稲淵宮跡

「稲淵宮跡」はわたしにとって重要な史跡。というのはここ、653年に中大兄皇子が難波宮から戻ったとき一時的に営んだ、河辺行宮(かわべのかりみや)かと言われているからです。(と石碑脇にある説明文にもあります)

難波宮から戻ったというのは、645年に孝徳天皇(そう、乙巳の変で蘇我本宗家が滅亡させたあと即位した軽皇子のことです)が難波宮に遷って以来、中大兄も難波にいたのですが、653年に突然、飛鳥に戻ってしまうのです。そのとき中大兄が移った先が河辺行宮。それが、ここではないかというのです。つまり中大兄が間違いなくいた場所なんですよ〜。

この突然の飛鳥への引っ越しに、中大兄の母で前天皇である宝皇女(皇極天皇。のちに斉明天皇)や、妹で孝徳天皇の后(きさき)である間人皇女、兄弟の大海人皇子ら主要な皇族たちが従いました。つまるところ、孝徳天皇は難波に取り残された恰好に。そこで孝徳天皇が詠んだとされる歌が

かなき着け吾(あ)が飼う駒は引き出せず 吾(あ)が飼う駒を人見つらむか

大切につないでいた馬なのに、なぜ他人が見たのだろう……という内容ですが、「駒」を間人皇后、「人」を中大兄と解釈して、間人と中大兄が兄妹ながら通じていたと考える説もあります。このふたりは同母の兄妹ですが、当時の皇族でも同母の兄妹間の結婚はやはりタブーで、この説はそういう関係があったから中大兄がなかなか即位しなかったのだという説明につながっています。#中大兄は、『日本書紀』によると、645年から668年まで、23年も皇太子でいたことになっています。

ただし、この歌の内容・品位という点から天皇じしんの歌ではないという意見もあります。そうだとすれば間人と中大兄の禁じられたロマンスはなかったことなのかもしれません。

「史跡 飛鳥稲淵宮殿碑」の石碑。

その前から、見渡せる風景。雨模様なので山がぼやけていますが。宮があったのは丘の上なんです。


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