東条城

概説別名、太田城。東条氏は大掾氏から分かれて東条荘を治めており、南北朝時代には隆盛を極めていた。そのため南朝方の北畠親房が関東へオルグにやって来るに当たり、最初に目指して来たのはここだった。実際には嵐で船団が難破して神宮寺城へ入ることになるが。
東海建材正門手前に立つ城址碑。門柱はかつての太田中学校時代のもの
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  1. 共同墓地への登り道。左手奥に土岐頼英・虎姫夫妻の墓がある
  2. 共同墓地への入口には姿隠しの土塁が残る
  3. 上の主郭部の壁面からは大きな横矢(出張り)が張り出している
  4. その横矢を郭側から見たところ。外便所になってました
  5. 南側にある丘にも城の遺構らしきものがある
訪問記[2001/4/16]東海建材という会社がある丘の上が城跡。城址碑は昭和26年、門柱は昭和27年太田中学校時代に作られたもの。太田中学校が統廃合された後に東海建材が移転して来た。共同墓地はその西下にあたり、おそらく中段の郭だったと思われる。外便所の裏に横矢が張り出していた。
[2002/1/28]土岐頼英・虎姫夫妻の墓へお参りに来たついでに、南側にある丘へ登ってみた。中段には段郭のような平坦部があったり竪堀の様なものがあったり。この丘はもともとは本城と連結していたのかもしれない。
所在地稲敷郡新利根町下太田。東海建材事業所が本郭、共同墓地が中段の郭。
参考書