国分館

概説別名厚沢部館。
 この高台は、その昔、大館(松前)の守護村上政儀の家臣江口権之頭顕輝が、この地に館を構え「国分館」と名づけたところです。また、領内を「館の庄」と呼んでいました。(館という地名はここから出ています。)村上政儀は国元の信州で敗れ、永享10(1440)年3月家臣館権太郎義重・江口三郎源義盛ほか総勢5人で、秋田の内縁を頼って新潟から船で逃れたところ暴風のため泊(現江差町内)に漂着した。その後、安東蝦夷管領から大館の守護を命ぜられます。その家臣が、江口権之頭顕輝(義盛の子)でした。永正10(1513)年大館がアイヌ大群に襲撃され、主家の救援に顕輝も出陣しますが、そのかいもなく大館は陥ち、政儀・顕輝ともに戦死しました。顕輝に男児がなく国分館はその後絶えたと伝えられています。[館跡道路脇の解説板より抜粋]

 コシャマインとの戦いで武田信広は一旦は押されて後退しながらも、援軍を得て再び押し戻し、ついには七重浜でコシャマイン父子を討ち取ったということになっている。このときの援軍が通ったのが厚沢部町新栄と上磯町茂辺地とを結ぶルート、現在の道道上磯厚沢部線だったらしい。この説を展開することで新栄にある国分館の歴史的意義が高まることと思われる。
東側からの遠望
    その他の写真
  1. 館跡は畑地や生活改善センターになっている
訪問記[2001/6/4]館城へ向っていたはずが道を間違え偶然通りかかった。丘の上は生活改善センターと広い畑地になっている。
[2002/6/10]畑の先端まで行ってみたが遺構らしきものは見あたらなかった。
所在地北海道檜山支庁厚沢部町新栄
参考書