短編小説 

『ニルヴァ一ナ』

 

森本 優

2023.8.14


 「死に切れた人とはどんな人かしら、死んでも生まれ変わり六道輪廻の内で踊り続けなければならないなら」

 

 所詮この世は虚仮、太く短く生きてやろうと思っているA子。ある寺の一人娘で東洋哲学専攻の19歳の大学生である。世界で最も不幸な者は死に切れない者だとの趣旨の一節を読んでから気になっていたので、ある研究室で教員のB男に尋ねてみた。

 A子の質問に目を輝かせたB男。大学院生の時突然休学して放浪の旅に出てしまったが、今では大学の教員に収まっていた。

 

 「ただ死んでも涅槃には至れない。その涅槃のサンスクリット語ニルヴァ一ナの語源を分析すると、風の止む状態がその意味になる。すなわち生命の風が全く吹かなくなった真空状態が涅槃ということ」

 「じやあ、死に切れた者とはニルヴァ一ナに至った者と考えていいのかしら」

 「この宇宙は138億年ほど前のインフレ一ション期とその後のビッグバンによって生じ、物質の相互作用によって生成・膨張してきたと考えられてきたけど、その認識は人間の直観形式・思考形式を通してのもの。感覚を材料として、時空における物質の運動・変化および因果律によって我々は現象世界を描かざるを得ないということを自覚する必要があるね」

 「最近宇宙物理学では、説明できない現象を謎のダークエネルギ一という概念を持ち出して説明しようとしている。知り合いの夢想家M君の話では、私たちが描き出しているこの物質的宇宙は、波動の海に漂う無数の浮島の世界だと言っている。そしてこの宇宙を球体の表面上に展開する二次元的な世界に置き換えるなら、そのダークエネルギ一は球体の中心部から湧き上がり、この物質的宇宙の至る所に働きかけているはずだ、と言うの」

 「ダ一クエネルギ一については、謎が多くて、その存在に対して疑問符をつけている学者もまだいるようだね」

 「宇宙そのものを三次元以上の多次元空間としてとらえる必要があるのは、ダ一クエネルギ一を柱とした宇宙エネルギ一の捩れ・歪みを三次元空間では表現しきれないからだとも言っていたわ。でも、彼のいうその中心部とはどこにあるのかしらね。高次元空間ということかしら」

 「確かに多次元空間が存在しているとしても、それらは三次元のものも含め、宇宙エネルギ一の実体に則したそれぞれの次元からの一面的な影なんだろうと僕は考えるけどね。そしてそれらの影を生じさせているマトリックスはその中心部にあるんじやないか。でも、三次元世界に繋がれている僕たちには、その中心がどこにあるのか空間的には全く特定できないはずだよ。飛躍しているかもしれないけど、物質的宇宙だけでなく知覚することのできない働き、すなわち彼のいう波動の海も含め、宇宙全体を被統一面とするなら、宇宙エネルギ一の産物である多次元なり高次元なりの空間からは超越した場所こそがその中心だとも考えられるね」

 「その超越した場所がニルプァ一ナということかしら」

 「古代インド哲学のある学派では、この全宇宙は統一的一者の吐く息で支えられていると理解した。すなわち全宇宙は風である。そして、その生命の風は今も泉のごとくこの全宇宙の至る所から吹き上がりつつあり森羅万象を支えているのだと。とすれば、生命の風となって統一され踊らされつつある以上我々は、たとえ全宇宙を彷徨うたとしても決してニルヴァ一ナに至ることはできないことになる」

 「でも、統一された宇宙から統一するものの内奥を辿ってニルヴァ一ナに至ることはできないのかしら。颱風の目のように真空地帯はあるかもしれない」

 「我々個々の内奥にこそそのものへ至る道は開かれているはずだから、そのような真空地帯に分け入ることができるかもしれない。仏陀の悟りとは、内的体験によってそのような真空地帯から全宇宙の実相を俯瞰したものかもしれないね」

 

 そう聞くとA子は、すべては己の内にある、ニルヴァ一ナは己の内にあると呟きながら研究室を後にしたのであった。

 その夜、A子はなかなか寝付けなかったが、今まで抱いていた漠とした霧のような虚しさの感情に何らかの光が差し込んでくるのを覚えていた。

 

 翌早朝A子は不思議な夢を見た。

 A子は一本の樹の上に立っていた。周りを見渡すと一面が田んぽで、早苗が分げつし出して葉を天に向かって伸ばしていた。その姿は地中から這い出してきた地蜘蛛のようにも、また人間のようにも見えた。しばらくするとその樹は大樹となり、その上に立つA子はあまりにも高いところに立っていたので恐怖さえ感じた。すると突然甲高い女性の声が聞こえてきたのである。

 「それらはあなたを慕う者たちです。あなたたちにはこの地球を立て直すための大切なお役目が課されているのです」

 その音声の反響が消え去るかどうかの間合いで、一首歌が詠まれていた。

 

「すゑのよにひととあれますうつくしの

なれはかぐのみくにのみはしら」

 

 早朝目覚めても、はっきりと、というより現実以上に、その夢のことがA子の心の内に刻み込まれていた。寝室の窓のカーテンを開けると、白山連峰の山の端にかかる雲からはうっすらと白光が滲んでいた。

 

つづく※

※参考資料 てるてるひめ物語2006

 


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