宮ヶ崎城

概説 宮ヶ崎城と宮ヶ崎館は、宮ヶ崎にあることから宮崎氏のものとされている。宮崎氏は、15世紀前期に起こった上杉禅秀の乱で禅秀方に味方して没落しているので、これらの城館跡もそのとき以来廃城になっていたとみなされることが多かったように思われる。問題はこれがいつの時代のものかという点である。もちろん、宮崎氏が南北朝〜室町前期に「詰めの城」として築城し、上杉禅秀の乱のときまで使用していたものを、室町後期以降、江戸氏の一族か家臣が再興して使用したものであった可能性もあるが、少なくとも遺構のつくりからみる限り、戦国期の江戸氏にゆかりのある城跡と見るのが妥当であろう。では、鎌倉〜室町前期の200年以上の間、宮崎氏はどこに住んでいたのか?そこで注目されるのが鹿島神社をはさんで宮ヶ崎城と向かい合う宮ヶ崎館である。[『茨城町史通史編』より]
主郭部南西側の土塁(櫓台)
その他の写真
  1. 東側からの遠望
  2. 主郭部出土の石(某氏宅)
  3. 3郭出土の石塔(常光院)
訪問記[2005/01/24]南側の堀跡と2郭3郭の間にバイパスを通す工事が行われている。まだ開通していないが間もなく車が頻繁に行き交うことになるだろう。この工事に関係する調査で門跡が確認されているそうだ。主郭中心部は藪が深いため西側の土塁・堀側から回り込むことにした。西側は大きく土取されているがここには帯郭があったのではないか、そこよりもさらに北側の残存遺構から推測する。城域東端の3郭には寺があったそうで、そこから出土した石塔残欠が常光院に置かれている。また、主客部から出土した石塊がそこに畑を持っていた某氏宅の八幡社周囲に並べられている。
所在地茨城町宮ヶ崎字天王。
参考書『茨城町史通史編』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』