矢不来館

概説  矢不来館は大正7(1918)年の『茂別郷土史』の記載を最期にその所在が分からなくなってしまう。そして昭和54(1979)年、地元の郷土史研究家のOさんによって実に61年ぶりに再確認されることになる。

 『北海道史』によれば「嘉吉3(1443)年下国安東盛季、南部氏義政に敗れ、海路矢不来に上陸し矢不来館を築く。(中略)亨徳3(1454)年下国安東盛季の弟、道貞の孫、家政、大伯父盛季の遺跡なる茂辺地に渡り茂別家政となり、矢不来の館に住む」とある。この文献に出てくる矢不来館は、現在の茂辺地館(下国館)のことで、現存する矢不来館はもともとアイヌのチャシではないかとも言われている。(中略)偶然、2片の越前地方で製造された中世の大すりばちの破片が発見され、どうやら中世に日本人の居住していた痕跡が出てきた。[はこだて歴史散歩P254より]
 矢不来館の館主、歴史は明らかではない。縄張は、舌状台地の尾根続きを3本の堀切で切っている。そのうち、一番外の堀切が深く大きい。手前は、ほぼ同じ深さで、1本の大きな堀切の中に土塁を作ったような構造になっている。その3本の堀切は、今のところ道内の館で唯一であり、その遮断の意思の強さは異例である。館内は広いが、ほとんど自然地形で、曲輪の周囲も壁(切岸)を作っていない。[図説中世城郭辞典第一巻P23より]
 矢不来館跡は(茂別館跡)より大きな台地先端部を取り込んでいるので、茂別館跡に匹敵もしくはそれを凌ぐ広さを持っている。矢不来館跡は、この大きな曲輪の中を段差によって細分割して使用しており、その点では松前大館跡や上国の勝山館跡と共通した構造を持っている。矢不来館跡は、町場を伴わないばかりか直接海を臨むこともできないが、要害としては優れた場所にあった上、付近に重要な陸路も通過していたことを思えば、軍事的な緊張の中で当面の本拠とするには相応しいところであり、15世紀半ばに安藤政季が道南に滞在していた時、本拠にする価値は十分にあり得たように思われる。[市村高男「茂別館跡についての考察」より]
外側の空堀
    その他の写真
  1. 内側の空堀。島状に低い土塁が並行している
  2. 郭内から見た三重の空堀
  3. 三重の空堀を渡る土橋。農作業のために、3倍程に拡幅されている
  4. 外側の空堀の堀底から
  5. 当別の列車ペンション裏山が矢不来館の出城的施設だったかもしれない
  6. 山中の空堀と土塁(写真では分かりませんね)。関連遺構か?
訪問記[2001/07/30]矢不来館再発見者である地元の郷土史研究家のOさんに案内してもらった。海側、つまり大手側からのアプローチはかなり厳しいらしいので裏側つまり台地側から入る。畑を過ぎて杉林の中をしばらく進むと三重の空堀が現れる。最近草刈りが行われたようでとても見やすくなっていて感動!郭内はものすごい雑草で覆われており大手までは到底行けそうにない。しかし、郭内で空堀に面した部分は低い土塁に囲まれやや高くなっていて、そこからかなりの数の陶器片が採材されているとのこと。勝山館の客殿に相当するようなものがあった場所かもしれないと想像をする。
 詳しい調査が行われていない現時点では想像の域を出ないが、三重の空堀の外側にある畑の中から墳墓跡が見つかっていることも含めて、矢不来館は勝山館や松前大館のように街を取り込むような形で構成されていたのかもしれない、というはなしも聞こえている。
[2002/07/01]昨年現地を案内していただいたOさんを訪ね最近の話題をお聞きした。まずうれしい話題としては現在建設中の函館江差自動車道の矢不来部分がトンネル工法に決定され矢不来館、矢不来台場などの破壊が回避されたこと。Oさんたちの活動が実を結んで本当によかったと思う。
 その後、上磯町教育委員会へ行き学芸員のMさんから矢不来館に関する興味深い話や貴重な出土遺物についての説明を聞いた:(1)特徴的な出土遺物から推測される存在時期は志苔館(白磁)、矢不来館(青磁、染付)、勝山館(青磁)の順番になるそうだ。(2)勝山館も遺物の出土密度が高かったそうだが、矢不来館ではほんの一部分の調査しか行っていないが、その10倍の密度(平米あたり20から30点)で出ている。(3)さらに、威信財としての格も勝山館より高いのでかなりの実力者が居たと考えられる。(4)女性のものと思われるかんざしや鈴が見つかっていることから、戦闘用の空間としてだけでなく女性も含めた生活の場としての矢不来館の存在意義をうかがわせる。この点も勝山館と類似している。(5)それから、矢不来館の中には明らかに熊が棲んでいるので注意してください、とのこと。
[2002/07/22]当別の列車ペンション裏山は下国氏が大館(蠣崎・武田)に備えて造ったといわれる矢不来館出城の遺構というのはOさんの説。茂辺地の南西3kmの当別の山中にある土塁と空堀も関連遺構かもしれない。
所在地北海道渡島支庁上磯町矢不来。
参考書『図説中世城郭辞典第一巻』、『はこだて歴史散歩』、『茂別館跡についての考察』