片倉景綱 | 弘治三年(1557)―元和元年(1615)
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![]() 小十郎、備中。米沢八幡神社神主の子に生まれる。十九歳の折、伊達輝宗にその器量を見出され、梵天丸の近侍となる。政宗が家督を嗣いだ後は、軍事・外交に才能を発揮し、懐刀となった。天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣するよう政宗を説いた。のち、政宗より白石城を預けられた。一国一城令の後も、仙台城のほかに白石城のみ認められている。元和元年十月四日没。法名俊翁常英傑山寺。 |
伊達成実 | 永禄十一年(1568)―正保三年(1646)
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![]() 伊達実元の子。時宗丸、藤五郎、安房守。父実元は輝宗の叔父、母は輝宗の妹という関係で、政宗にとっては叔父であると同時に従兄弟でもある。伊達軍団一の勇将として幾多の合戦に参加。毛虫の前立ては、後ろへひかない、葉(刃)を食う、という意味が込められている。政宗とは気心知れた仲であるゆえに衝突もあったらしく、朝鮮の役後、伊達家を出奔し、その居城角田城が攻められるという事件が起こる。後に帰参し、政宗の子宗実を養子とする。これにより亘理伊達氏の祖となり、席次は一門中の第二位を占めるにいたった。正保三年六月四日没。法名久山天昌雄山寺殿。著書に『成実記』がある。 |
茂庭綱元 | 天文十八年(1549)―寛永十七年(1640)
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家格 | 代表的な氏族 | 備考 |
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一門 | 亘理伊達氏、涌谷伊達氏、石川氏、白石氏、亘理氏、留守氏、岩城氏、白河氏、三沢氏 | 一門は、「伊達世臣家譜」によれば、十一氏がある。このうち半数は政宗によって取りたてられた者たちで、伊達氏血族が圧倒的である。 |
一家 | 片倉氏、泉田氏、 | 仙台藩二代忠宗の時に、片倉氏は一門に昇格。 |
準一家 | 松前氏、福原氏、猪苗代氏、芦名氏、 | 伊達家に従属した他家の領主級の氏族が連なる。待遇は一家に準ずるが、家格としての位置づけは比較的後年のことであった。 |
一族 | 石母田氏、坂氏、上郡山氏、増田氏、国分氏、飯田氏、石田氏、砂金氏、大内氏、片平氏、中島氏、 | 「伊達世臣家譜」によれば、二十二氏。 |
宿老 | 遠藤氏、後藤氏、原田氏、富塚氏、津田氏 | 戦国期には十数氏があったが、一家への昇格・断絶なでにより、「伊達世臣家譜」によれば、三氏が代々宿老として存続している。 |
着坐 | 政宗以後に成立。「伊達世臣家譜」によれば、二十八氏。 | |
太刀上 | 政宗以後に成立。「伊達世臣家譜」によれば、十氏。 | |
召出 | 政宗以後に成立。「伊達世臣家譜」によれば、一番坐三十八氏、二番坐五十一氏。 | |
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