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SIOPについてー3

掲載、第3回目です。

 いままでBー36爆撃機が現役だった時代における爆撃目標について、資料を紹介してきましたが、もう1冊紹介したいと思います。SIOPとは(Single Integrated Operational Plan)すなわち単一統合作戦計画の略です。なぜ単一かというとアメリカの全3軍の核兵器を使用する唯一の戦争計画だからです。この本には第二次世界大戦終了後の冷戦黎明期から1980年代前期までの戦争計画について書かれています。

 

SIOP

アメリカの核戦争秘密シナリオ

ピーター・プリングル/ウイリアム・アーキン 著

山下 史 訳

朝日新聞社 1984年 刊

(Pー44)

◆ホワイトハウスの無関心

 大統領の指示とコントロールの全面約な欠如によって政策の空白地帯が生じた結果、それらが相互に作用しあって、核増強へとアメリカを否応なしに押し流していくいくつかの要因が作られたのである。対ソ情報収集技術の改善にともなって、さらに多くの攻撃日標が定められた。SAC司令部のルメイは、情報機関が新たに発見した目標を攻撃できるように、原爆の必要数をたえず上方修工する態勢をとっていた。また彼は、自分の注文通りに核兵器製造を増強するようホワイトハウスや議会を説得することがいつでもできた。同時に、核兵器研究所では、科学者やエンジニアがより強力で小型、かつ軽量の原爆製造に取り組んでいた。それが完成すれば、大型の爆撃機でなくても中・小型爆撃機や、やがてはロケットやミサイルで、目標まで運ぶことができるようになる。新しい目標を探し出す情報活動の向上、ホワイトハウスの無関心、議会による規制の失敗、そして着実な原爆製造枝術の進歩など、これらすべての要因が一連のSAC戦争計画の進展に垂要な役割を果たした。ハーフムーン、ブロイラー、フローリック、グラバー、フリートウッド、ダブルスター、トロージャン、オフタックル、シェイクダウン、クロスピースのコード名を持つ戦争計画のひとつひとつは、いずれもそれ以前の計画よりも包括的で、アメリカを大量報復、オーバーキル、そして核戦争遂行の時代に押し流していくものであった。こうした初期の時代には、総合的な目的についてはほとんど考えることなく戦争計画が作成された。たとえば、確実に勝利をおさめるためには何発の原爆が必要か?ソ連領で何百発もの原爆を爆発させれば「征服された」ロシア国民、さらには世界の世論にどのような影響を及ぼすか?大量核攻撃は果たして共産主義を永久に葬り去るだろうか?アメリカは救世主としてたたえられるだろうか?それとも属殺者の汚名が看せられるか?ルメイのような将軍たちには、このような質問にさく時間はなかった。軍事専門用語を使えば、これらの戦争計画は「能力」計画として知られていた。つまり、持てるすべてを使うという計画である。回想録でルメイは次のように述べている。

SACでのわれわれの仕事は、国家政策や対外政策を施行することではなかった。われわれの仕事は生産であった。だからわれわれは生産した。アメリカが当時占有していた核権力をわれわれは始動させたのだ。

 ルメイは「わが国が保有する戦力をどう使うつもりか、どうすべきか、などといったたぐいのこと」を、大統領や空軍参謀総長にさえ一度として相談したことはなかった。あれば使え、なければ手に入れろ、というのが経験の教えるやりかたであった。ふり返ってみると、作戦レベルの核戦争計画にかんする大統領の知識やコントロールの欠如は、おどろくべきものであった。行政府はアメリカの核政策(もしくは核政策の欠如)がどの方向をめざしているかについて、はっきりした考えを持っていなかったのである。アメリカの歴史家で、初期の核戦争計両についてきわめて洞察力に富む研究を行ったデイプィッド・ローゼンバーグは次のように指摘している。

 予期されるソ連の目標数の増大、核兵器と運搬システムのいっそうの複雑化、ソ連の防空態勢の改善と原爆の獲得−こうした事態の進展にともなって、作戦計画は一段と厳密性が要求され、ひいては核対決に際して大統領に残された選択の幅は徐々にせばめられていかざるをえない。だが、トルーマンや国家安全保障会議は、明らかにこのことを予見できなかった。

 事実、核兵器をどう使うかの「選択」は、すでに当時から漠然としたものであり、必要であればSACによる先制攻撃を認めたであろうかとの問いには、いぜんとして回答が出されていない。「アメリカは侵略者として行動したり、戦争を挑発したりはしないとの一般的な理解はあったものの、先制攻撃という灰色の分野における高度の国家政策の決定は、一度として下されたことはなかった」と、ローゼンバーグは述べている。

 一九四八年初め、国家安全保障会議は核戦争にかんする政策声明書についての討議を始めた。これは国家安全保障会議文書第三○号(NSC30)として発表された。NSC30は二つのことを決定している。第一は、敵対行為が発生した際、国家軍事エスタブリッシュメント(アメリカの軍事マシンを意味する新語)は「国家の安全にかんがみ、核兵器をも含む利用可能なあらゆる適切な手段を、速やかかつ効果的に用いる準備をととのえ、またそのための計画を立てねばならない」と規定した基本方針である。第二は、「戦時における核兵器の使用にかんする」最終決定を大統領の手中に委ねたことである。だが、いつ、どのようにして、これらの兵器が使われるべきか、またどのような目標を最初に攻撃すべきかについては、NSC30は何も触れていなかった。戦争の目的は、ソ連の国民や産業、共産党、共産主義のヒエラルキーのすべて、もしくはそのいくつかを破壊することにあったのか?勝利の後にソ連を占領し、おそらくは再建する必要があるだろうか?それともある空軍大将の表現を借りれば、ソ連を「封印」し、自己救済の道を見いださせるべきであろうか?核問題全般の厳しい秘匿性と極秘扱い部門数が増大したために、国家安全保障会議のメンバーが核政策について生産的な議論を行うことは不可能であった。だが、なにものにも優先する原則が一つあった。すなわち、核兵器を使わない可能性についての公開論争はいかなるものであれ許容できない、という原則である。そんな論争がおこりでもすれば、アメリカは核使用をためらうかもしれないとロシア人が考えかねないし、同時にヨーロッパの同盟諸国がワシントンにおいている信頼を損ないかねないからである。NSC30の以下の二節は、この点にかんしては慄然とするほどあからさまである。

 第五節は次のように述べている。

 この問題にかんしては、世論は重要な要因として認識されねばならない。この重要な問題にかんする審議や決定は、それが明白に育定的なものであったとしても、この問題が安全保障へ及ぼす全面的影響がはっきりしていない段階で、安全保障にとって死活的な重要性をもつ道義的な問いをアメリカ国民に投げかけるおそれがある。アメリカ国民がこの決定を下すとすれば、それはこの問題が大衆の最大関心事となる現実の危機状況においてでなければならない。

 ここで述べられていることをいいかえれば、アメリカの大衆は戦争熱に浮かされれば、核兵器の使用を受けいれるであろうということである。

 第七節は次のようにあけすけに述べている。

 もし合衆国が道徳上の理由から原子爆弾の使用に反する決定を下したり、その問題についての大衆的討論を行ったりすれば、わが国は世界の急進派からは称賛を受け、ソ連陣営からは必ずや拍手喝采をあびよう。だが合衆国のそのような決定によって、ただでさえ弱体な安全が明らかに脅かされる西ヨーロッパのすべての健全なる市民によって、わが国は徹底的に糾弾されるだろう。

 ルメイに対するペンタゴンの指針は、かなり大ざっばなものであった。統合参謀本部は戦争計画中にふくまれるべき目標を選び出し、それらにどのような被害を与えるべきかをルメイに伝えたにすぎない。あとはルメイに任されていて、彼には時間がたっぷりあった。一九四八年のあるペンタゴンの研究によれば、ソ連が一○○ないし二○○発、もしくはそれ以上の核兵器を持たないうちは、浮上しつつある二超大国間に戦争はおこらない、と想定されていた。ソ連がその程度の核能力を獲得するのは一九六四年以後、というのが当時の情報機関の推定であった。実際には、これらの推定は的はずれもいいところであった。ソ連の最初の核爆発は、そのわずか数か月後に迫っていたのだし、JCSによれば、一九五二年の段階で、ソ連が保有する運搬可能な原爆はすでに五○発にも達していたのである。

 終戦直後のこの時代、アメリカの情報機関の対ソ活動予測はでたらめも多く、完全に問違っていることもしばしばあった。もしトルーマンが彼の「神聖なる信頼」−原爆のことをトルーマンはこう呼んでいた−についての情報をもっと多くの人々と分かち合うことを認めていれば、ワシントンの推定はもう少しましなものになっていたかもしれない。しかし実際には、二人の閣僚と原子力委員会委員長からなる三人委員会のほかには、わずかひとにぎり−たぶん、文宇通り一○人前後−−の軍人しか、アメリカは何発の核兵器を持ち、有事には何発製造できるかといった、アメリカの正確な核能力を知らなかった。ソ運がいつ最初の原爆をつくるかという具体的問題については、トルーマンはマンハッタン計画をひきいたレスリー・グローブズ将軍の誤った言葉を真に受けていた。グローブズは困難な戦時条件下でアメリカの原爆計画を成功させたエンジニアであり、優秀なマネジャーである。だが、彼には国際政治分析の経験はほとんどなく、その能力もなかった。ソ連は後進国だし、そのうえ、戦争でひどく痛めつけられているので、原爆をつくるのは至難のわざだろうとグローブズは考えていた。またグローブズは、アメリカとイギリスが当時のベルギー領コンゴのウラン埋蔵量をほとんど買い占めてしまったため、ソ連の爆弾製造屋たちは原爆に必要なウランを見つけることはできまいと信じていた。地質学者なら誰でも容易に反論したことであろう。ソ連の広大な大地のどこかには必ずウランがあるはずであった。いずれにしろソ連は、すでにチェコスロプァキアの豊富なウラン鉱を利用できる立場にあったのである。グローブズはこれを無視し、ソ連が原爆を製造するには二○年かかるとトルーマンに進言したのであった。こうしてグローブズは核軍備の増強と核戦争の計画を監督する仕事から大統領を遠ざけることに貢献したのである。

つづく