!私、博物館大好きですよ」
かくして、今回我々の探検のプランは決定した。まず、大埔墟(タイ・ポー・マーケット)の鐵路博物館で香港の歴史探訪、その後、落馬洲(ロッマアザウ)で元中国国境見物、そして、元郎(ユンロン)へ行き、そこから屯門(チンムン)までLRT(Light Railway Transit〜軽便鉄道)に乗るといった新界探検の旅なのである。

《大埔墟〜鐵路博物館》
まず、最初の目的地は「鐵路博物館」。KCR(九廣鉄道)の大埔墟駅のそばなのだ。といっても駅からけっこう距離がある。一応案内標識を見ながら歩いていたのだが、まったくわからない。はんちゃんが近くに歩いていたお母さんに声をかけて案内してもらってやっと見付けたのだ。玄関があんまり目立たない。ひっそりと「香港鐵路博物館」と門にあるだけ。どうりで見つけにくいわけだ。
博物館といっても小さいのにびっくり。それもそのはず。昔の大埔墟駅舎を利用して博物館にしているだけなのだ。しかも、入場料は無料。が、しかし、侮ってはいけない。これがなかなか見どころがあるのだ。駅舎そのものがなかなか趣がある。1913年に建てられたその駅舎は中国風の建物で味がある。中の展示物は少ないにしても、当時の沿線の様子や香港の歴史の一頁を知るのには十分だ。中には日本の新幹線やフランスのTGVなど世界の特急列車の模型も展示してあったのは良く解らなかったが・・・。
もう一つの目玉はなんといっても当時の客車の現物が置いてあり、中に入れることだ。中に入って、古の鉄道旅行の雰囲気を味わって見るのも一興である。
この「鐵路博物館」、博物館というよりも「公園」といった雰囲気である。よく日本でも公園の一角に古い路面電車や蒸気機関車が展示してあったりするが、ここではとぢらかというとそういう鉄道の現物展示の面積が多いという違いだけだ。敷地の木陰にはご老人がたむろしていて井戸端会議に余念がなかったし、現地カップルもいっぱいいて定番のデートスポットのよう。そして、沢山の現地小学生たちが列をつくって訪れる「社会見学の場」でもあるようだ。非常に和やかな場所である。「鉄道ファン」ならびに「歴史ファン」にはおすすめの場所なのである。

《落馬洲〜国境展望台》
香港が中国に返還されて「国境」という言い方はおかしいかも知れないが、あえて「国境」と呼ばせていただく。何故ならば、中国返還後の今もここの税関は機能しているからだ。中華人民共和国深セン経済特別区と中華人民共和国香港特別行政区は中国本土の人々の入出流の管理のため、境界は残されている。

大埔墟からさらにKCRに乗り、「国境」近辺の町、上水(シャンソイ)を目指す。KCRに乗ってみて驚いたことだが、中心部から出た香港は意外にも自然が多い。田園地帯や畑、山も緑いっぱいなのである。中心部のごみごみした雰囲気が嘘のようだ。
「藤澤さん、「地球の歩き方」みせてくれます?」
はんちゃんは落馬洲方面へ行くバスの系統を確認するために私の持っていたガイドブック「地球の歩き方」を開いた。
「76Kってバスに乗ればいいんですけど・・・。あ、あったあった!」
落馬洲行きのバス停は駅のすぐ近くにあった。
ここ上水は香港の典型的なベッドタウンである。大きなショッピングセンターやマンションが建ち並んでいるのである。
「あれえー、あのバス、ダブルデッカーじゃあないなあ・・・」
香港でダブルデッカーのバスを見慣れていた私は、逆にノーマルのバスをめずらしがっていた。
「藤澤さん、あのバスをみてくださいよ。ナンバープレートに簡字体の「広東」の文字があるでしょう」
「あ、ほんまですねえ。ひょっとして広州からのバスですか?」
「中国は右側通行で左ハンドルのはずなんですけど、ほら、あのバスは右ハンドルでしょ?香港のバスが中国内のナンバーも取っているのだと思いますよ」
「ほんまや・・・」
いくら「境界」が存在しても、やはり同じ国だ。交流はかなりさかんのようだ。
二人で落馬洲行きのバスを待っていると、私の前で待っていた欧米人カップルのうち女性の方が振り向いた。そして私にこう言った。
「Can you speak English?(あんさん、英語しゃべれまっか?)」
「へ?」
女性は私になにか質問しようとしていたのだ。こまった、英語は苦手の私だ。とっさに
「あ、あ、りとる・・・(ちょっとだけね)」
と答えてしまったのが運の尽きであった。
「How to go to Chinese Border View? 」
「へ?」
あまりの早口に私は返答に窮してしまったのだ。冷や汗をかいていると
「はっはっは、藤澤さん、彼らは我々と同じ所へ行こうとしているのですよ」
はんちゃんは英語でかれらに一緒のバスにのればいいと答えた。ほっとしていると、今度は後ろから現地のおばあさんから廣東語で質問されてしまった。これもはんちゃんのおかげで乗り越えることができた。
「あのおばあさんも落馬洲へいくそうですよ。藤澤さん、やっぱ英語もしゃべれないとだめですよ」
「たっはっは、面目ないっす」
はんちゃんの意地悪な笑いに私は顔を赤くして苦笑いである。
そうこうしているうちに、お目当ての76Kのバスがやってきた。いそいそと乗ろうとした我々であったが、はんちゃんの質問に運転手が手でばってんのジェスチャーをした。
「藤澤さん、このバス違う!逆だ!あっちのバス停ですよ!」
とっさにバスを乗るのをやめた我々。そう、我々は逆行きのバスに乗ろうとしていたのだ。急いで道路の向こうに行かなくては・・・。と思っているうちに、本来我々が乗るはずのバスがやってきてしまったのだ。
「いそげ!」
はんちゃんと私と欧米人カップルの二人は道の反対側へ行くべく、陸橋の階段を大急ぎで上り始めた。はたして我々は間に合うのか!

はんちゃんはものすごいスピードで陸橋を駆け上がり、駆け降りていく。私はふと後ろが気になった。例の欧米人カップルが意外とのろまなのだ。
「はんちゃん、あとは任せた!」
そう心の中で叫びながら、時間稼ぎをはんちゃんに任せて、私は欧米人カップルのフォローをした。
「こっち、こっち!この階段を降りてや!」
日本語など通じないのは解っているけど、そう叫びながら手でジェスチャーして導いた。とりあえず二人から一定の距離をおきながら、ふとバスの方向を見る。幸いなことにはんちゃんの前にいるおばあさんがおっきな荷物を引きずり込むのに手間取っている。おかげで私も欧米人の二人もなんとか間に合ったのだ。はんちゃんはおばあさんの荷物を持ち上げてあげた。
「あれえ?このおばあさん、私らの後ろにいたんちゃうんですか?」
そう、確かに我々に廣東語で尋ねてきたおばあさんだ。我々よりも足が速いのか?それともワープしてきたのだろうか?
「ははは、どうやら直接道路を横断してきたようですねえ・・・」
とっさの機転でおばあさんはいつの間に道路を渡って先回りしていた。おそるべし、おばあさん。

我々の乗った76Kのバスは上水の町を出て、ハイウエイの横の青山公路をひたすら走る。運転席の横に運転手以外にもう一人バスのスタッフが乗っていた。多分業務を終えて、営業所に帰るのだろう。清涼飲料水のペットボトルを抱えながら、運転手と軽いジョークをかわしながら笑っていた。はんちゃんはそのペットボトルの男性に落馬洲の展望台の最寄りのバス停を尋ねていた。
「近づいたら教えてくれるって」
我々はほっとしながら席についた。

しばらくして、大きなターミナルに到着。ペットボトルの男性はここだといってくれた。
「うーん、どの路行ったらいいのかなあ・・・」
はんちゃんは「地球の歩き方」の地図を見せながらさっきのペットボトルの男性に質問。しばし、機関銃のような言葉のやり取りが続いた。私は廣東語はさっぱりなので、すっかりはんちゃんにまかせっきりである。
「なんて言ってました?」
バスからでてきたはんちゃんに私は訪ねた。
「案内標識がでているのでその方向へ行けば一本道だって」
ふと見ると、あの欧米人カップルはかつて知ったる道の如く2人並んでどんどん進んで行く。男性の手にはフルーツやミネラルウォーターの入ったビニール袋。
「用意がいいねえ。ま、そこが欧米人らしいや」
はんちゃんがいうと
「ピクニック気分やね」
と私が返した。
「多分、香港在住でしょうねえ。わざわざ観光で元国境をみようなんて人はいませんしねえ」
こんなやりとりをしながら、早足の欧米人カップルの後を追うようにゆっくりと展望台へ向かうと思われる道を進む。コンテナ置き場みたいなところを横目に見ながら進み、林を抜けると左手にゴルフ倶楽部が見える。しばらく進むと道が二手に分かれている。右へ行くと登り坂でそのまま展望台だ。まっすぐ行くと検問がはられている。地元の人以外は立入禁止らしい。その検問のすぐ手前に小さな商店があった。
「ここでミネラルウォーターでも買いましょうか?」
すっかりばててしまった我々はその店でミネラルウォーターを買って少し休憩である。店の前には若い香港人女性の警察官が椅子に座って任務を遂行していた。
「なーんか、かわいそう。あれじゃあ、お肌がやけちゃうよ〜」
私の言葉にはんちゃんは少し笑った。

休憩が終わるといよいよ、この急な坂道を上る。いよいよ展望台だ。右手には小さな村があって、村の人達がテーブルを出して麻雀に興じている。上の方からは欧米人のグループが雑談しながら降りてくる。数人はビデオカメラを持っている。けっこう観光客がいるみたいだ。しばらく歩くと建物が。みやげ物屋だ。
「あらら、ここで買えばよかったっすね、ミネラルウォーター」
私はさらっと言った。が、しかし、この言葉は前言撤回しなければならなくなるのであった。何故ならば、ここのみやげ物屋はけっこううるさいのである。私に必死に絵はがきセットを売付けようとするのだ。
「ハガキ、ハガキ、10ドルよ。ヤスイ、ヤスイ」
「ああ、もう、いいよお。それぐらいの写真だったら自分でも撮れるよお・・・」
あまりにもしつこい。しまいには「買わないなら、見るな、ケチ!」なんて捨てぜりふを言われる始末。そんな事言っても、展望台へ行くにはこのみやげ物屋の中を通らなくてはいけないのだ。見るなという方がおかしいのである。なんとかしつこいおばさんを振り切り、無事展望台のあるあずまやへ到着。そこで見た物はあまりにも意外な光景であった。
「これが元国境・・・・!」
私は思わず絶句。その光景というのは私の想像を超えていたのである。展望台のある丘から見るその光景は手前にウナギの養殖場のような、田んぼのような洲があり、その奥を深セン河という河が流れている。いわば牧歌的な風景。そして、その奥には開発の進んだ高層ビル群があるのである。とにかく、このアンバランスというかミスマッチというか、この風景の異様なギャップに仰天したのである。そして、深センの街の発展ぶりにド肝を抜かれた思いだ。
「トウショウヘイの政策の成功例なのかなあ。いわば深センは中華人民共和国の実験都市
とでもいうのでしょうねえ・・・」
はんちゃんは感慨深げに言いながら、愛機マミヤ7のシャッターを切った。かつて深センは人口3万人の漁業が主要産業の小さな町にすぎなかった。それが、1979年に経済特区に指定され、それ以降新興商工業都市としてめざましい発展を遂げる。人口はなんと現在はおよそ300万人である。
「すごいねえ・・・」
私はため息をついた。とにかく、ビルの林、いや、森である。そのビルの間に沢山のクレーン。今、この街はさらに成長を続けている。そして、初めて見るだだっ広い中国大陸。今、私の脳みそはあまりのショックにハッグアップしそうだ。深センからはけたたましいクラクションの大合唱が聞こえる。私の耳の中はその音が増幅されてエコーがかかって頭全体で響いている。そう!香港と中国は確実につながっている。そう実感せずにはいられなかったのである。

《元郎〜屯門 軽便鐵路紀行》
落馬洲からいよいよ我々は元郎(ユンロン)へ向かい、軽便鐵路を体験乗車する事となった。落馬洲からはミニバスを利用した。そのままずばり元郎行きのミニバスに乗って、一路元郎へ。
「うわー、ここもすごいなあ・・・」
ここ元郎も香港の典型的なベッドタウンの一つだ。高層アパートが建ち並ぶ。とはいっても、意外とのどかな部分も残されている。裏通りに入ると屋台や市場など昔ながらの生活風景に触れることもできるのだ。
元郎がこのように発展したのも1988年9月に軽便鐵路(Light Railway Transit)が開通してからだ。鉄道というのは街の発展に欠かせない重要なインフラなのである。
香港の軽便鐵路は属に言う路面電車のようなものだ。日本でも広島や長崎など現存している物も多いが、現在では自動車の急増化にともない、追いやられるようにどんどん廃線してしまっている。しかし、香港の軽便鐵路はちょっと違う。開通が比較的新しく、そして、新しい技術も導入されてかなりモダンな路面電車だ。
「藤澤さん、切符はホームのこの券売機で買うんですよ」
はんちゃんの指示で、まず、行き先のボタンを押し、表示されただけの硬貨を券売機に入れる。するとバスの回数券みたいなうすっぺらいチケットがでてくる。
「駅はほとんど無人です。降りたら駅のチケット用のこの箱へ使用済みのチケットを入れるのです。驚いたのが、香港でもこういうシステムが成り立つことですねえ。香港でもこういうシステムが通用するのかなぁという疑問がちょっと湧きますが、ちゃんとみんなチケットを買ってから乗ってるようですね」
さて、問題の電車がやってきた。割りと小振りな車両だが、まるでイタリアはミラノの市電のようなデザインでかっこいい。我々は康楽路駅から一旦、始発の元郎駅まで行き、そこから屯門まで戻ることにした。
車内はすでに満員。すっかり市民の脚として大活躍している。会社か学校からの帰り、買い物からの帰り。その光景は日本のそれとちっとも変わらない。夕焼けのニュータウンの中をゆっくりとした速さで軽便鐵路は走る。

終点の屯門碼頭へ到着した頃には、すでに夜の帳がおりてしまっていた。
「おなか空きましたねえ」
「そういえば、晩ご飯の時間だあ」
二人は暗黙の了解で晩ご飯がありつける場所を探した。夜の屯門海濱花園(プロムナード)では夕涼みする家族連れやカップルが沢山いる。まるで夜の京の鴨川べりみたいなのだ。
「はんちゃん、海の向こうにあるのは、ひょっとしたら新空港ですか?」
「そうですねえ。あ、間違いないですよ。飛行機の認識灯があの明るい所に降り立ったのですから。あれがチェック・ラップ・コックですねえ」
対岸の島、大嶼山の海岸に沿ってハイウェイの道路灯が規則正しく並んでおり、遠めではあるがきれいだった。

こうして、我々の香港新界探検の旅は終了した。しかし、ここで大変おまぬけなオチを紹介せねばチャンチャンと終わるわけにはいかない。我々は、一旦、中環までここから出ているフェリーに乗ろうとしたのだが、晩ご飯を食べているうちに最終のフェリーに乗り遅れてしまったのだ。仕方がないので、新空港行きのフェリーに乗り、そこからバスに乗って帰る事になった。そのおかげと言っては何なのだが、ハイウェイからべらぼうに美しいビクトリアハーバーの最高の夜景が堪能できたのだ。それは、ビクトリア・ピークから観るそれとは違って、一味違う美しさだったのである。ちょうどそのとき、はんちゃんと私はお互い「隣に座っているのが美女だったらどんなにいいか」と思っていたに違いないのであった。

むさ苦しい野郎二人の新界珍道中。おあとがいいのか悪いのか、読者の皆様に判断を委ねようと思う・・・。

つづく

■注釈

【香港鐵路博物館】
大埔墟安富道 TEL 2653-3399
開館時間:9:00〜16:00
休館日 :火曜日、クリスマスとその翌日、元旦、旧正月の三日間
入場無料


【マミヤ7】
マミヤOP(旧マミヤ光機)が開発したレンズ交換式レンズシヤッタカメラ。ブローニーの6×7フォーマットに対応。



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