宮ヶ崎館

概説 別名、きゅうでん堀。宮ヶ崎館と宮ヶ崎城は、宮ヶ崎にあることから宮崎氏のものとされている。宮ヶ崎城は宮崎氏が南北朝〜室町前期に「詰めの城」として築城し、上杉禅秀の乱のときまで使用していたものを、室町後期以降、江戸氏の一族か家臣が再興して使用したものであった可能性もあるが、少なくとも遺構のつくりからみる限り、戦国期の江戸氏にゆかりのある城跡と見るのが妥当であろう。では、鎌倉〜室町前期の200年以上の間、宮崎氏はどこに住んでいたのか?そこで注目されるのが鹿島神社をはさんで宮ヶ崎城と向かい合う宮ヶ崎館である。この館跡は、南側の土塁を消滅させているものの、土塁の外側には一部空堀も残存し、方形居館跡の典型的な姿をとどめている。その規模は、約100mx150mを計測しかなりの有力者の屋敷跡であったことを物語っていることなどから、室町前期までこの村を支配していた宮崎氏のものであることは、ほぼ確実といってよいであろう。[『茨城町史通史編』より]
 昭和49年の航空写真(国土画像情報(カラー空中写真):国土交通省)の数字32の少し下に方形館址が認められる。
土塁と堀
その他の写真
訪問記[2005/01/24]土塁は北側と東側、西側の一部が残っている。よくある光景ではあるが堀はゴミ捨て場にされている。館の北側に沿った道は大洗の八朔祭の時に馬に乗って注連縄を切りに行くときに使った道だったという話を聞いた。
所在地茨城町宮ヶ崎字荒井前。
参考書『茨城町史通史編』