天智天皇

天智天皇/天命開別天皇/中大兄皇子/葛城皇子 
てんちてんのう/あめみことひらかすわけのすめらみこと/なかのおおえのみこ/かずらきのみこ 
      父:舒明天皇
   母:皇極(斉明)天皇
   子:大田皇女=母は遠智娘(おちのいらつめ:蘇我石川麻呂のむすめ)
     讃良皇女=母は遠智娘
     建皇子(たけるのみこ)=母は遠智娘。おしであったという。夭逝(651-658)
     大友皇子=母は采女・伊賀宅子(いがのやかこ)。648-672
     阿倍皇女=母は姪娘(めいのいらつめ:遠智娘の妹)
     山辺皇女=母は常陸娘(:蘇我赤兄のむすめ)
     川嶋皇子=母は色夫古娘(しこぶこのいらつめ)。657-681
     施基(志貴)皇子=母は采女で道君のむすめ。磯城皇子(天武の子)と別人
   生没年:626-671
   称 制:661-667
   在 位:668-671
 

葛城は幼名で、葛城氏に育てられたともいう。称制とは即位をせずに執政することで、『日本書紀』ではそのように記述されている。ただし『万葉集』に中皇命(なかつすめらみこと)なる人物の存在があり、それが中大兄の妹・間人皇女(孝徳天皇妃)で、661-667の時期に即位していたとする説もある。

中大兄が直接関わったとされる事件に、乙巳の変(蘇我鞍作=入鹿=暗殺事件。大化改新はそのあとの一連の政治改革を含んでいう)・古人皇子謀反事件・蘇我石川麻呂謀反事件・有間皇子謀反事件などがある。

667近江大津宮に遷都。670に庚午年籍を造る。671に近江令を施行。また、不改常典(かわるまじきつねののり)を定めたともされる。不改常典は、奈良時代以降の文献にしか現れないので、実際には定められていない、あるいは施行されていないという反論もなされている。

なお、漏刻という水時計を作り、時刻を鐘で知らせるようにしたのも中大兄である。


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