若柴城

概説 若柴城跡については、近世に成立した史料の中に簡単な記事が見える。そえによれば、この城は岡見氏の持ち城の一つであり、戦国後期頃、岡見越前守頼勝という人が住んでいたという。頼勝は土岐治頼の次男として生まれ、のちに足高城の岡見氏の養子となり、やがて嫡子宗治に家督を譲ると、出家して伝喜と号し若柴城に隠居したと伝えられている。ただ、岡見氏の系図では、天正16(1588)年3月、頼勝(伝喜)が下妻多賀谷氏との合戦で横死したと伝えられているので、それ以降の若柴城がどうなったのかが問題となる。この当時、牛久城や龍ヶ崎城などの役割が増大していたことなどからすると、廃城と同様な状態になっていたのかもしれない。[『龍ヶ崎市史中世編』より]
南側からの遠望
    その他の写真
  1. 本城(郭I)南側は竪堀状になっている
  2. 本城(左手)と腰郭(右手)の切岸を西側から見る
訪問記[2002/03/11]若柴町の信号を川沿いに南東へ入り50mほど行ったところから左へスロープを上がっていくと真新しい大きなお寺(信正寺だったかな?)の門へ行き当たる。その手前の畑の西側に城(本城(郭I))はある。本城(郭I)は城壁も土塁も堀も低く浅くなってしまっているが、中は杉林で歩きやすい。外城といわれる領域の北東部にある八坂神社の小山は物見台跡か?
所在地茨城県龍ヶ崎市若柴町字宿幡
参考書『龍ヶ崎の中世城郭跡』、『龍ヶ崎市史中世編』