城山城(じょうやまじょう)

概説 別名、多気城、多気山城、多気故城。
 この城は、ある大勢力が当地方で軍事的緊張の高まった時期に,純軍事的使用を目的として、短期間で一挙に築いたことが考えられる。従ってその使用期間も、軍事的緊張がとけるまでの、限られた期間であったかもしれない。従って、その築城時期は、横矢がかりを意識した虎口の構造や、単調な外郭線で町場を囲んでいることなどから推して、、戦国の後期とみられる。より具体的には、当地方を領有していた小田氏と、周辺の佐竹氏、多賀谷氏、結城氏、真壁氏らが抗争を繰り返した弘治〜天正年間か、のちに水戸を居城とした佐竹氏と徳川家康の間が緊張関係にあった慶長5(1600)年の関ヶ原の役前後の時期が考えられる。なお、城山城は、平安中期に平貞盛の養子維幹(多気太郎)が水守郷より当地に移って作ったものといわれているが、遺構と年代が合致しない。むしろ城山の山裾の微高地(裏堀の北岸で、多気太郎の墓と伝える五輪塔が立つ)のようなところに居館を作るのが、当時としては普通であろう。また『吾妻鏡』建久4(1193)年6月5日条にみえる「多気山城」は、地理的にみて城山の上に作られた可能性が強い。もっとも、当時の一般例から推して、この「多気山城」も非常の際に作られる簡単な陣地程度のものと思われる。従って、現存する城山城の遺構を「多気山城」のものとすることはできない。[『筑波町史』より]
小泉館から見た城山城
    その他の写真
  1. 外郭ライン北側の堀
  2. 曲輪II南側の堀(ここは二重堀になっている)
  3. 曲輪Iと曲輪IIを繋ぐ「馬ノリバ」といわれる尾根上の曲輪
  4. 馬ノリバにある不思議な石(ここに来ると携帯電話が圏外になってしまう!)
  5. 曲輪I虎口(外枡形だったと思われる)
  6. 曲輪I内部(右奥は天守台、調査の青いシートとトレンチ)
  7. 曲輪II東虎口
  8. 曲輪Iと曲輪IIIを連絡する竪堀
  9. 北条町中の裏堀
  10. 伝多気太郎義幹墓の五輪塔
訪問記[2003/01/02]ひづめにとっては初めての山城攻略。ベテランの潮風さん、五郎さんに案内をお願いした。北東側の外郭ラインから攻城開始。このあたりはどなたかがかなりのエネルギーを費やして篠を刈っている。外郭の堀・土塁に添って北側へ回っていく。鋭角に屈曲する空堀はみどころ。そこから山側へ登ると山道があり、それを辿って西側へ回り込みながら次第に登って行った。南西側へ来ると、下からの外郭ラインの堀が見えた。この辺りでは堀の走行高度が高くなっているのだろう。曲輪IVの上を通り曲輪IIへ向かうと、左手に二重の堀・土塁で構成される複雑な虎口が現れた。それを過ぎてしばらく東へ向かうと土塁壁か城壁かが現れた。ここが曲輪IIの南側だった。曲輪II南側の堀は『筑波町史』では一重に描かれているが実際は二重堀になっている。堀・土塁の切れた所から曲輪IIへ入る。曲輪IIの中には小山があり、櫓台だろうか、蔀土塁だろうか、古墳だろうかと討論会。曲輪IIから北へ向かうと曲輪Iだがその手前の尾根上は「馬ノリバ」といわれる細長い曲輪になっている。その途中に四角い石が置かれている。なんのためなのか不明だが、潮風さんは「この石の所では携帯電話が使えなくなる」というミステリーめいた話を聞いていた。実際近づけてみると頻繁にアンテナが消えたり点いたり!おお、こわ!。馬ノリバを過ぎると曲輪Iの一つ目の虎口。手前の堀には土橋が架かっている。そこを入ると曲輪Iの二つ目の虎口が見える。「虎口がこんなに一直線では中が丸見えでおかしいのでは」という意見が出る。よく見ると二つ目の虎口の西側土塁が外側へ出ていたようにも見える。「食い違い、あるいは外枡形になっていて内部を隠していた可能性大。」というところで意見がまとまった。曲輪Iへ到達。内部には夕べの雪がうっすらと残っていた。曲輪内には青いビニールシートとトレンチ。発掘調査が行われているらしい。何の為だろうか。何かを建築するための事前調査だろうか。この城山は現在龍ヶ崎市にある宗教法人が所有している、という話だ。道を通して宗教施設でも作る予定だろうか。皆の脳裏を不安がよぎる。曲輪Iの東側は『筑波町史』では二重堀になっているが、三重堀だと思う。曲輪IIへ戻り曲輪IIIへ向かう。大きな堀をまたぐ曲輪II東虎口を通り、坂を下ったところが曲輪III。曲輪IIIの北西部から堀底を通り一旦谷へ下り再び曲輪Iへ向かって直線で伸びる竪堀状の連絡路がある。これはけっこうおもしろい遺構だ。さて、ひとめぐりし終わり帰り道を探す。曲輪IIIから南へ降りる道が分かりやすいらしいが、自動車を置いた都合上、北東へ向かって降りることにした。途中までは山道を辿って行けたのだが急に道を見失った。それでも東の方角へ降りれば良いだろうと強引に下山した。かつて山葵田でもあったのかと思われる幾重にも畝の残る湿地帯へ出てしまい足下が不安になる。かなりの篠藪をかき分けかき分けようよう東側の溜池が見える所まで降りて来られて無事帰還。ここまでで、2時間半くらいで回ってきました。昼食後、北条の市街地に残る裏堀といわれる南側の外郭ラインを見、多気城城主多気太郎の墓にお参りして、本日の城山城攻城は終了したのでした。
所在地つくば市北条。北条の町の真北にある標高129m(比高100m)の城山。
参考書『筑波町史』