向石毛城

概説 『多賀谷家譜』に石毛城を居城とする豊田中務が向石毛杉山に子城を構え、「西館」と称したとある。これによれば向石毛城自体が、石毛城の西方の子城として「西館」と呼ばれたことになる。豊田中務の活躍時期(文明年間)と現存する遺構のうち古い部分とは、特に年代的な差が感じられない。ただし、法輪寺の北側の堀切や、西館との間の堀切は、年代的に下ると思われるから、中務以後も引き続き使用され、豊田氏多賀谷氏らの抗争の激化に伴い拡張、改修が行われ、今日見るような形になったのであろう。[『石毛町史』より]
城跡には法輪寺が建つ
    その他の写真
  1. 城址碑
  2. 法輪寺境内にわずかに残る土塁
訪問記[2001/04/08]法輪寺周囲を歩いた限りでは土塁堀の遺構はなくなっている。わずかに境内に土塁が残るといった程度
所在地結城郡石下町向石下。法輪寺が目印。
参考書『石下町史』