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ニコライ・イワノヴィッチ・コストマーロフ

1817-1885


著名なロシアの歴史学者。1817年5月4日オストロゴジスキー郡ヴォロネージ県ユラソフカ村生まれ。父親はその地方の地主、母親はウクライナ農民の娘で、農奴となる前にモスクワにある全寮制中学校の一つで学んでいた。コストマーロフの父親は後に彼女と結婚したが、コストマーロフは正式な結婚の前に生まれ、父親は彼を養子縁組するつもりであったが、そうできずに終わった。コストマーロフの父親は18世紀フランス文学の称讃者であり、その思想を、若い息子にも召使いにも伝えようとしたが、同時に厳格な地主でもあった。1828年、父親は召使いに殺害され、蓄えた資産も盗まれた。母親はコストマーロフをヴォロネージの寄宿舎学校に送ったが、腕白さのかどで放校された。ヴォロネージ公立中等学校を卒業し、1833年にハリコフ大学の学生となった。

既に学習最初の年、父親のもとではさほど長い間学ばなかったコストマーロフの目覚ましい能力ゆえに、モスクワの寄宿舎学校の教師は、奇跡的な子どもという綽名をつけた。コストマーロフの天性の自然な快活さと、当時の教師のレベルの低さゆえ、勉学への真剣な興味は抱き損ねた。ハリコフ大学での最初の一年目、当時の歴史哲学科は、専門的職業として天賦の才が輝いていたわけでもなく、コストマーロフにとって、この点でギムナジウムの教育とさほど異ならなかった。彼は古典的古代と、新しいフランス文学に熱中したが、適切な指導も体系もなしに学んだ。コストマーロフは後に、自分の学生生活を「混沌」と呼んだ。

1835年ハリコフの世界史教授にM.M.ルーニンがいた。彼の講義はコストマーロフに深い影響を与えた。コストマーロフは情熱を持って歴史の研究に取り組んだが、自分の職業については、まだ漠然としか意識しておらず、大学卒業後軍務についた。しかしながら、それに対する適性の欠如が、彼自身にも上司にも間もなく明らかとなった。連隊が駐留していたオストロゴジスキー市の郡裁判所の蔵書研究に興味を抱き、コストマーロフは、村のコサック連隊史を書くことを思いついた。上司の助言に沿って、1837年の秋連隊を止め、歴史的な教育を終えるべく再びハリコフにやってきた。今度はたゆまぬ努力の結果と、ルーニンの影響もあって、コストマーロフは当時のロシア歴史学者達が抱いていた主要な見解と大きく異なる歴史観を展開しはじめた。国家の歴史ではなく、人々と精神的な生活の歴史という考え方がコストマーロフの基本的な思想となった。

歴史の内容についての概念を変更しつつ、典拠の範囲をも拡大し、《過去の年代記と記録だけではなく、生きている民衆》を研究した。ウクライナ語を学び、ウクライナの歌と、当時はごく僅かしかなかったウクライナ語文学の書物を読み直した。《ハリコフから近隣町村の酒場への民族誌的調査》を行った。コストマーロフは1838年春モスクワでシェヴィーレフの講義を聴講することにより、民族に対するロマンチックな態度をさらに一層深めるにいたった。彼はイエレーミン・ガルキという筆名でウクライナ語で論文を書き始め、1839―1841年には、二つの戯曲と詩集の原作と、翻訳をいつくか刊行した。1840年に彼は学士試験諮問に合格し、1842年には学位論文《西方ロシアにおける連合の価値について》を刊行した。ハリコフの大主教インノケンチイ・ボリソフによる、論文内容は言語道断であるという意見のおかげで、予定された諮問は行われなかった。若干の拙劣な表現についての会話が行われたに過ぎなかったが、ウストリャーロフ教授は、文部省の依頼により、コストマーロフの研究論文を焼却すべしと命じた。

コストマーロフは学位論文をもう一つ書いていた。《ロシアの国民詩の歴史的価値について》であり、それは1844年の始めに論文として審査に合格した。この論文の中では、ウクライナ文学の再興を夢見るという点で熱意を共有していた、若いウクライナ人のサークル(コルスン、コレニツキー、ベツキー等)との近しい交流のおかげで、より明確な視点を取っていたコストマーロフの民族誌学に対する意欲に素晴らしい表現が見いだせる。二本目の論文を書き終えるやいなや、コストマーロフは新たなボグダン・フメリニツキーの歴史に関わる研究に取りかかり、中等学校の教師が述べた場所、彼によって描かれた出来事がおきた地域、つまり最初はロブノ、次ぎにキエフ(1845)を訪れたいと願った。

1846年キエフ大学はコストマーロフをロシア史の教師に選任し、彼は講義を開始したが、その年の秋からたちまち聴講生の興味を惹きつけた。キエフでもハリコフ同様に、彼を中心に、民族という意識に熱心で、それを実行に移そうと考える人々のサークルが作られた。このサークルには、P. A. クーリシ、А. F. マルケーヴィッチ、N. I. グラーク、V. M. ベロゼルスキー、タラス・グリゴーリエヴィッチ・シェフチェンコがいた。会員達は自分たちの祖国における内的進歩という最終的な希望と結びつけ、民族性についてのロマンチックな解釈に熱中しており、汎スラブ互恵主義を夢想していた。《スラブ民族の互恵主義は、-後にコストマーロフはこう書いている-、我々の想像の上では、もはや科学と詩の分野に限定されず、将来の歴史の中で具現化されるべきイメージとして現れている。我々の意志と無関係に、スラブ民族の社会生活の最も幸いな流れとして、我々は連合体制として立ち現れるのだ。》
この思想を広める目的の仲間内サークルは、協会へと変貌し、キリル-メトディウスという名を得た。会員の会話を盗み聞きした学生のペトロフが彼らを密告した。彼らは逮捕され(1847年の春)、反逆罪のかどで告発され、様々な罪に問われた。

コストマーロフは、ペトロパヴロフスク監獄に一年間収容され、《軍務につくべく》サラトフに送られ、地方警察の監察下に置かれ、以後、教育をすることも、著作の刊行も禁じられた。理想主義も、仕事をするエネルギーも、能力も失わなず、サラトフでコストマーロフは《ボグダン・フメリニツキー》論を書き続け、16世紀から17世紀のモスクワ公国の内的生活について新たな仕事を始め、民族誌学的調査旅行を行い、歌と伝説を収集し、反体制派や分離派と親しくなった。1855年、ペテルブルクでの休暇が認められ、その機会を利用してフメリニツキー研究を完成した。

1856年、著作の刊行を禁じるという戒めは解かれ、監察もされなくなった。海外旅行をおえ、コストマーロフは再びサラトフに居を定め、《ステンカラージンの乱》を著し、農民生活向上の為の地域委員会の事務員として働き、国家改革の準備に取り組んだ。1859年春、彼はペテルブルク大学のロシア史教授職に招請された。依然としてのしかかっていた教育活動の禁制は、文部大臣E. P.コワレフスキーの斡旋によって取り除かれ、1859年11月にコストマーロフは大学での講義を開講した。コストマーロフが最も仕事に励み、最も人気を博した時代だ。

既にロシア大衆の間で有能な作家として知られていたが、今や強力で独特な才能を持った教授として、歴史の精髄と問題点に対する独自の新たな視点を叙述し、提起した。コストマーロフはこうして、講義の基本思想をうち立てた。《教授職に就いて、私は講義において、まずは民衆生活のあらゆる側面に光をあてるべく留意した...ロシアという国家は、独立して生活していた人々という断片から構成されている、その後も、そうした個人生活部分は、全般的な政治体制に対して、優れた意見を表明している。ロシア国家の民衆生活のこうした特徴を見いだし、把握することが、歴史に従事する私の課題である》。

この考えの元、コストマーロフは、モスクワ公国形成の歴史について独自の見解を持つに至ったが、これはスラブ派やS.M.ソロビエフらが表明していた見解と鋭く対立するものだった。同様に、民衆にたいする神秘的な崇拝や、国家としての地位の理想に一方的に熱中する立場とはほど遠く、コストマーロフは、モスクワの政治体制形成に至った諸条件を明らかにしようとするばかりでなく、その形成の特徴を、それ以前の生活に対する態度、国民大衆に対する影響をも細かく規定しようとした。この視点から見たモスクワ公国の歴史は、他の歴史家達によるイメージよりも陰鬱な絵柄となり、原典によって得た批判的態度から、コストマーロフの思想は間もなく、それまでは強固に確立したものと見なされていた目覚ましい個々のエピソードの不確実性へと到達した。コストマーロフはいくつかの結論を新聞雑誌で述べたが、それに対しては強い非難が起きた。大学における彼の講義は前例のないほどの大成功で、多数の学生のみならず、外部聴講者まで惹きつけた。

1860年、彼がリトアニアに由来するとしていた、ロシアの起源について、ポゴージンからの公開討論への呼びかけに答えた。3月19日大学構内で行われたこの討論は、何ら前向きな結果を生まなかった。論敵達は意見を変えようとはしなかった。同じ頃、コストマーロフは古文献学の会員達によって委員に選出され、十七世紀ウクライナ史に関する会報の編集出版を引き受けた。これら文書を出版の為に準備しながら、それを元に、結果的にフメリニツキー時代以来のウクライナ史となる多数の専攻論文をものした。彼はこの仕事を最期まで継続した。彼は雑誌にも参加し(「ロシア世界=ルースキー・ミール」と「同時代人=サブレメンニク」)、講義摘録や、歴史論文を掲載した。彼の立場は、むしろペテルブルク大学とジャーナリストの進歩派にかなり近かったが、自分が民族に対するロマンチックな思想とウクライナびいきの思想を保持していたのに、彼らは経済問題に熱中していたため、彼らと完全に一体化することはできなかった。彼に最も近しい組織は、ペテルブルクのキリル-メトディウス協会のかつてのメンバー数人による「Osnova=基礎」で、そこに彼は、ウクライナ民族独自の価値の優秀性を見いだそうとし、そうした価値を否定するポーランド人や偉大なロシア作家と討論することに専念した多数の論文を載せた。

ペテルブルク大学が、学生騒動の為1861年に閉鎖された後、コストマーロフを含む何人かの教授達は、(市議会で)自由あるいは移動大学という名前で知られている定期的な公開講座を組織した。コストマーロフは古代ロシア史を講義した。ロシア至福千年についての公開講義の後、パヴロフ教授がサンクト・ペテルブルクから派遣されて以来、市議会の授業運営委員会は、抗議として、公開講座の中止を決定した。コストマーロフはこの決定に従うことを拒否したが、次回講義では(1862年3月8日)、聴衆の騒ぎによって、中断を余儀なくされ、それ以後の講義は当局によって禁止された。

1862年にペテルブルク大学の教授職を去って以来、コストマーロフは政治的な信頼性を再び疑われ、二度と大学に戻ることはできなかった。それは主としてモスクワの「反動的」新聞雑誌による努力の成果だった。1863年にはキエフ大学から、1864年にはハリコフ、そして1869年には再びキエフ大学から招請されたが、文部省の指示の元、コストマーロフは、全てのこうした招請を断らざるを得ず、文藝活動にのみ限定するしかなかったが、「Osnova=基礎」中止の後、更に狭い枠の中に閉じこめられてしまった。こうした大打撃の後、コストマーロフは同時代に冷淡になり、結局、過去と古文書の研究へと向かった。

1863年には、コストマーロフのペテルブルク大学での授業に於ける講義の一つとして、「北部ロシアの民主主義」が刊行された。1866年には「ヨーロッパ通報」に、「モスクワ公国の動乱の時代」が掲載され、後に「末期ポーランド」が同じ雑誌に掲載された。1870年代の始め、コストマーロフは、「ロシア歌曲の国民的創造の歴史的価値」の研究を始めた。古文書保管所業務の軽減の機を捉え、1872年にコストマーロフは、「最も重要な人々の伝記からみるロシア史」の編集をおこなった。1875年、コストマーロフは重い病を患い、健康を大きく損なった。同年、アル・L・キセリ、旧姓クラーゲリスカヤと結婚した。彼女は1847年には婚約者であったのだが、彼が追放された後、別の男性に嫁していた。コストマーロフ晩年の作品は、豊富な長所にもかかわらず、才能がぐらついている痕跡も見られる。作品中、一般化は少なく、記述は、はつらつさに欠け、際だった人物の記述は、時として干涸らびた事実の羅列となっており、多少ソロビヨフ流を思わせるものがある。この時期、コストマーロフは、あらゆる歴史家は、自分が見い出した典拠と、審査された事実とを伝えることに帰するべきだという見解を述べている。彼はたゆみない精力をもって、亡くなるまで研究をつづけた。

辛い長患いの後、1885年4月7日に亡くなった。歴史家としてのコストマーロフは、生前も死後も、一度ならず強烈な攻撃に曝された。彼は、典拠の表面的な利用と、それに由来する一方的な視点という党派性を非難された。とはいえ実際のところ非難されるべき部分は、むしろささやかなものだ。いかなる学者においても些細な誤りは避けがたく、恐らくコストマーロフの著作においては、多少それが多かったといえるかも知れないが、これは彼の職業の並みならぬ多様性や、豊かな記憶力に頼るという習慣によって容易に説明がつけられる。コストマーロフの党派性が実際に現れているごく少数の場合、つまりウクライナ史に関するいくつかの研究については、一方で文学で表現している、さらに党派的な視点に対する、ごく自然な反応であった。さらに、コストマーロフが研究した資料が、歴史家の問題に対する彼の視点を実現することを、必ずしも常に可能にしたとは言えない。科学的な見地と共感をもった民衆の内的生活についての歴史家として、ウクライナ研究に没頭していたが、不本意ながら外部の歴史の叙述者でもあった。

ともあれ、ロシア史料編集の発展に於けるコストマーロフの全般的な意義は、何ら過大評価もなしに、絶大なものであったと言うことができる。彼によって民族の歴史という考えがもたらされたのであり、全著作においてそれが一貫して追及されている。コストマーロフは、それを理解し、主として民衆の精神生活研究を遂行した。最新の研究によって、この思想の内容はさらに拡大されたが、コストマーロフの功績がそれによって減じるものではない。コストマーロフのこの基本思想に関連して、更に別の側面もある - 彼は民衆の様々な部分の特徴を研究の必要性と、地域史の創生を主張してもいた。現代科学において、彼が民族の性格について、その不動性を否定して、若干の新たな視点をもたらしたとすれば、コストマーロフの研究は、地域史研究発達の開始を促した最後の誘因にだとすることができる。新たな豊饒な発想を、ロシア史の発達の中にもたらし、この分野における多くの疑問点を独自に探求した、コストマーロフは、その才能の特色ゆえに、同時に歴史的な知識の上で、民衆の重要性に対する生き生きした関心を目覚めさせた。熟考によって、研究対象の古代の中にほとんど入り込み、歴史を極めて輝かしい、くっきりとした絵柄で再現したので、読者を引きこみ、忘れがたいイメージを読者の頭に刻みつけた。コストマーロフという人物の中で、歴史家、思想家-芸術家と芸術家が、幸運にも合体したことで-彼はロシア歴史家の中でも最高の地位の一つを獲得したのみならず、読書大衆において最大の人気を確実なものとしたのであった。

                            Половцев А. А.

下記ロシア語Webページを翻訳したものです。参考文献は省略。2004年6月19日

http://orwell.ru/people/kostomarov/kni_ru

上記Webのトップページは、http://orwell.ru/a_life/index_ru


WAR IS PEACE
FREEDOM IS SLAVERY
IGNORANCE IS STRENGTH

戦争は平和だ
自由は屈従だ
無知は力だ
ВОЙНА - ЭТО МИР.
СВОБОДА - ЭТО РАБСТВО.
НЕЗНАНИЕ - СИЛА.
Nineteen Eighty-Four

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