AZ−1がCLASSIC MAZDAの対象となるには?
これ、マツダのパーツ復刻事業。文面を読んでくだされ。
以上の文面を見ると、「どんなマツダ車もずっと乗り続けることができるサービスを受けることができる」と読める。が、実際には優先順位があり、現時点で優先されている車はロードスター、FC・FDのRX-7ということなのだろう。ではAZ−1がCLASSIC MAZDAの1つに組み入れられるにはどうあるべきかだが、今回の展示を見る限りでは、前ページで紹介した「人とクルマの感動的・感傷的な繋がり」を語る感動話が成立していないと難しいのではないか、と感じた。
そこで、AZ−1なりの感動話の骨子を考えてみた。
希少絶版車である。将来部品が無くなって困るのも自明である。
だからこそ、多くの仲間とともに様々な情報を蓄積し続け、みんなで活用しあっている。
現在の目標は、100年・100万キロ乗り続けること。
私の代では達成困難な目標なので、自分の子供に車を引き継がせていきたい。
ポイントは、人とクルマの関係が個人対AZ−1との関係ではなく、大勢の同志対AZ−1との関係となっている点。また偶然の産物としての話ではなく、情報の蓄積・子供への引き継ぎなど意図して永続的な話になっている点。目標が定量的である点。逆に今までの感動話とは異なり、ひたすら享楽的に車とともに生きてきたことを語る話にはなっていない。上記の例は、マツダの意向を踏まえつつも3つの感動話とはかぶっていないので、新たな感動話として加えてもらえる素地は十分あると思うのだが、いかがかな?? それとも計画性のある取り組みをしているのだから「部品復刻の優先順位は下がるよね」という話になるかな??
ここからはトヨタの取り組みと比較して、マツダの取り組みの意味を考えていこう。トヨタの取り組みは前回紹介した。「クルマを一途に愛するオーナーのために」。これ以上でも以下でもない純粋な言葉である。
以下は、前回紹介したトヨタでの取り組みである。
GR ヘリテージパーツプロジェクト
旧車パーツを最新技術で蘇らせるプロジェクト
復刻JP
無駄な感動話が必要なマツダよりも、ダイレクトに部品を作りまくるトヨタの取り組みの方が、落ち着く所に落ち着きやすい感じがする。
ではマツダの部品復刻にとって無駄な感動話の必要性とは何か? 恐らくマツダ内部で復刻を説得・決定するために必要なのではないかと想像する。「これだけたくさんの感動話がある=ニーズが大きい・潜在ニーズを掘り起こして売れるためリスクが低い」といった具合だ。
一方でトヨタの復刻部品を見ると、あまりニーズの無さそうなものも多くある。つまり少々のことは目をつむれる(リスクをヘッジする時間が無駄)ということだろうか。
最後になったが、AZ−1の場合は「部品が壊れた、だから新しいのを買う」以外に、「将来のため、部品は有るうちに買っておく」という消費行動も大きなウエイトを占めている点を指摘しておきたい。