大野口台場

概説 塚原善記歌文集『臥牛山』p149に「江差山道の台場と榎本武揚真筆の書軸書簡について」と題して昭和5年の記録が載っている。塚原氏がどのような方かは分からないが「箱館戦争」ゆかりの地や「松前家発祥の地」などの実地踏査を行ったときの記録だと書かれている。
 塚原氏は二股口の台場山を見に行く途中で地元の老人に「それに似たのならこの上にもあるし沢の向こうにもあるから見てゆかっしゃい」と教えられ、沢の両側に五稜郭式の築城の台場跡を確認している。このとき塚原氏は「この2者については大野町史(昭和45年発行)には何れ詳しく載るものと期待していたところ、台場山の戦闘については載っているが、その164頁に「ハナコクリに台場があることなど」の一語しか記載されていない。この二台場は実戦には利用されなかった。とまれ五稜郭、四稜郭と共に洋式築城の名残として後世に遺したい。」と書かれている。
 しかし、残念なことに塚原氏の希望も虚しく保存の気運が形成される前に開発の中に消えていった。
 この付近では他に、ここから南東2.5kmほどのところにあるベコタテ山(「匠の森」の南側の山)に散兵壕があるそうだ。[『大野町史』]
 また箱館戦争とは関係ないが、500mほど江差よりの南側を150mほど入ったところに毛無山山道の入り口があり、ここに松前藩の番所跡がある。斜面の崩落防止の石積みが残っているがかなり崩れて道に転がっている。この番所は江差山道の旅人の事故やオオカミの襲来、クマの出現などの対策のために設置されたものらしい。
土取場となって完全に隠滅
    その他の写真
  1. 台場の位置模式図
訪問記[2002/7/15]大野町郷土資料室で場所と現況を聞いたところ土取場になっているとのことだったが、一応現況写真を写しに行った。「台場の位置模式図」は郷土資料室で参考資料としていただいた塚原善記歌文集『臥牛山』の挿絵を写させていただいた。ただし、突出沢方形台場の位置は私が追加したことをお断りしておきます。
所在地渡島支庁大野町字村山141,142
参考書塚原善記歌文集『臥牛山』