1903 | 6月25日エリック・アーサー・ブレア(Eric Arthur Blair)、インド、ベンガル州、モチハリで、 リチャード・ウォームズリー・ブレアとアイダ・メーベル・ブレア (旧姓リムーザン)の第二子として生まれる。(姉マージョリーは1898年生まれ)父親は英領インド帝国政府阿片局官吏。 |
1904 | 母親に連れられ姉とイギリスに。一家はオクスフォードシャー、ヘンリー・オン・テムズで暮らす。 |
1908-1911 | サセックス、イーストボーンで英国国教会系のSunnylandsに学ぶ。 |
1911-1916 | サセックス、イーストボーンで、全寮制進学予備校、聖シプリアン校に寄宿。(Such Such were the Joys「楽しかりし日々」の舞台) |
1912 | 父親リチャード・ブレア、インド帝国政府阿片局を退職。イギリスに帰国。一家は、ヘンリー・オン・テムズ近傍のシップレークに転居。 |
1914 | 10月2日最初の作品 Awake! Young Men of England (詩)が新聞Henley and South Oxfordshire Standardに掲載される。 |
1915 | ブレア家ヘンリー・オン・テムズに再度転居。 |
1917 | (クリスマスから復活祭までのLent term)春学期をウエリントン校で過ごす。 |
1917-1921 | 3月パブリック・スクール、イートン校入校 King's Scholar(王室奨学金学生)。 |
1921 | 12月両親はサフォーク、サウスウオルドに転居。 |
1922 | 1月-6月インド帝国警察任用試験に備える為、サウスウオルドの予備校に入学。 年末からビルマでインド帝国警察に勤務。 |
1927 | 7月五ヶ月と20日の長期休暇をとりマルセーユ経由で帰国。 11月26日辞表提出。 |
1928-1929 | 1月1日警察を正式辞任。物を書きながら、後には皿洗いとして働きながら、パリで暮らす。 1929年3月肺炎のため入院。 |
1930-1931 | ロンドンとロンドン周辺諸州で放浪。Down and Out in Paris and London「パリ・ロンドン放浪記」の初期稿を書く。Adelphi に本名でエッセイ(The Spike「浮浪者宿泊所?」と The Hanging「絞首刑」) を寄稿。 |
1932-1933 | ミドルセックス州、ヘイズの小さな私立男子校ホーソンズ校で教える。 |
1933 | 1月9日最初の本Down and Out in Paris and London 「パリ・ロンドン放浪記」Victor Gollanczから刊行。筆名"ジョージ・オーウェル"を初めて使用。ミドルセックス州のフレイズ校で教鞭を執る。肺炎で入院。 |
1934 |
教職を辞する。サウスウオルドで10か月暮らす。
10月ロンドン、ハムステッドの書店二階に転居。 10月25日Burmese Days「ビルマの日々」アメリカで刊行。 |
1934-1935 |
ハムステッドの書店Booklover's Cornerでパートタイム店員として働く。
1935年3月11日A Clergyman's Daughter 「牧師の娘」刊行。30歳のアイリーン・オショーネシーと出会う。 1935年6月24日Burmese Days 「ビルマの日々」イギリスで刊行。 |
1936 |
1月-3月ヴィクター・ゴランツの提案でランカシャーとヨークシャーの工業地帯で労働者階級の生活と失業を調査。
4月ウオーリントンに転居。 4月20日Keep the Aspidistra Flying 「葉蘭をそよがせよ」刊行。 6月9日ウオーリントン、セントメアリー教会でアイリーン・オショーネシーと結婚。 7月ハートフォードシャー州レッチワースでI.L.P.(Independent Labour Party=独立労働党)サマースクールに学ぶ。 |
1937 |
1月-6月スペイン。Partido Obrero de Unificacion Marxista (P.O.U.M.=マルクス主義者統一労働党)アラゴン戦線分遣隊伍長。バルセロナで政府軍とアナキスト軍との市街戦に参加。狙撃され喉に貫通銃創を負う。健康上の理由によりP.O.U.M.名誉除隊。バルセロナにおける反P.O.U.M. 粛清逮捕からかろうじて逃れる。
6月23日フランスへ脱出。末にロンドン帰着。 3月8日The Road to Wigan Pier 「ウィガン波止場への道」刊行。レフト・ブック・クラブ版4万部。 |
1938 |
3月結核でケント州のサナトリウム入院。
4月25日Homage to Catalonia「カタロニア讃歌」刊行。 6月ILPに入党。 9月転地療養の為モロッコに行く。 |
1939 |
3月イギリスに帰国。
6月12日Coming Up for Air 「空気を求めて」出版。6月28日父親逝去。 |
1940 | 3月Inside the Whale「鯨の中で」出版。 5月ロンドンに転居。Time and Tide 及び Tribuneに評論を執筆。Local Defense Volunteers (Home Guards)地域防衛軍に軍曹として参加。 |
1941 | 2月The Lion and the Unicorn 「ライオンと一角獣」出版。 |
1941-1943 |
B.B.C.入局。東洋部インド課インド、東南アジア向け番組プロデューサー。 1943年3月19日母アイダ逝去。 |
1943-1946 | Tribuneの文芸編集者。 |
1944 | 6月 生後一ヶ月の養子を貰いリチャード・ホレイショ・ブレアと名付ける。 |
1945 |
3月-5月パリ、ケルンでのThe Observer 戦時特派員。
3月29日妻アイリーン、手術のための麻酔時に逝去。 6月-7月終戦後最初の選挙取材。 8月17日Animal Farm 「動物農場」刊行。 |
1946 |
2月Critical Essays 刊行。
5月ジュラ島、バーンヒルに転居 |
1947 | クリスマス・イヴに、左肺の結核でグラスゴー近郊Hairmyres Hospitalに入院。 |
1948 |
7月退院してジュラ島に帰る。
12月迄にNineteen Eighty-Four 「1984年」の校訂完成。 |
1949 |
1月、グローセスターシャ、クラナム、コッツウオルドのサナトリウムに入院。
6月8日Nineteen Eighty-Four 「1984年」刊行。一年目で40万部以上販売。 9月クラナムから、 ロンドンのUniversity College Hospitalに転院。 10月13日Horizon編集アシスタントのソニア・ブラウネルと病院で結婚。 |
1950 | 1月21日肺からの出血で University College Hospitalにて急逝。 1月26日バークシャー、サットン・コートニーの All Saints教会墓地に埋葬。 |
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'A chronology of the life and literary career of George Orwell, 1903-1950'
Copyright (c) Steven Kreis: 'The History Guide', 2000
E-mail: jstevek@nc.rr.com
元ファイルは以下の場所にあります。
URL: http://www.historyguide.org/europe/orwell.html
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参考文献:
人物書誌大系32「ジョージ・オーウェル」大石健太郎・相良英明編著、日外アソシエーツ刊、
「オーウェル暦年辞典」大石健太郎著、彩流社刊
イギリス地図(オーウェル紀行・イギリス編 甲斐弦著を参考に作成)ただし作成途中
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