やわらかな知識


 探鳥会で自然解説をしていると,たまに,解説者の知識量に感心してしまう人がいます。
 「よく知ってますねー!」と感嘆のひとこと。
 しかし,人間の脳の記憶容量なんて,そんなに大きな個人差は無いはず。それは単に,観察経験量の差に,最大の違いがあるのだと思います。言い換えれば,これまでにどのぐらい,自然や生きものに興味を持って注目してきた時間を持っていたのか,と言うこと。明治神宮探鳥会のスタッフは,たとえ参加者よりも若くても,自然観察の経験量,自然のことを調べて勉強した量は,はじめて探鳥会に参加した人に比べれば,圧倒的に多くて当然。そして,その経験を元に,自然解説をしているのだから,ある意味,「よく知っていなければいけない」と言う立場でもあるのだし…。
 しかし,明治神宮探鳥会のスタッフよりもたくさんの鳥を見ている参加者だって,たくさん居ます。知識豊富な参加者は,どこの探鳥会にも1人や2人,ひょっとすると案内役の人数以上に居たりします。知識を得ることは,そんなに難しいことではないのです。特に今は情報網が発達していますから,自分が興味を持って調べれば,あっという間に自分の欲しい知識が集まります。


 しかし,知識も使いよう。


 探鳥会の参加者を眺めていると,必ずと言っていいほど,知識自慢の人が見つかります。中には,自分の周囲にいる人を巻き込んで,探鳥会と関係なく「自然解説」を始めたりして(^_^;)。……そんなに人に喋りたいなら,スタッフの手伝いでもしてくれると有り難いのですが,そういうことはまず,やってくれません。
 探鳥会では,こうした「知識自慢」の人に,思いのほか多く出会います。ある意味,「鳥」に関しては,知識を得ることや,自分が得た知識をちょこちょこ喋るのは,比較的簡単に達成できることだから,こういう人がたくさん現われるのだ,とも言えます。と言うのも,探鳥会で一般に語られる知識なんて,野鳥の識別方法とか,どの季節にどんな鳥が見られるか,と言った情報がほとんどですから,ちょっと勉強すれば,そのような知識はすぐに蓄積します。自分が得た知識を,人が集まる「探鳥会」と言う場で披露してみたくなるのも,分かります。
 残念なことに,こういう「知識自慢」の人の多くは,自分の知識を放出することにしか興味が無い場合が多く,しかも,その知識も,図鑑や書物の丸暗記に近い場合が多い。話を聞く人が迷惑そうな顔になっても,お構いなし。

 ……結局のところ,知識自慢の人は,自分の知識を人に喋ることで人とコミュニケーションを取りたいわけで,そうやって,人に感心してもらって,一目置かれるようになるのが楽しくてやっているのだから,一見,喋っていることは探鳥会担当者と似ているようでも,その目的もバックグラウンドもまったく違います。経験的に,知識自慢の人は,まず,探鳥会の手伝いをしてくれたり,スタッフに加わってくれることはありませんね。探鳥会は,自然観察以外にも,安全管理,時間管理,参加実績の計上,観察記録の管理など,いろいろと,やらなくてはいけない雑用も多いので,勝手に「自然解説」をしている人とは別次元の,さまざまな知識や気配りが必要なので,ただ人に喋りたがるだけの人が必ずしも「良き自然解説者」になってくれるとは言えませんから,我々もこう言う人に対しては,目くじらを立ててはいけないのはもちろん,黙認と言うか,無理に自分たちの仲間に取り込もうなんて思ったりしてはいないのです。運良く,聞き手のニーズに合った知識を喋ってくれたら,めっけもん,ぐらいに考えていないと,探鳥会運営も,しんどくなってしまいます。


 こう言う「知識自慢」の人が,自然解説者たり得ない理由って,何でしょう?
 私は,知識(ないしは情報)の使い方だと思います。

 「知っている」と「理解している」は全く違う。
 ……この一言です。

 野鳥観察趣味の場合,どうしても,野鳥の識別に偏重する人が少なからずいます。野鳥の種類数はそれほど多くないから,1年ぐらい頑張ればすぐに,日本産鳥類の半分ぐらいは観察出来ますし,そうやって,自分の観察した種類数を稼ぐことを楽しみにしている人も多いと思います。種類数にこだわれば,「種」を識別する力が重要さを増してくる。また,珍しい鳥が,どんな季節にどこに行けば見られるか,と言った情報にも詳しくなる。……こうやって,野鳥に関する「知識」「情報」をたっぷり蓄えた人が,この趣味の世界の中には,たくさん現われました。
 しかし,それで野鳥のこと,自然のことを「理解している」と言えるでしょうか?

 「理解」とは,言うなれば,さまざまな情報を得て,自分の頭の中で消化し,体系立ててゆくこと。そして,新たな疑問や問題に直面したときにも,推測したりして対応できる,柔軟さを持つこと。
 探鳥会では,さまざまな方向に興味を持った,さまざまなレベルの人が,さまざまな質問を案内役に浴びせて来ます。それに柔軟に対応しつつ,この質問者には何を伝えるべきなのか,即座に情報を引き出せるだけの理解力が,要求されています。知識量があるだけでは対応できないのは自明のこと。ですから,知識自慢の人は,往々にして知識自慢だけで終わってしまうので,自然解説者として成り立たない。もちろん,同じ興味のベクトルを持ち,似通った知識量を持った人同士の間なら,「知識自慢」も結構役に立ちます。マニアとかオタクとか呼ばれる人たちの内輪話のようなものです。しかし,探鳥会は,広く一般向けに公開されたイベントですから,担当者が「鳥オタクのマニアトーク」で観察案内をするのはまずい。知識の整理法,使い方,伝え方も,きちんと考えておかなくてはいけません。

 しかし過去には,野鳥識別力が,探鳥会担当者登用のガイドラインとして,かなり重要視されていた時代もありました。今でも,多少はその風潮は残っています。私はこうした雰囲気が,「一般人」との間に,内輪の人間の目には見えない,壁を作っているのではないかと推測していますが,これについて語り始めると,きりが無い上,内輪からの反論も多いでしょうから,これは別の機会に…。


 さて,現在,多くの自然保護団体,自然観察組織で,積極的に研修を開催して自然観察指導者を養成し,資格を与えています。こうした研修は,主催団体の活動範囲を広げ,後継者を確保するためにも,重要な意味を持ちます。少なくとも,探鳥会の常連さんから「一本釣り」で後継者を作るよりも,遥かに多様な人材獲得のチャンスが得られると思います。
 しかしここで誤解してはいけないのは,研修を受けて知識や技術を得たことで,「一人前」になった,と言う意味ではない,と言うこと。自然解説者の研修であるならば,「自然解説者への第一歩を踏み出した」,ぐらいの位置付けだと思ったほうが良いと思います。

 その一方で,こうした研修を受けた「指導者」資格を持った人たちが,陥りやすい点もあります。
 それは,「マニュアル人間化」。
 自然観察には,主催団体によっても違いますが,いろいろなノウハウと共に,さまざまなルールがあります。もちろん,自然環境へのインパクトを抑制するためのルールは必須ですが,自然への理解を進めるために,ルールを作って遊ばせる場合もあります。そのルール化の最も進んだもののひとつが,ネイチャーゲームだと思います。ルールどおり,マニュアルどおりにイベントを展開すれば,駈け出しの指導者でも,かなりのことが出来る……これは非常に大きな利点です。しかし,マニュアル以外のことにはなかなか手を広げることが出来なくなる,と言う問題も起こります。そのためか,ネイチャーゲームの駆け出しの指導者には,とにかくマニュアルどおりに参加者を動かそう,マニュアルどおりに感じてもらわないと困る,と言った態度の人をよく見かけます。熱心なのは分かりますが,課されたゲームが気に入らない人だっているはず。特に子どもたちは自由奔放で,いろいろな遊び方,いろいろな感じ方の出来る力が強いのに,それをゲームの枠組みに入れようとしてしまうような,柔軟性の無さが気になります。ネイチャーゲームに限ったことではありません。「自然は大切だから守ろう」的な,お念仏みたいに陳腐な自然保護論を唱える指導者がいたり,観察方法をガチガチに規定してしまう指導者がいたり,自由度の低い観察会は,少なくありません。
 また,最近では,識別への偏重の反省からか,生き物の名前にこだわらないのが良い指導方法だとおっしゃる人も少なくありません。実は私もある程度はこれを支持していますが,「この虫の名前を教えて!」と言う人に,「名前は知らなくてもいいんだよ。それよりも……」と言った調子で,マニュアルどおりに「名前を教えること」を否定してしまうのは,行き過ぎだと思っています。「名前」が興味の取っ掛かりになっている場合も少なくないのです。こう言う場合は「名前を知ること」の「次」が重要なのです。その辺,もっと柔軟にやってくれないかな〜,と思うこともしばしば。

 こうした些細なことにも柔軟に対応してこそ,自然解説者。一方的に伝えるのではなく,相手のレスポンスを良く見て欲しいのです。100人の聞き手がいれば,100通りの伝え方がある。そのぐらいの覚悟と柔軟さを持って欲しいと思います。

 マニュアルどおりでは,マニュアルの枠組みに上手く収まった人以外は,楽しくありません。自然解説には,ファーストフードやコンビニの接客のようなマニュアル化は,上手く適合しません。
 「マニア化」と「マニュアル化」……観察会がメジャーなエデュテイメントになりきれない理由の一部が,この辺りにあると,私は思っています。


 観察会での自然解説は,どうしても1対複数での語りを強いられます。相手が大人数になればなるほど,反応が見えにくくなり,相手が何を聞きたいのか,分からなくなる。もし,相手がマスメディアだったら,不特定多数にメッセージを伝えなくてはならず,なおさら大変です。その場合,どうしても自分のパーソナリティに拠り所を求めてしまう。メディアで喋っているナチュラリストたちが,自分の言いたいことを一方的に語るのは,やむを得ないことなのでしょう。
 こうした,メディアに出ている有名人が直接案内してくれる観察会に,何回か参加してみました。喋っている内容が,メディアで喋っていたことと同じで,新鮮味が無く,しかも,参加者の反応を取るような演出をしているように見えても,最終的にはメディアに出ているときと同じように,自分の言いたいことばかり喋っている。完全に情報の一方通行……どうやら,メディアでの喋りと,生身の聞き手が目の前にいるときの喋りの使い分けをしていない様子。まぁ,聞き手は「有名人のありがたいお話」を聞けて満足そうでしたが,もし,この人の観察会に何度も参加していたら,同じことを何回も繰り返し聞かされ,ちょっと辟易としてくると思います。1,2回なら「面白かった!」で済むかもしれませんが,すぐに飽きられる危険を持っています。
 こういう人たちって,聞き手のことを理解していない,あるいは,聞き手のことを理解しようとせず,自分の考えや主張を押しつけているのではないか?……そんな懸念を抱きました。まぁ,「仕事」で多くの人に喋っている人の場合,いちいち個々の事例に手間をかけることも出来ないでしょうから,どうしても,タレントさんのようにパーソナリティの切り売りで済ませてしまうようになってしまうのかな……って言うか,既に彼らはタレントの領域ですね。「タレント」なんだから,自分の好きなタレントさんを選んで,その話を聞きに行けば済むわけだし,好き好んで嫌いな人のトークを聞きに行く必要も無いわけだし。



 観察会の現場は,たとえ1対複数であっても,相手はそれぞれに志向も個性も違う人たち。自然への理解も大切ですが,聞き手のことを少しでも理解して,少しでも,それぞれの知識量や理解度やニーズに合わせた,柔軟な自然解説が出来たら,どんなに素晴らしい観察会になることでしょうか。
 自然解説者には,自然を観察して理解する力と共に,聞き手を観察して理解して柔軟に対応することも必要だと言うのが,私なりの結論です。探鳥会の参加人数がやたらと多かった1980年代には,1人で50人を相手に喋ったこともありますが,今,そんなことをしたら,聞き手だって面白くないはずだし,私もそんなことはやりたくない。理想は,参加者ひとりひとりの顔と名前と志向が分かって,参加者が気軽に発言できるような人数。担当1人に対して,参加者5〜10人ぐらい,頑張っても20人以内かな。そのぐらいの人数比なら,個々の参加者のニーズも,ある程度見えてくるし,きめ細かく対応することも出来ますから。


 今の明治神宮探鳥会,だいたいそのぐらいの人数比です。


(2005年8月29日記)

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