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SIOPについてー4
掲載、第4回目です。
いままでBー36爆撃機が現役だった時代における爆撃目標について、資料を紹介してきましたが、もう1冊紹介したいと思います。SIOPとは(Single Integrated Operational Plan)すなわち単一統合作戦計画の略です。なぜ単一かというとアメリカの全3軍の核兵器を使用する唯一の戦争計画だからです。この本には第二次世界大戦終了後の冷戦黎明期から1980年代前期までの戦争計画について書かれています。
SIOP
アメリカの核戦争秘密シナリオ
ピーター・プリングル/ウイリアム・アーキン 著
山下 史 訳
朝日新聞社 1984年 刊
(Pー50)
◆ルメイが育てた戦略空軍
ルメイの部下たちが全米一の戦闘部隊へと成長しつつあったオフアット空軍基地では、そのような無関心はどこにも存在しなかった。ルメイの言によれば「原爆の何たるかについて空軍を教育するには少々時間がかかった」が、「それが十分に浸透し、われわれは現実に行動をとりうる立場にあることを認識した後では、(原爆が)彼らの心をとらえ始めた」。ルメイはクルーの訓練と戦争計画の立案という二つの任務をもっていた。1948年には戦争計画は一つもなかった。「そのことでたいして心配はしなかった。いずれにしろ彼ら(米空軍)は、戦争能力をいっさいもってなかったんだから」とルメイは語っている。「ゲティスバーグ周辺の高地に展開して攻撃を間始するといった一般約な性格のものはあったかもしれないが、私が理解するような戦争計画、つまり、どの目標を破壊し、どういうタイミングで、どこから、どの部隊が攻撃をしかけるか、といったことの詳細な計画はまったくどこにもなかった」。
戦争計画がまとまるにつれて、ルメイはその内容を他人に知らせることを嫌がった。ペンタゴンの高官相手のSACのブリーフィングですら、あまり内容には触れなかった。ブリーフィングは、第二次大戦中の米空軍戦略爆撃記録の歴史的検討から始まるのが常でみった。まず(米爆撃機の)ドイツでの驚くばかりの損失を示した後、原爆使用という結果にいたった迅速かつ断固とした対日航空作戦との比較が行われた。四九ヶ月におよふ対独作戦でアメリカの失った爆撃機は一万機(英空軍の損失は一万二○○○機)であるのに対し、日本に対する14ヵ月間の航空作戦での損失はわずかに385機であった。クルーの高度な訓練の必要牲が大々的に強調された。そのために、敵領空で撃墜された場合、クルーはどう行動するかの訓練として、過酷なサバイバルコースも設けられた。各クルーはネプァダ州の人里離れた砂漠地帯に送られ、持ち物といえば「魚のつり針二、三本とポケットナイフだけ」で放り出された。彼らはSACの「敵部隊」を避けつつ、自力で「自由の地」へと帰って来なければならなかった。この訓練はSACの一将校がいったように、「ほんものの男と青二才を区別」するのに役立った。
SACに着任早々、ルメイは、「誰ひとりとして真に任務をまつとうできる者はいない」ことを発見してショックを受けた。それに対するルメイの回答は、届辱感を利用し進歩には報いるという、伝統的な軍隊訓練規範を実行することであった。SACのクルーに自分たちの駄目さかげんを思い知らせるため、ルメイはオハイオ州デイトンに対する作戦任務を組織した。「全部隊にこの任務をやらせたが、説明通りに遂行できたクルーは一つとしてなかった」と、ルメイは回想している。「誰もが自分の仕事はこうだ、と納得した後、ようやくわれわれは腰を掘えてそれなりのことをなしとげた」。ルメイはクルーの段階評価システムを導入した。最良の乗組員は「セレクト」クルーであり、その次は「リード」クルーと呼ばれた。セレクトクルーのメンバーは誰でも、優れた行動をとれば「スポット」(その場での)昇進を受けられるが、なんらかの理由でセレクトクルーがその特別な評価を失うようなことがあれば、「スポット」昇進したクルーの全員は自動的に元の地位に格下げされた。各セレクトクル−とリードクルーには、ソ連の一つの目標についてのデータがはいったターゲットホルダーが渡され、彼らはあらゆる可能な攻撃方法の検討と研究を積み重ねた。アメリカ市民が平和な眠りをむさばっている間、SACのクルーは地上レーダーによる爆撃評価ユニットを使って、全米の工業地域を目標に模擬爆撃競争を行った。このユニットは、攻撃目標に近づく爆撃機を追跡し、爆撃手がいつ爆弾を投下したかに応じて得点を与えた。訓練は仮借なく行われた。ルメイのような戦争計画立案者たちは、文明の未来は自分たちの手中にあると信じて疑わず、自らの役割が至高の垂要牲をもつと思えば思うほど、その役割が奪われることを恐れていた。彼らは、海軍も遅かれ早かれ核問題に口をさしはさみ始めることを知っていた。海軍は空軍におとらず、多くの原爆運搬可能な航空機をもっていた。また海軍には潜水艦があり、やがては潜水艦発射ミサイルで核弾頭を発射するようになるであろうから、なんとしても海軍に先んじねばならなかった。海軍の一幕僚は一九四八年にこう警告している。「もしグレイハウンドのバス会社が他にぬきんでて優れた原爆運搬能力を示せば、仕事は彼らのものになるだろう」と。
ソ連に封する目標は、都市、工場、港湾、空港などの種類別と、ソ連の戦闘能力からみた重要度に応じて暗号化された後に、毎年準備される緊急戦争計画のなかにリストアップされた。目標には特殊なコード名がつけられた。「ブラボー」はソ連の核攻撃能力を「鈍らせる」目標−−そのほとんどは空港−−を意味し、「デルタ」はソ連の戦争能力にとって必要不可欠な要素を「破壊」する目標を表していた。1949年の北大西洋条約調印後あらたに「ロメオ」が付け加えられたが、これはソ連の西ヨーロッパへの進出を「妨害」するあらゆる目標を意味していた。1950年までは、デルタ任務−−主としてソ連の都市・産業基盤が目標−−が優先されていたが、ソ連の最初の原爆実験以後はブラボ−任務がルメイの攻撃目標リストのトップにおどり出てきた。
ルメイの時代に爆弾を運ぶ爆撃機はB36とB47であった。最初のB52航空隊が就役したのは、やっと1958年のことである。B36の航続距離は高度一万二○○○メートルで一万三○○○キロ、高度九○○○メートルで、一万四○○○キロであった。中距離のB47の飛行距離は、空中給油1回で九○○○キロ、二回で一万二五○○キロであった。1949年、「ラッキー・レディー・ツー」と命名されたB50の原型機が、空中給油を受けながら初めてノンストップで地球一周飛行を行った。この37万五二三二キロの飛行には九四時間を要した。飛行終了後ルメイは、アメリカは「地球のいかなる場所にも必要とあらば原爆を運ぶ」ことができる、との所見を述べた。搭載爆弾は長崎に投下されたマーク3型「ファットマン」プルトニウム原爆とさして変わりないものであったが、徐々により軽くより強力になりつつあった。1948年から49年にはマーク4型原爆が製造され、1951年には初の大量生産核兵器マーク6型がアメリカの核兵器の仲間人りをした。マーク6型原爆は重さ三八二五キロ(フアットマンよりほぼ九○○キロ軽い)、長さ三二五センチ、直径一五五センチであった。
まもなくルメイは、SACの爆撃手たちの目標攻撃能カに自信を深めるようになった。訪問者に対するSACの一般ブリーフェングでは、第二次大戦中にはおそまつなことでは悪名高かった爆撃命中精度について、おどろくほど楽観的ないくつかの予測が見られるようになった。たとえば1941年には、英空軍の爆撃手たちにとって目標から半径八キロ以内に爆弾を投下することは困難であった。また1946年、太平洋での最初の原爆実験のときには、オレンジ色に塗られて静止している目標の「戦艦」から八○○メートル以上もそれてしまったのである。だが、1950年代の初頭、SACは(視認なしで)レーダーを使った爆撃の場合は、爆弾の五○パーセントを目標からおよそ400メートル以内に、実際に目標が見えれば180メートル以内に投下することができると誇っていたのである。セレクトクルーにいたっては、さらに巧みであるといわれていた。ルメイはまた、SACの爆撃機はソ連の防空網をしのぎうるとの自信も持っていた。SACが行ったアメリカヘの模擬攻撃のなかで、多方面から同時に早期警戒レーダースクリーンを襲う重爆撃機の連携攻撃による侵入を阻止するのは、きわめて困難であることが明らかにされていた。SACの用いる電子対抗手段、たとえば爆撃機から投下される「チャフ」と呼ばれる金属片は,ソ連の新型誘導ミサイル用レーダーに対して効果的であることが示された。というのも、レーダーは爆撃機と「チャフ」とを見分けることができないからである。