小坂城(おざかじょう)    関連ページ:小坂城関連施設

概説 永正12(1515)年頃から小田軍の攻撃をうけ、数回の戦の結果、ついに景成[注:江戸崎城主土岐原景成]は小田氏の軍門に降った。五代治頼は小田氏の被官として仕えたが、天文11(1542)年頃より次第に勢力を挽回するに従い、小田氏に対して半独立の形をとり、やがて、信太郡全域に武力討伐を始め、その大半を領有するようになった。その間に小田氏も数回の攻撃を繰り返すが、天文17(1548)年の戦いでは、土岐原氏の輩下であった泉城城主、東條重定は小坂で戦って戦死している。ここで推定されることは、この小坂での戦いで、東條重定は土岐軍の将として、小田氏に味方をした岡見氏の領有する小坂城を攻撃したものか、それとも、小坂城はすでに土岐原氏の領有になっていて、東條重定は小坂城において、小田軍を迎えたものか、これらの点については、まだ、的確な史料は得られない。しかし、そのころの情勢は、まだ小田氏が優勢であり、小坂一帯は小田勢力圏にあったものではなかろうか。[「小坂城跡」より抜粋]

QuickTimeムービー(約440KB):一の丸土塁上から二の丸側の堀を見ました。はっきり言って見る価値ないです。高速回線の方のみどうぞ。
国道408号線を通すために本丸南半分は切通しにされた
その他の写真
  1. 一の丸と二の丸(手前)間の堀
  2. 二の丸から一の丸への土橋と虎口
  3. 土橋から一の丸北側の城壁土塁を見る
  4. 一の丸虎口
  5. 本丸(北東端)櫓台と虎口
訪問記[2000/]下記の資料には本丸・二の丸・土塁・壕等がそっくり現存、とあるが切通しのために本丸の南端部分は湮滅していると思われる。北側の住宅地へ回ってみたが、金網で囲われており内部へ入ることができるかはわからなかった。
[2001/01/22]国道沿いから藪へ入ってみると、かなり埋まって浅くなっているが堀跡のようなものが。
[2001/03/06]3回目の挑戦は「マムシ注意の看板」の所から。しかし、まだ郭内へ到達できない。
[2001/12/17]一の丸東側城壁を登るアプローチを聞いていたが、どうしても分からなかったので近くを通りかかった地元の方に尋ねたところ、二の丸北西端の擁壁の切れたところから取り付くのがよいと教えてもらった。実際、ここから上がるのをお勧めします。
 二の丸と三の丸は土塁も曲輪もガサ藪。しかし、二の丸と一の丸間の土塁上へ出た途端にすばらしい堀と土塁が現れた。一の丸は外側(二の丸側)には土塁があるが、内側(本丸側)には土塁がない。本丸北東端に立派な櫓台がある。また、本丸北壁土塁上には20mほどにわたって横矢の出張りがある。曲輪や土塁・堀の配置が巧妙な印象。
所在地牛久市小坂愛宕山1986
参考書『牛久市史 原始古代中世』、「牛久市史 資料編(一)」、「小坂城跡」