馴馬城

概説 南北朝動乱のかなり早い時期に南朝方の拠点として存在し、暦応4=興国2(1341)年秋、南朝方の北畠親房が奥州の結城親朝に宛てた書状に、一連の合戦の中で「河内郡馴馬楯(城)等引退候き」とある。3年後の康永3=興国5(1344)年にも南朝方の春日顕国が一時籠城して、足利方の宍戸朝里により攻略された「馴馬沼田城(馴馬城)」に比定され、この攻防を最後に龍ヶ崎地域の南北朝動乱は事実上終結している。これらのことからも、馴馬城は少なくとも二度、南朝方が起点として戦ったと思われる。[「龍ヶ崎の文化財」パンフレットより]
龍ヶ崎市歴史民俗資料館駐車場からの眺め
    その他の写真
  1. 土橋と堀切
  2. 城址碑の立つ櫓台状部
  3. 縦堀状遺構
  4. 馴馬城西隣にある来迎院の多宝塔
訪問記[2001/10/2]
所在地龍ヶ崎市馴馬町。龍ヶ崎市歴史民俗資料館の西隣
参考書『龍ヶ崎市の中世城館跡』、『龍ヶ崎市史中世編』