「まちの憲法」について

 

甲府市自治基本条例策定の極私的経過報告その3

 

森本 優(2006/02/20)


「まちの憲法」について

H18.2.5

 

森本です。

「つくる会」の皆様ご苦労様です。

以下の一、二の通り、提案と質問を致します。

 

一、策定グループに対して提案します

 

 今後は、庁内グループ・研究会と一緒に、今までに出て来ている私案をタタキ台にして、それらを実際に運用した場合に生じて来るであろう問題点を拾い上げて論議し、その過程でPI活動で得られた意見も参考にしながら、修正等を加えてゆくべきだと考えます。

 例えば、議会に附属機関を設置する案の場合、事務局の充実化では対処できないのか、また、二元代表制の馴れ合い構造はどうするのか、また、行政側に参加する市民と議会側に参加する市民とに分かれるが、市民の力が分散されないか、等々です。

 また、地域分権案の場合、分権のメリット・ディメリットは何か、また、いかなる権限を、どの程度の範囲のブロックに移譲し、その権限行使の監視システムをどう整備するのか、等々です。

 また、市民共同の独立常設協議機関の場合、分担された仕事を一から十まで全て当該機関で処理することは不可能なので、その機関を核により多くの市民に参加して頂くためのシステムをどのように整備してゆくか、等々です。

 理想論だけでなく、自治基本条例施行後に、はたして仕組みが現実問題としてうまく回ってゆくかどうかシュミレーションする必要があります。その過程でPIからの意見も入れて素案の骨格を具体的に煮詰めてゆくべきだと考えます。 

 また、甲府市自治基本条例が市民にとって身近で使い勝手の良い満足のできるものである必要があり、そのことも充分配慮されるべきだと考えます。

 

二、「まちの憲法」に関してA先生に質問します

 

 この論点は、甲府市自治基本条例の理念と「組織政策」に深く関わってきますので、あえて質問致します。

 先生は、先日「つくる会」で配布されました「組織政策における条例の位置と可能性」という題の論文のなかで、「まちの憲法」という言い方に疑問を呈されています。(2ページ中段の終りごろから下段にかけてを参照。)

 論旨を要約すれば、以下の通りです。

 

 『近代立憲主義の憲法は、個人の権利や自由を守るために国家権力を縛ろうという制限規範性をその特質として持つので、「国民と国家とを対立してとらえた」ものと言える。そのため、憲法のこの制限規範性に着目すれば、自治体レベルでは、地方政府と住民との対立と言うより「協働」「協治」が求められており自治基本条例はそれを前提に策定されるべきなのだから、上記の憲法の制限規範性は自治体レベルではあえて問題とすべきではなく、よって、「協働」「協治」を前提とした自治基本条例は「まちの憲法」であるとは言いにくいのではないか。』

 

 さて、以上のような論証対して、以下の二通りの反論も可能です。

 

 第一に、個の尊厳から派生する個人の権利・自由こそが憲法の根本的な目的なのであり、憲法の制限規範性は、その個人の権利・自由を守るために必要なものとして認められた手段としての意味合いを持っています。

 そのため、自由という目的を達成するために、その手段としての制限規範性が、国家レベルと自治体レベルとでは、全く異なって発現してきても何らおかしくないのです。

 すなわち、国家レベルの場面と自治体レベルの場面とでは、住民(国民)と政治との距離に雲泥の差があるため、自治体レベルでは、地方分権が進めば進むほど、住民自身に参画する権利を保障し、住民と自治体との「協働」「協治」の機会も多くなってくるはずです。

 特に、自治体レベルの場面では、住民自らが自治体運営に参加することで自らの権利・自由を確保してゆくことができる側面が国家レベルの場面より非常に強くなることを考慮するなら、この「協働」「協治」という現象は、個人の権利・自由を確保するために参画する権利が住民に与えられることから生じて来るものなのであり、従って、このような「協働」「協治」の機会を自治基本条例で保障することは、正に、憲法の目的の実現のためであると言うことができるのです。

 であるならば、個の尊厳に基づく自己実現と個人の権利・自由の保障とを前提として、住民の参画する権利を謳い、そのための仕組み(「組織政策」)を整えて、多くの「協働」「協治」の機会を予定している自治基本条例は、正に「まちの憲法」と呼ぶに相応しいと考えます。

 

 第二に、国家レベルであれ、また「協働」「協治」が前提となる自治体レベルであれ、権力から無力な個人の権利・自由を守るために国家権力を制限する必要性は、現代でも何ら変わらないと考えます。

 これは、自治体レベルであれ、また地縁団体レベルであれ、古今東西を問わず、個人なり集団なりが強大な権力を握った時様々な障害が発生してきていることからも明らかです。

 従って、制度的に権力を分散させ監視・抑制させる装置は、自治基本条例策定時においても自覚的に準備してゆく必要があると考えます。

 因みに、実際はあまり機能していないようですが、二元代表制における機関対立は、この思想の現われのはずです。

 以上からすれば、憲法の制限規範性は自治体レベルでも当然前提とされなければならず、よって、制限規範性という側面からしても、そのことを前提とする自治基本条例を「まちの憲法」と呼んでも何らおかしくはないと考えます。

 

以上問題提起します。

ご意見等頂ければ幸いです。

 


質問の意図について

H18.2.16

 

森本です。

 A先生、丁寧なご返答ありがとうございました。

 前回の森本からの質問の意図が充分明確でなかったことをお詫びします。

 (因みに、甲府市自治基本条例をどう呼ぶかについては、森本としてもさほど問題とはしていません。)

 今回、改めてその意図を簡潔に二点に絞って提示したいと思います。

 

 第一点は、これは「つくる会」での議論の有無・性質に対してですが、先生のご意見なり御説なりが無批判に受け入れられ「つくる会」の判断の前提となってしまうとしたら、問題ではないかと言うことです。

 すなわち、「つくる会」の会員は、もっと議論を尽くすべきだと考えます。

 議論が深まれば、それぞれの前提としているもの、及びそれぞれの思考過程が明らかとなってきますから、それらに対してメスを入れ検証していくことも容易になります。

 そこで、前提があやふやだったり論理に矛盾や飛躍などがあれば、それらを修正してよりよき判断に至る事ができるはずです。

 そのように、各会員はある一つの説を鵜呑みにするのではなく、自らの頭で考えて議論を重ね、議論を尽くすべきだと前回感じたからです。

 

 第二点は先生の御説に対して森本自身が個人的に危惧感を抱いたからです。 すなわち、「個」と言うものを全く無視し、「協働」「共同」「協治」等への流れのみを重視して、論理を展開し「組織政策」なり制度なりを準備していった場合、そのような「組織政策」なり制度なりは、何らかの切っ掛けからいとも簡単に全体主義的管理システムに転化しないかということです。

 これは、地縁団体に権限を移譲する地域分権が末端にまで進められた場合、互いに強く補完し合うになるものと考えています。

 町内会・自治会内で戦前・戦中の隣組制度が事実上復活し、「協働」「共同」「協治」等という美名の下に個人の自由は圧殺されることになるからです。 (「地域内分権に対するある一つの視点」参照)

 世の中が急速に全体主義的管理社会へと流れ込んでいる事実からすれば、当然、時勢を反映した学説が力を持ってくるものと思いますが、私たちは、ここでもう一度存在の原点に立ち戻り、敢えて「個の尊厳」(憲法第13条)を何度も何度も繰り返して再確認していく必要があるのではないでしょうか。

 そして、「協働」「共同」「協治」等は、「個の尊厳」を前提とし個を確立した人たちが中心となって進めるのでなければ、時代の流れの中で全体主義的管理社会に道を開くことになるのはほぼ間違いないとさえ森本は考えています。

 

以上です。

皆様のご意見等頂けましたら幸いです。

 


甲府市自治基本条例をつくる会会議録

 


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