これは、潮風さんのホームページ『常陸の国の城と歴史』の足跡板(掲示板)のログから転載させていただきました。
1126.RE: 木原城の謎?管理人・潮風[URL]2002/01/14 (月) 22:11 ひづめさん、どうも。 土塁の関係はまた後日ゆっくりと御返事しますね('-'*)フフ♪ |木原城という巨大な城があるのですが、土岐氏の本拠江戸崎城の支城 |だったとは思いますが、いつだれが築城したのかはっきりとは分かっ |ていません。 実はこの木原城の謎も戦国土塁群と並行で解明していきたいですね。 木原城についてまず基本から整理していきませんか? まず肝心な事なんですが木原城って戦国土岐氏の支城で良かったんですかね? 木原城主と言われる近藤氏の墓所があのようにお寺の隅っこのわかりずらい場所にひっそりと 建っていますよね。(あれが近藤氏の墓所かも謎めいている様子にも見えましたが)もともと近 藤氏が戦国時代に木原城主だった事は確実でしたっけ? 木原城の巨大さと後北条氏の前線基地としての駐屯地の役割についてですが、仮にそうだと想 定した場合には土岐氏が自分の領内に後北条氏の深い干渉を許していたかにもよると思うのです がどうなのでしょう? 確か牛久の岡見氏の牛久城の在番衆に高城氏や豊島氏と一緒に土岐氏も加わっていましたね。 土岐氏って高城氏などと一緒にいわゆる後北条氏の国人衆としての地位を保っていたとは言えな いでしょうか?いわゆる傘下には入ってますが完全な傀儡ではなかったと言う点です。 ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1130.Re: RE: 木原城の謎?ひづめ[URL]2002/01/16 (水) 00:22 ●潮風さんのNo.1126へのレス: > 実はこの木原城の謎も戦国土塁群と並行で解明していきたいですね。 「木原城の謎」と「戦国土塁の謎」そして以前『茨城城郭会』で話が出た「天正十八年五月二 十日、佐竹は江戸崎へ来たのか」など謎解きをいっしょにしてくれる仲間ができてほんとうに嬉 しいです。さらにもうひとつの大きな謎「江戸崎城での惨劇(『龍ヶ崎市史中世編』P235)の謎」 も加えて末永くお付き合い下さい。 > 木原城についてまず基本から整理していきませんか? > まず肝心な事なんですが木原城って戦国土岐氏の支城で良かったんですかね? 『小田原北条家人数覚書』(毛利家文書)の「とき美作守 常陸 江戸崎城 龍かミね 木原 三 ケ所 千五百騎」の記載から判断されているのではないでしょうか。 > 木原城主と言われる近藤氏の墓所があのようにお寺の隅っこのわかりずらい場所にひっそりと >建っていますよね。(あれが近藤氏の墓所かも謎めいている様子にも見えましたが)もともと近 >藤氏が戦国時代に木原城主だった事は確実でしたっけ? 近藤氏については謎が多いです。潮風さんは『御茶園遺跡』の資料をお持ちのはず。それに一 通り目を通してみてください。私は何度読んでもはぐらかされてしまうのですが。それと私のペ ージの「江戸崎土岐氏年表」も参考にしてください。特に木原城および近藤氏関係は緑色で示し てあります。 > 木原城の巨大さと後北条氏の前線基地としての駐屯地の役割についてですが、仮にそうだと想 >定した場合には土岐氏が自分の領内に後北条氏の深い干渉を許していたかにもよると思うのです >がどうなのでしょう? さて、どうだったでしょうか。その辺を判断できる史料は今のところ見たことありません。 > 確か牛久の岡見氏の牛久城の在番衆に高城氏や豊島氏と一緒に土岐氏も加わっていましたね。 >土岐氏って高城氏などと一緒にいわゆる後北条氏の国人衆としての地位を保っていたとは言えな >いでしょうか?いわゆる傘下には入ってますが完全な傀儡ではなかったと言う点です。 そうだと思います。その点が岡見氏とは立場が違うと思います。 ひづめ@美浦村お散歩団 1133. Re: RE: 木原城の謎?(追加) ひづめ [URL] 2002/01/18 (金) 23:08 ●潮風さんのNo.1126へのレス追加: >もともと近藤氏が戦国時代に木原城主だった事は確実でしたっけ? 『関東八州諸城覚書』(『龍ヶ崎市史中世史料編』P319)に「木原 進藤」という記述がありま す。『龍ヶ崎の中世城郭跡』ではこれは近藤の誤りとしていますね。いつ頃書かれたものなので しょうか、年月日は入っていません。少なくともどこかの時点で「進藤あるいは近藤」という者 が木原にいたのでしょう。 ただし、もう少し調べなくてはなりませんが、『土岐・岡見氏一族・旗本・家臣等覚書』(『龍 ヶ崎市史中世史料編』P319)その他からの推測ですが、近藤氏は木原館にいて、大城の木原城に は土岐信濃守というのがいたのかもしれません。今までにそういう話は聞いたことはありません が。 ひづめ@美浦村お散歩団 1146. 木原城の素朴すぎる疑問 五郎 2002/01/27 (日) 00:29 こんばんは。 木原城について、ちょっとした疑問があるんですが、ご意見をお聞かせください。 木原城の主曲輪の位置が北西端ですが、これは敵側の正面になると思います。出来れば反対側に 有るほうがベストではないかと思いますが、こういうことは何ら問題ないことでしょうか? もちろん周囲が湿地帯だから、そちらからは攻めずらいのはわかりますが、それにしても敵に腹 をさらしてるようで不安を感じます。主曲輪の下から見たとき驚くほど低いのでそう思ったので すが。 ただあの場所では地形的に、ああするしかないのでしょうが、近くでほかに適地は無かったので しょうか。 1147. RE: 城は守るだけではなかったのかも 管理人・潮風 [URL] 2002/01/27 (日) 2 1:26 五郎さん、どうも。 |木原城の主曲輪の位置が北西端ですが、これは敵側の正面になると思います。 城の縄張りについてはその城によっていろいろな形態があると思います。 例えばお城の攻防戦となると『城を枕に』って言う悲劇的な最期まで城と共に戦うって言う美 意識も無かったとは言えないのですが、でも実際にはそれはかなり稀であって、一般的には『い ざと言う時の退路の確保』って言うものを想定してあったと思います。 つまり縄張り的に守る側としては『敵に攻めて来て欲しい正面側』と『敵が攻めてこれない後 方側』って言う意識があったのではないかって言う事です。木原城の場合、本丸の後ろは霞ヶ浦 の水が入り込んでいたと思われますから『後ろ堅固』になるわけですよね。 一方でいざ逃げるって言う場合(予想を越える大軍が押し寄せてきた場合など)に最初から 『敵が攻めてこれる後方』を作っておいてしまうとそれこそ『城を枕に』するしか無いわけです (^_^;) そういう意味で城の縄張りって一方では確かに出来るだけ堅固にしたいって言う事もあると思 いますが、その反面でいざと言う時の退路の確保も必要であったのではないでしょうか。 これは野戦でも言える事で、味方が必ず勝利するとは限りませんからいざ総崩れでも起こした際 の退路の確保は最初からしておかないと大きな損害が生じる事になります。城もこれと同じで逃 げ道の確保は重要だったのではないでしょうか。 一方で攻め寄せる側も蟻の抜け出る隙間すら作らないって言う包囲の仕方ではなく、城を包囲 した場合には守り側がどこか逃げられる場所を1ケ所作っておくのが良いとされます(これを 「欠囲」と言いますね)。そうしないと完全に包囲された城側の守備兵士は死に物狂いで戦って 来るので攻め側もそれだけ損失が多いという事になるわけです。出来るだけお互いに損害は少な くしたいわけですからそういう戦法もあったようです。 ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1148. Re: 木原城の素朴すぎる疑問 ひづめ [URL] 2002/01/27 (日) 22:44 五郎さん、こんばんは。 > 木原城の主曲輪の位置が北西端ですが、これは敵側の正面になると思います。 天正元年、霞ヶ浦対岸の出島まで押し寄せた佐竹軍に対してまさに真っ正面になりますね。出 島での攻防戦はよく見えていたのではないでしょうか。 昨夜から続いた強風のおかげで今日は最高の透明度で出島側が見渡せました。走っている自動 車が見えるくらいですから目の良い人なら人々の動きも見て取れるのじゃないかな。 >出来れば反対側に有るほうがベストではないかと思いますが、こういうことは何ら問題ないこと でしょうか? 舌状台地先端部に占地したここいら周辺の城郭では主格部が低い位置にあるというのも珍しく はないと思います。 > もちろん周囲が湿地帯だから、そちらからは攻めずらいのはわかりますが、それにしても敵に 腹をさらしてるようで不安を感じます。主曲輪の下から見たとき驚くほど低いのでそう思ったの ですが。 たしかに現在の道(おそらく根堀を埋めた上に作られた道だと思う)から見上げると驚くほど低い ですよね。もっともそこまで近づければ、ですが。深田だったというのは防御施設としての何重 の堀土塁にも匹敵したのではないでしょうか。現代兵器のような飛び道具がなかった時代ですか ら、腹をさらそうが尻をさらそうが至近まで近づけなければ攻撃の意味もなかったのでは。当時 の鉄砲の最大効果距離が30mだということですから。 > ただあの場所では地形的に、ああするしかないのでしょうが、近くでほかに適地は無かったの でしょうか。 何にもない自然の山林を開墾して中世に木原城を作ったわけではなさそうです。というのは木 原城の本丸の場所は縄文中期以降、弥生時代、古墳時代、中世を通して人々が住み続けてきた土 地のようです。(茨城県内で最初に確認された環壕集落遺構でもあります。) ここはいつの時代にも人の住みやすい場所だったのでしょうし、さらにいえばそれぞれの時代 の権力の象徴的場所でもあったことでしょう。また、戦時に限らず霞ヶ浦を航行する船にとって はランドマーク的な場所でもあったのではないでしょうか。 この周囲には似たような舌状台地の張り出しは何本もありますから現在の木原城の場所が最適 地だったかどうかはなんとも言えませんが、過去から続いて利用されて来た使いやすい場所だっ ただろうということは想像に難くないと思います。 ひづめ@美浦村お散歩団 1149. Re: 2木原城の素朴すぎる疑問 五郎 2002/01/29 (火) 22:40 潮風さん、ひづめさん、こんばんは。 縄張り的には特に異議なしということですね。 主曲輪の位置とは関係なく攻め手の正面はやはり、台地続きの南や西側になるんでしょうね。主 曲輪下まで水がひたひたと来ていれば船で攻められるということも有るでしょうが、泥田で帯曲 輪と堀があれば、まずこちらからは問題ないと見ますか。 近くの水面まで敵の船が何十艘も押し寄せて、しかし手を出せない。 城内から悠々とそれを眺めている、なんていう場面を想像してみます。 …いくらなんでも悠々とはないですね(^_^; >ここはいつの時代にも人の住みやすい場所だったのでしょうし、さらにいえばそれぞれの時代の 権力の象徴的場所でもあったことでしょう。 なるほどそういう場所に築城することは権力者にとっては重要な意味を持つわけでしょうね。新 たな見かたを教えていただきました。 それに木原の町は当時も港町として重要だったでしょうから、そこを守るにはあの場所が最適で もあったのでしょうか。 1153. 竪堀 管理人・潮風 [URL] 2002/01/30 (水) 23:05 ひづめさん、どうも。 早速ひづめさんのサイトの遠山土塁を拝見しました。 ただし、あの堀の両側が谷津に落ちているのは竪堀でしょうか? 僕は『堀の延長線上で斜面に落ちているのは竪堀ではない』って思う部分が ありまして。つまり高低差のある斜面などに故意に縦に堀を切るのを竪堀と言 うのであって、曲輪に施された堀がそのまま延長線上で落ち込んでいるものは あくまで堀の延長線としての『続き』なだけであって竪堀と呼ぶのはちょっと 違うのではないかと思うのですが如何でしょう。 ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1156. Re: 2木原城の素朴すぎる疑問 管理人・潮風 [URL] 2002/01/30 (水) 23:23 五郎さん、ひづめさん、どうも。 |縄張り的には特に異議なしということですね。 少なくても僕はそんな事は無いです。あくまで城の形態によっては必ずしも本丸を最後の砦に するだけの城ばかりでは無かったのではないかと言う事例を出したまででして・・(^_^;) 全て が全て本丸を最奥部にする事が必ずしも一定の普遍性を持っていたのかと言う点に疑問があるの だけでして。で、木原城についてですが、、、 例えば城下町が本丸のすぐ東側に形成されている事、西側にある舟子城との密接な城郭での繋 がり、土浦方面からの街道が本当に木原の南側からしか想定されていなかったのかなど疑問は残 ります。また深田だったとの事ですがオフの時にひづめさんに戴いた阿見町の図(カラー)を見 ますと、木原と舟子城の間は水が入り込んでいてちょっと距離を感じます。つまりこの両城の間 (水が注ぐ河口)はこの両城で守っていたのではないでしょうか。攻める側にすれば深田は厄介 ですが、守る側だって深田は厄介なものかなと。 |主曲輪の位置とは関係なく攻め手の正面はやはり、台地続きの南や |西側になるんでしょうね。 以上の理由で木原に関してはわからない点(疑問)も残りますが、舟子城や周辺の城との連携 はやはり水を利用していたと考えてよいのではないでしょうか。仮に本丸が敵の方向だからと言 って必ずそこから攻められたかどうかはまた違うものかと思っています。例えば上記で書いたよ うに木原の城下町って本丸のすぐ東に接していますよね。あんな大きな城郭なのに本丸のすぐ東 側が栄えていたわけです。とすればここの産業の中心はやはり水を利用した経済性であったので はないかとの推測も出来るのかなと思っています。 本丸のすぐ脇が経済の中心であったと考えると本丸のすぐ近くに水を利用した産業が存在した と言う事にもなろうかと思っています。つまりそう考えるとやはり本丸付近には舟が行き来出来 る水が入り込んでいた可能性のほうが高いと考えたほうが良いのかなと思っていますが如何でし ょう? −−−−− でも弁天郭が築けたって事はやっぱ深田程度だったのかなあ・・・。 そもそも寺曲輪辺りが本丸だった可能性って無いんですかね? 今の本丸と呼ばれる場所が絶対とも思えないのですが。 いろいろな角度から考えないと固定観念ばかり進むのもちょっと不安(^_^;) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1159. Re: 木原城の素朴すぎる疑問 五郎 2002/02/01 (金) 21:09 こんばんは。 近世には木原は重要な河岸だったことは確実ですから、やはり木原城と水運は深い関係があった と想像できますね。 ということは水軍の基地的なものも考えられますか。 ただ、河岸の場所は戦国期にもいまの木原の町のほうだったんでしょうか。舟子城との間が入り 江なら、そっちのほうが適地のような気もしますよね。当時の水面がどうなっていたかが知りた いですね。 >でも弁天郭が築けたって事はやっぱ深田程度だったのかなあ・・・。 木原の町場がその先にあるということは、やはりある程度の微高地だったんでしょうか。 > 今の本丸と呼ばれる場所が絶対とも思えないのですが。 いろいろな角度から考えないと固定観念ばかり進むのもちょっと不安 (^_^;) あの巨大な堀と土塁を考えるとやはり最終的な本丸はあそことしか考えられませんよね。本丸、 二の丸あたりだけ土岐氏滅亡後に佐竹側が築いたという可能性は…ゼロですか(^_^; 1160. Re^2: 2木原城の素朴すぎる疑問 ひづめ [URL] 2002/02/01 (金) 23:11 潮風さん、こんにちは。 >〜仮に本丸が敵の方向だからと言って必ずそこから攻められたかどうかはまた違うものかと思っ ています。 二重堀の堅い守りがあの方向に向いていることがそれを裏付けていると思います。あれは御茶 園館や廣徳寺城のある谷津方面からの侵入への備えと見ることができそうでしょう。 >〜本丸のすぐ脇が経済の中心であったと考えると本丸のすぐ近くに水を利用した産業が存在した と言う事にもなろうかと思っています。つまりそう考えるとやはり本丸付近には舟が行き来出来 る水が入り込んでいた可能性のほうが高いと考えたほうが良いのかなと思っていますが如何でし ょう? 木原城ってもともとは本丸の所くらいしかなかった時代が長かったのではないでしょうか、少 なくとも縄文以来。そして霞ヶ浦の水の民の拠点の一つだったと思います。 > でも弁天郭が築けたって事はやっぱ深田程度だったのかなあ・・・。 人が住んでいれば配水路を造ってだんだん地盤は固まっていくでしょうし、霞ヶ浦と弁天郭の 間には水路が通されていたのではないでしょうか。もっともこれは江戸末期の絵図からの印象で すので戦国期にどのくらいの城下が形成されていたのかまでは分かりませんが。 > そもそも寺曲輪辺りが本丸だった可能性って無いんですかね? > 今の本丸と呼ばれる場所が絶対とも思えないのですが。 それはないとは言えないみたいですよ。ひとつのヒントとしては寺郭南側に木原旧館とか物見 砦とか呼ばれる部分があります。あと、県道をはさんでその西側は台といいますが、台という字 は城跡を想起させると大竹先生は言ってました。 > 〜ただし、[遠山土塁の]あの堀の両側が谷津に落ちているのは竪堀でしょうか? 竪堀の件ですが、機能や目的は別にして形態的に堀が縦に落ちていればとりあえず竪堀かなと 思っています。 ひづめ@美浦村お散歩団 1161. Re^2: 木原城の素朴すぎる疑問 ひづめ [URL] 2002/02/01 (金) 23:21 五郎さん、こんにちは。 >ということは水軍の基地的なものも考えられますか。 規模にも依るでしょうが土岐氏や近藤氏に水軍を自前で持つだけの力があったのかな。佐竹が 天正元年に出島を落とした後も湖を横断して稲敷へ攻め込めなかったのは、もちろん北の上杉や 伊達からの驚異もあったでしょうが、水軍を持たなかったからということも理由の一つだったと 思います。自前の水軍はなくても海民を取り込んで組織できれば霞ヶ浦の横断は可能だったと思 います。しかしそうならなかったのは佐竹の力を持ってしてもそれは難しかったのでしょう。海 夫、海民とかいわれる湖上の民についても勉強してみたいと思います。 ただし、江戸崎土岐氏は永享12年に鎌倉府より霞ヶ浦の海賊取締を命じられていますし、天 正16年には高浜まで攻めていってますから、かなりの水上での機動力を備えていたことは確実 ですね。海上保安庁はあったが海上自衛隊まではなかった、という感じでしょうか。 >ただ、河岸の場所は戦国期にもいまの木原の町のほうだったんでしょうか。舟子城との間が入り 江なら、そっちのほうが適地のような気もしますよね。当時の水面がどうなっていたかが知りた いですね。 本当ですね、中世の水面ってどうすれば調べられるのでしょうか。 >〜本丸、二の丸あたりだけ土岐氏滅亡後に佐竹側が築いたという可能性は…ゼロですか(^_^; おお、佐竹築城説、またもや新説ですね。 ひづめ@美浦村お散歩団 1162. 土岐氏・近藤氏と北条氏 小太郎 [URL] 2002/02/02 (土) 13:06 小太郎、久しぶりの書き込みです。 城郭と水軍の関わりの議論の最中に水を差して申し訳有りません。 土岐氏や近藤氏と、北条氏の関わりについて記された文献等がありましたら、教えていただけな いでしょうか。「小田原市史」をはじめ北条氏関係の資料には触れられていませんので。北条氏 優位の従属的な同盟関係でもなく、親しく書状の遣り取りがあったとも思えません。佐竹家の脅 威から北条側への姿勢を強めたと言う資料もなく、両者の関係がどうもわかりません。良く知ら れる北条攻めの際の資料「北条家人数覚書」にいきなり登場してきた感が否めません。それらに ついて書かれた書籍等がありましたらお願いします。 常陸南部の古城を回る予定です。多賀谷氏や結城氏のゆかりの古城で本城(多賀谷城、結城城) 以外にお薦めの城がありましたら御教示願います。 勝手なお願いで申し訳有りません。 1165. Re^2: 木原城の素朴すぎる疑問 管理人・潮風 [URL] 2002/02/02 (土) 21:59 ひづめさん、どうも。 |土岐氏や近藤氏に水軍を自前で持つだけの力があったのかな。 何の根拠も無いですが『陸』を守るだけで精一杯だったのでは?(^_^;) |佐竹が天正元年に出島を落とした後も湖を横断して稲敷へ攻め込めなかったのは |〜水軍を持たなかったからということも理由の一つだったと思います。 NO.885でも書きましたが佐竹氏は重臣であった小野崎氏に久慈川河口から太田城下までの水運 を掌握させていましたし更に真崎城主の真崎氏に真崎浦での水軍編成を行なわせて真崎浦を支配 させたようです。またこの真崎氏の水軍はその後の文禄の役で肥前名護屋城にて佐竹氏の渡海に あたって真崎氏が現地で舟の手配や段取りを行なっている事でも証明させているそうです。であ れば佐竹氏は水軍を持っていたかは別にしても水を利用した経済掌握術や防衛策と言うものは把 握出来ていたと考えたほうが良いのではないでしょうか。 僕はむしろ佐竹が出島より南下出来なかったのは後北条氏との直接対決だけは避けたかったと 言うのもあったのではないでしょうか。佐竹氏は北で伊達、南では後北条氏と言う対立図式でし たので出来れば直接国境を接したくはなかったと言うのはあったのではないかと。 しかし天正16年の佐竹家譜によれば後北条氏が江戸崎から霞ヶ浦を経由して宍倉の北の高浜に 侵犯したとの記事があるそうですね。これはやっぱり土岐氏の水軍を後北条氏が利用したと見た ほうが良いのでしょうか。 | おお、佐竹築城説、またもや新説ですね。 既に天正18年以降は江戸崎をも掌握した佐竹氏が今更あんな場所に築城する理由がわかりま せん(^_^;) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1166. Re^2: 2木原城の素朴すぎる疑問 管理人・潮風 [URL] 2002/02/02 (土) 21:59 ひづめさん、どうも。 |二重堀の堅い守りがあの方向に向いていることがそれを裏付けていると思います。 ただそう考えると大手郭と呼ばれている場所は余りに二重堀とは近すぎますね、気になります。 更に言えば木原城の三の丸へ入る手段は一体どこからかって事です。この大手郭の位置の理由っ て何でしょ?敵が必ず大手郭からしか侵入できないような誘導的な縄張りになっているって言う 事でしょうか?>城の東側 但し木原城も時代の移り変わりがありますから一概には語れない部分もあるのがツライのです が(^_^;) |木原城ってもともとは本丸の所くらいしかなかった時代が長かったのではないで |しょうか それ以降にこのようにかなり大規模な拡張をしたのでしょうか。う〜ん、でも全体的に縄張図 を見れば誰でも本丸は今の本丸って呼ばれている場所ですよねー(^_^;) で、寺郭の北に角馬出しのような、出構のような形のものがありますが、ここが南からの侵入 の重点的な防御であり、西方向が大手郭であったと言う事だったのでしょうか? |もっともこれは江戸末期の絵図からの印象ですので戦国期にどのくらいの城下が形成 |されていたのかまでは分かりませんが。 そういえば失念しているのですが江戸時代に木原城って存在していたんでしたっけ?既に廃城に なっていたと思ってました。でもこの縄張図(ひづめさんのサイトにもありますね)を全体的に 眺めていると江戸時代の城下町を見ているような印象がプンプンしますね('-'*)フフ♪ |それはないとは言えないみたいですよ。 もしかしてこの周辺の複数の城跡が一つの枠の中に収まっているのが現在の縄張図とか?(^_^;) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1167. Re: 木原城の素朴すぎる疑問 管理人・潮風 [URL] 2002/02/02 (土) 21:59 五郎さん、どうも。 |やはり木原城と水運は深い関係があったと想像できますね。 ですよね、僕も木原城と水の関係だけは外せないと思っているのです。ただこの縄張図ですが 霞ヶ浦の水をわざわざ用水路のような形で弁天郭に引き込んでいるのが気になりますね。まるで 霞ヶ浦の水がここまで入り込んでいなかったような錯覚を受けてしまいます(^_^;) |木原の町場がその先にあるということは、やはりある程度の微高地だったんでしょうか。 寺郭の西にも『台宿』がありますね。街道と街道に挟まれた場所に木原城ってあったのでしょ うか?木原城の北から土浦へ抜ける現在の国道125号線ってもともと街道だったのでしょうか? |本丸、二の丸あたりだけ土岐氏滅亡後に佐竹側が築いたとい |う可能性は…ゼロですか(^_^; あっ、これ面白いです。実は僕も前回寺郭が本丸だった可能性を指摘したのも、どうも現在言 われる本丸・二の丸・三の丸までの縄張りと寺郭から二重堀周辺のビッシリと守りが堅い縄張り がとても同じ城のものとは思えなかったのですね。 つまり木原城の南の寺郭周辺と主郭(本丸〜三の丸)は別なものに見えてしまうのです。もし かして時代背景に違いがあるか築城者に違いがあるのかも知れないですね( ̄ー ̄)ニヤリ でも佐竹とは思えないんですけどね、、、考えられるとすれば天正18年以降に佐竹氏が霞ヶ 浦全体の防衛の為にこの木原城を本拠としていた?(¨;) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1168. Re^2: 木原城の素朴すぎる疑問 管理人・潮風 [URL] 2002/02/02 (土) 21:59 ひづめさん、どうも。 |本当ですね、中世の水面ってどうすれば調べられるのでしょうか。 全く関係無いかも知れませんが確か永厳寺の入口には貝塚がありましたね。あの高さまで昔は 水に浸かっていた時期があったと言う事なのでしょうか? 僕には貝塚含めて古代は全くの無知でわかりませんが(^_^;) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1169. RE: 土岐氏と北条氏(1) 管理人・潮風 [URL] 2002/02/03 (日) 20:43 小太郎さん、どうも。 |城郭と水軍の関わりの議論の最中に水を差して申し訳有りません。 全然水なんか差してませんですよ、全く問題無しです('-'*)フフ♪ |土岐氏や近藤氏と、北条氏の関わりについて記された文献等があり |ましたら、教えていただけないでしょうか。 まず後北条氏と土岐氏についての書状類はかなり少ないと言うか無いに等しいと言うか、、(^_ ^;) 僕が知っている範囲では3つの書状が特に関係を示しているものと思われるものです。 (1)北条氏照書状(年不詳:天正12年と思われる) (略)〜其以来于今、野州表在陣之間、是非不申達候、併背本意候、 然而、従江戸崎馬二疋、被為牽上候歟、愚領之事、無相違 走申候、委細御使口上相請候間、令省略候、恐々謹言 十月九日 北条陸奥守 氏照 徳川殿 まず(1)は北条氏照が徳川家康に送った書状でして、氏照が下野在陣に関しての事と、土岐 氏から馬が献上された(土岐氏から家康に対して)事が書かれてあります。ここで注目は土岐氏 が後北条氏経由で家康へ馬を献上している事、更に氏照は江戸崎領を『愚領(後北条氏の領土)』 と書いている事です。 土岐氏が後北条氏を通じて既に家康へ馬を贈るような関係になっていた事がこの書状から読める かなと思います。また「愚領」に関しては僕もよくはわからないのですが後北条氏側が既に自分 の支配地の一つと見ていた可能性からこの書状がかかれた時期には既に江戸崎は後北条氏の傘下 地域と見なされていた可能性もあるのかも知れません。 では続きます('-'*)フフ♪ ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1170. RE: 土岐氏と北条氏(2) 管理人・潮風 [URL] 2002/02/03 (日) 20:43 小太郎さん、どうも。 では続きです(^_^) 2つめの史料です。 (2)松田憲秀書状(年不詳) (略)〜仍在陣夏日辛労不可過御推量候、一作廿三、源八郎殿御着陣、 屋形御満足候間、一身之大慶此事候、当表珎儀之候、北国之 事、可然様子ニ候条、可御心安候、委曲令期後音之時之間、 短筆及御報候、恐々謹言、 六月二十五日 松尾 憲秀(花押影) 土源 (土岐治綱の事) これは松田尾張守憲秀が源八郎(土岐治綱の弟の土岐胤倫)の着陣の事をお屋形(北条氏政) が喜んでいると伝えるとともに北国口(多分、上野国方面)の安全を報告した書状です。土岐氏 の出陣について氏政が喜んでいると言う事実は既に土岐氏が後北条氏のいわば一員として戦の際 に出陣していた事を物語っているのかなと思います。 またこれとともに同じように年不詳ながら松田憲秀が正月年頭の祝儀の返書と言う形で土岐治 綱に送った書状も残っています。これを見る限り正月には土岐氏が後北条氏に対して贈り物を献 上すると言う『外交的な繋がり』を持っていた事を示していると思われます。 ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1171. RE: 土岐氏と北条氏(3) 管理人・潮風 [URL] 2002/02/03 (日) 20:43 小太郎さん、どうも。 またも続きです(^_^) 3つめになります。 あと1つですが、後北条氏と直接関係は無いのですが牛久城の岡見治広(岡見氏当主)が龍ヶ 崎城の土岐胤倫(江戸崎の土岐治綱の弟)に送った書状です。 (3)岡見治広書状(年不詳:天正15年頃と見られる) (略)〜乍次奥州御状、為御披見進候へハ、態被為返候、 御厳密之至事、御隔心之様候、敵方様ケ間敷之 由候間、別而用心構可申付候、其篇迄も不可有 御油断候、恐々謹言、 七月廿日 岡治 治広書判 土左兵 この『奥州御状』とは北条氏照が岡見治広へ宛てた手紙を差しています。この手紙の内容を牛 久城の岡見治広は龍ヶ崎城の土岐胤倫へ見せて、今後の予想される多賀谷氏や佐竹氏の攻撃に対 して用心しなくてはいけないと言っています。 この手紙から、後北条氏(北条氏照)が岡見氏へ送った手紙を土岐氏へ見せる事でこの地域 (牛久から龍ヶ崎に至る地域)の守備を互いに強化していこうと言う意図が読み取れると思いま す。つまり後北条氏の書状が土岐氏へも少なからず刺激になっているのは当然の事であり、ここ でも後北条氏と土岐氏の繋がりを見る事が出来るかなと思います。 ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1172. RE: 近藤氏はわかりません(^_^;) 管理人・潮風 [URL] 2002/02/03 (日) 20:43 小太郎さん、どうも。 後北条氏と土岐氏の関係の史料は前述の3つの件で宜しいでしょうか? で、近藤氏については僕もよくわかりません(^_^;) と言うのも近藤氏についてはこれと言っ た確たる史料が無く、あくまで『関東八州諸城覚書』に登場するだけですね。この『関東八州諸 城覚書』や『小田原北条家覚書』は後北条氏が作成したものではなく(後北条氏作成は『小田原 一手役書立』のみでしょう)、あくまで豊臣側から見ての覚書ですから果たして後北条氏が一体 どこまで近藤氏までを重要としていたのかは不明ですね。 近藤氏が木原城主だったかもこの史料をもとにしている事もあるかなと思われます。実際にも 木原城内の永厳寺にある棟札に近藤氏の事が書かれている程度の事のようです。 |良く知られる北条攻めの際の資料「北条家人数覚書」にいきなり登場 |してきた感が否めません。 確かにそうですね。江戸崎の土岐氏などは美濃土岐氏の流れとは言え、意外と知られていない 地味な存在でもありますね。 |多賀谷氏や結城氏のゆかりの古城で本城(多賀谷城、結城城)以外にお薦 |めの城がありましたら御教示願います。 常陸南部地域で結城氏の城跡は無理です、結城氏は南部まで進出していませんから(^_^;) 多賀谷氏に関しては牛久城の近くまで(足高城)進出してますが南部でお勧めと言うと難しい かな。いえ、南部地域では例えば栗橋や古河、逆井までは後北条氏、守谷周辺は相馬氏、牛久周 辺は岡見氏、龍ヶ崎から江戸崎へは土岐氏、鹿島方面は鹿島大掾氏が支配していたわけなんです。 小太郎さんが多賀谷氏や結城氏を目的に回られるならばもっと北上されないと辛いかなと(^_^;) 常陸南部と言うとどの辺になりますでしょうか。日程さえあえば御案内させて戴きますよ(^_^) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1175.近藤氏は?ひづめ[URL]2002/02/04 (月) 23:35 小太郎さん、潮風さん、こんにちは。 ●No1162、1169、1170、1171関連: >>〜土岐氏や近藤氏と、北条氏の関わりについて記された文献等がありましたら、教えていただ けないでしょうか。 >(1)北条氏照書状(年不詳:天正12年と思われる) >(2)松田憲秀書状(年不詳) >(2')松田憲秀書状(年不詳) >(3)岡見治広書状(年不詳:天正15年頃と見られる) 潮風さん、すっとこれらの史料が出てくるなんてすごいですね。私が知っているのも同じです。 ●No1172関連: >〜あくまで豊臣側から見ての覚書ですから果たして後北条氏が一体どこまで近藤氏までを重要と していたのかは不明ですね。 そうなんですよ。たとえば年月不詳ですが『土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書』の中には (長いので前後を省略) 土岐家一族 土岐大膳多夫 江戸崎城ノ城主 土岐河内守 大田ノ城主 土岐源治郎 乙原ノ城主 土岐信濃守 木原ノ城主 とあり、時期や人物の詳細がわからない部分もありますが木原の城主として土岐家の者が入って ます。この文書には近藤の名はどこにも出てきません。別の機会に意見を交換したいのですが、 一宮楯縫神社の近くに木原館というのがあって、近藤氏と関連つけている人もいます。これにつ いてはまた今度にしましょう。 >〜永厳寺にある棟札に近藤氏の事が書かれている程度の事のようです。 少し訂正しておきますね。永厳寺の棟札でなく、「一宮楯縫神社棟札」です。ただこれも実物 は残っているのかいないのかはっきりしないらしく、江戸時代末期に編さんされた宮本茶村の 『安得虎子』に書き写されたものが残っているだけだそうです。そして永厳寺の資料としては 「永厳寺寺伝」です。このなかに近藤氏のことが書かれています。 >確かにそうですね。江戸崎の土岐氏などは美濃土岐氏の流れとは言え、意外と知られていない >地味な存在でもありますね。 地味と言えば地味ですが、遠き西国の一大勢力と絆があったという点ではたいへん興味深いで す。 ひづめ@美浦村お散歩団 1176. 木原城の謎 その1 ひづめ [URL] 2002/02/06 (水) 08:15 潮風さん、またまたたくさんありますね。 ●No1165 > NO.885でも書きましたが〜佐竹氏は水軍を持っていたかは別にしても水を利用した経済掌握 術や防衛策と言うものは把握出来ていたと考えたほうが良いのではないでしょうか。 引用文の途中をいっぱい省略してしまいましたが、真崎水軍のはなし、石神城オフの頃の記事 でしたね。在地勢力を水軍として強化編成する、もし霞ヶ浦で水軍を使うとしたら霞ヶ浦の在地 勢力の協力が必要だったことでしょう。 > 僕はむしろ佐竹が出島より南下出来なかったのは後北条氏との直接対決だけは避けたかったと 言うのもあったのではないでしょうか。 永禄6年頃には土岐氏も北条氏との同盟に入っていたようですからね(天正元年からさかのぼ ること10年)。それに霞ヶ浦の西側にはまだ小田氏治も残ってますものね。 >しかし天正16年の佐竹家譜によれば後北条氏が江戸崎から霞ヶ浦を経由して宍倉の北の高浜に 侵犯したとの記事があるそうですね。これはやっぱり土岐氏の水軍を後北条氏が利用したと見た ほうが良いのでしょうか。 私もそう思います。北条氏は水軍を持っていたそうですが霞ヶ浦まで引き連れてきたとは思え ませんよね。水軍というレベルかどうかは別にして土岐氏に軍船を出させたというのが考えやす いんじゃないでしょうか。 ちょっと長いので分割します。 ひづめ@美浦村お散歩団 1177. Re: 木原城の謎 その2 ひづめ [URL] 2002/02/06 (水) 08:16 ●No1166 >ただそう考えると大手郭と呼ばれている場所は余りに二重堀とは近すぎますね、気になります。 >この大手郭の位置の理由って何でしょ? 大手という名称は「地元に伝わる」という但し書きつきみたいです。「大手」という名称には こだわらないほうがよいとして、この区画って変形の馬出ですか? >更に言えば木原城の三の丸へ入る手段は一体どこからかって事です。 大手郭、南虎口、きぜ虎口(三の丸の西端)。 >敵が必ず大手郭からしか侵入できないような誘導的な縄張りになっているって言う事でしょうか? >>城の東側 東側から来やすいと思っていたのでしょう。 >|木原城ってもともとは本丸の所くらいしかなかった時代が長かったのではないでしょうか > それ以降にこのようにかなり大規模な拡張をしたのでしょうか。 補足ですが、「本丸の所くらいしかなかった」の意味は、中世城郭としての木原城が本丸だけ の城だったという意味ではないですよ。「縄文時代以降中世までのかなり長い期間、いま本丸と 呼ばれている場所とその周囲くらいがなんらかの砦的な施設だったのではないか」という意味で す。 そして戦国時代のどこかの時点で大規模な拡張が行われたのだと思います。いつの時点か、誰 が行ったかを知りたいものです。 ちょっと長くなったので分割します。 ひづめ@美浦村お散歩団 1178. Re^2: 木原城の謎 その3 ひづめ [URL] 2002/02/06 (水) 08:17 ●No1166 > で、寺郭の北に角馬出しのような、出構のような形のものがありますが、ここが南からの侵入 >の重点的な防御であり、 南虎口のことでしょうか。 >西方向が大手郭であったと言う事だったのでしょうか? 西方向というのは台のことですか? >そういえば失念しているのですが江戸時代に木原城って存在していたんでしたっけ?既に廃城に >なっていたと思ってました。 廃城だったでしょう。ただ、破却はされなかったので遺構は残ったという事だと思ってます。 >〜でもこの縄張図(ひづめさんのサイトにもありますね)を全体的に眺めていると江戸時代の城 下町を見ているような印象がプンプンしますね('-'*)フフ♪ >〜ただこの縄張図ですが霞ヶ浦の水をわざわざ用水路のような形で弁天郭に引き込んでいるのが >気になりますね。まるで霞ヶ浦の水がここまで入り込んでいなかったような錯覚を受けてしまい >ます(^_^;) この縄張図は発掘無しで作った上に、近世の村絵図やつい近年まで残っていた水路などからの 類推もあるはずです。戦国時代からこういう構えをしていたとは読まない方が安全だと思います。 > もしかしてこの周辺の複数の城跡が一つの枠の中に収まっているのが現在の縄張図とか?(^^;) それはあり得るかも。南端の物見砦(木原旧館)や西側の台などは木原城の縄張としては一体感が 乏しいような気がします。 もう一度分割します。 ひづめ@美浦村お散歩団 1179. Re^3: 木原城の謎 その4 ひづめ [URL] 2002/02/06 (水) 08:17 ●No1167 > 寺郭の西にも『台宿』がありますね。街道と街道に挟まれた場所に木原城ってあったのでしょ うか? あの龍ヶ崎への街道ができたのは昭和6年だったとオフのとき大竹先生は言ってましたね。 > 木原城の北から土浦へ抜ける現在の国道125号線ってもともと街道だったのでしょうか? 戦国時代に、ですか。どう思います。 > つまり木原城の南の寺郭周辺と主郭(本丸〜三の丸)は別なものに見えてしまうのです。もし >かして時代背景に違いがあるか築城者に違いがあるのかも知れないですね( ̄ー ̄)ニヤリ ●No1168 >|本当ですね、中世の水面ってどうすれば調べられるのでしょうか。 > 全く関係無いかも知れませんが確か永厳寺の入口には貝塚がありましたね。あの高さまで昔は >水に浸かっていた時期があったと言う事なのでしょうか? 私も詳しくはないですが、有史以前には何度も海進と海退が繰り返されていますので、標高10 〜15mのあそこらへんも海の底だった時期があったのでしょう。 ひづめ@美浦村お散歩団 1180. 詳細な回答、御礼申し上げます 小太郎 [URL] 2002/02/06 (水) 22:39 潮風さん、ひづめさん、有り難うございます。 私の勝手なお願いについて、詳細なお答えを頂いて感謝いたします。常陸の土岐氏はマイナーゆ えに、あまり取り上げられませんが、北条家との繋がりを伝える史料が残されていたんですネ。 北条氏を経由して馬を送ったこと、北条氏の陣に同陣したこと、北条家との密接な関係が伺えま す。いま、「戦国遺文」をつぶさに見つめ直し、両家の関係を伝える史料がないのか探していま す(古文書ゆえに、なかなか読み下しができなくて頭が痛いですが)。 木原城の白熱した議論、拝聴(?)させて頂いています。木原城や永厳寺を訪ねたときのことが 思い出されます。 どうも有り難うございました。 1182. RE: 後北条氏と土岐氏 管理人・潮風 [URL] 2002/02/11 (月) 21:09 小太郎さん、どうも。 |常陸の土岐氏はマイナーゆえに、あまり取り上げられませんが、 |北条家との繋がりを伝える史料が残されていたんですネ。 確かに常陸土岐氏はマイナーかも知れませんが関東の戦国史的にはなかなか興味深い存在なの ですよ。僕はむしろ関東の戦国史と言うと有名どころばかりにしかなぜ焦点をあてないのか不思 議でなりません、いろんなサイトを見てもどこでも出てくるのは有名どころばっかですよね。実 はこの土岐氏とか岡見氏、多賀谷氏、更に下総とか上総で言えば井出氏、国分氏、高城氏、豊島 氏などにもよく焦点をあてていかないと本当の意味での後北条氏の関東での戦略とか動きとかは 見えてこないのではないかと思っているんですけどね(^_^;) ですので小太郎さんのサイトでぜ ひこの辺もフォローして戴けるといいなあって思っています。つまり後北条氏側から見た下総や 常陸南部の様子の事です('-'*)フフ♪ 有名どころの話はわかっているのですがこのようなちょっとした地方の戦国史が抜け落ちている のは単に話題がマイナーだからっていう事だけで片付いてしまっているとしたらちょっと個人的 には残念ですね。マイナーだからこそもっともっと広めていきたいと思いませんか?>これって 自分だけ?(笑) |「戦国遺文」をつぶさに見つめ直し、両家の関係を伝える史料がないのか |探しています ぜひ何か発見出来ましたら教えて下さいね。 待ってますよ('-'*)フフ♪ |木原城の白熱した議論、拝聴(?)させて頂いています。 白熱しているように見えますか? 実はのんびりじっくり進めているのですが(笑) もし良かったら小太郎さんも突っ込み入れて下さいね('-'*)フフ♪ ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1183. RE: 近藤氏は? 管理人・潮風 [URL] 2002/02/11 (月) 21:09 ひづめさん、どうも。 木原城の謎はまた後日ゆっくりと御返事していきたいと思います。少しづつ進めていきたいと 思っています(^_^) |潮風さん、すっとこれらの史料が出てくるなんてすごいですね。 龍ヶ崎市史の史料編と東町史の中世史料編から探してみました。他にも国分氏との交流とか謙 信との交流とかありましたね。岡見が江戸崎土岐治綱宛てではなく龍ヶ崎城主の弟に手紙を出し ている様子なども兄弟で仲が悪かったのか弟の胤倫の独立意識も多少強かったのかと興味深く感 じました。 |土岐大膳多夫 江戸崎城ノ城主 |土岐河内守 大田ノ城主 |土岐源治郎 乙原ノ城主 |土岐信濃守 木原ノ城主 この大田ノ城と乙原ノ城ってどこにあるのでしょう?木原城主の土岐信濃守って誰なのか、、、 ううむ、よくわからない事が多い(^_^;) 更になぜ龍ヶ崎城主が書かれていないのかなども気になりますね。龍ヶ崎は結構早い時期に (弘治か天文の頃でしたよね)土岐が抑えていた筈ですし。この史料にはこの4つの城しか紹介 されていなかったのですか?この4つの城が土岐氏の中では重要な場所だと認識されていたと言 う事でしょうか? |この文書には近藤の名はどこにも出てきません。 不思議ですね。それに全部土岐の名前しか出てこないのも不思議です。まさか秀吉が全国統一 を果たした際に豊臣性を地方の大名にあげたりしてましたがあれと同じなのでしょうか?(^_^;) ・・・質問が多くてすいません、返事を分けますね。 ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1184. RE: 近藤氏は? 管理人・潮風 [URL] 2002/02/11 (月) 21:09 ひづめさん、どうも。 |一宮楯縫神社の近くに木原館というのがあって、近藤氏と関連つけてい |る人もいます。これについてはまた今度にしましょう。 ここは以前に行きました。確か鶏が道路を歩いていましたね(笑) で、場所はわかったのですが 藪が酷くて見てません(^_^;) 美浦村史では南北朝の戦いではこの楯縫周辺が激戦だったと書い てありますね。一説では戦国末期に木原左近と言う人物が城主だった説もあるとか。城跡は古墳 跡を利用しているようですね。結構良く残っていますか? |「一宮楯縫神社棟札」です。 でしたか。ところで美浦村史を見ていたら牛久市・久野の観音寺蔵棟札に土岐原氏と近藤氏の 名前が連名で記載されている写真がありましたがこれはどうなのでしょ?『近藤丹後守』とは一 体・・?(^_^;) しかしこの美浦村史にも江戸崎町史からと言う事で土岐氏の家臣が書かれてありますが木原は 『伊藤伝右衛門』と言う名が、、、果たして木原って誰が城主だったのかさっぱりわかりません ね(^_^;) |地味と言えば地味ですが、遠き西国の一大勢力と絆があったという点では |たいへん興味深いです。 以前にも話題になりましたが越前朝倉氏や甲斐武田氏とも繋がりがあったようで尚更興味深い です。 それとこの前、『土岐原史記』を見ていましたら土岐氏の戦国時代の動き(合戦に参加したと か)が余りに少ないと書かれてありましたね。確かに史料も少ないのもあるかも知れませんが後 北条氏や岡見、国分氏などと一緒にあちこちの戦に出陣したなんて言うのは意外と少ないのでし ょうか? 天正年間などは特に活発な書状のやり取りとか合戦とかの様子がもう少し伝わってきても良さ そうなんですけどね(^_^;) ではでは(^^) 潮風@常陸国より 1185. Re: RE: 後北条氏と土岐氏 ひづめ [URL] 2002/02/13 (水) 09:19 こんにちは。 >|「戦国遺文」をつぶさに見つめ直し、両家の関係を伝える史料がないのか >|探しています > ぜひ何か発見出来ましたら教えて下さいね。 書かれたものや遺物などある程度の量が残っていないとどうしてもマイナーになってしまうの でしょうね。それだけにほんのちょっとのことでも書かれたものが見つかるとありがたいです。 ひづめ@美浦村お散歩団 1186. Re: RE: 近藤氏は? ひづめ [URL] 2002/02/13 (水) 09:20 こんにちは。 > この大田ノ城と乙原ノ城ってどこにあるのでしょう?木原城主の土岐信濃守って誰なのか、、、 大田は新利根町大田にある大田城(東条城)のことでしょう。乙原はおそらく阿見町追原のこ とだと思いますが、「追原に城跡はないんだよなぁ」と大竹先生は言ってます。土岐信濃守につ いても「これは分からない」そうです。先生はあまり史料として評価されてませんでした。しか し土岐信濃守の名は、『龍ヶ崎市史中世史料編』P293No28とP330N08にも出てくるので私とし てはまんざら架空の人物とも思えないのです。 > 更になぜ龍ヶ崎城主が書かれていないのかなども気になりますね。 2ページ以上のかなり長い文書を省略したので切ってしまいましたが、「土岐左兵衛尉 龍ヶ 崎城主」と書かれています。 >|この文書には近藤の名はどこにも出てきません。 > 不思議ですね。それに全部土岐の名前しか出てこないのも不思議です。 上に書いたように長い文書なので土岐の名前だけではないです。(前欠)となってますから近 藤の名がないのはこの欠けた部分に載っていたのかも。 ひづめ@美浦村お散歩団 1187. Re: RE: 近藤氏は? ひづめ [URL] 2002/02/13 (水) 09:22 こんにちは。 >〜美浦村史では南北朝の戦いではこの楯縫周辺が激戦だったと書いてありますね。一説では戦国 末期に木原左近と言う人物が城主だった説もあるとか。 『吉野記』というのに書かれているそうですが今のところこれ以上はわかりません。木原左近 は『東国闘戦見聞私記』に登場するんではなかったかな。 >〜城跡は古墳跡を利用しているようですね。結構良く残っていますか? 北側の三重の土塁は藪の中ですが、以前に比べ郭の中は見やすくなってます。また、国道125 号線が東側の大きな堀を横切っています。一宮楯縫神社と廣徳寺城は目と鼻の先です。 >〜ところで美浦村史を見ていたら牛久市・久野の観音寺蔵棟札に土岐原氏と近藤氏の名前が連名 で記載されている写真がありましたがこれはどうなのでしょ?『近藤丹後守』とは一体・・?(^_^;) 木原城主といわれる近藤氏本人かどうかはともかくとして、土岐氏の家臣に近藤氏がいたのは 確かでしょう。近藤の名は他にもいくつかの文書に出てきます。 > しかしこの美浦村史にも江戸崎町史からと言う事で土岐氏の家臣が書かれてありますが木原は 『伊藤伝右衛門』と言う名が、、、果たして木原って誰が城主だったのかさっぱりわかりません ね(^_^;) 伊藤伝右衛門は土岐の家臣であったが木原へ客分として来ていた、とどこかで読んだことがあ ります。伊藤伝右衛門家は今でもあります。今度いっしょに行ってみましょうか、お城の話を聞 いても分からないでしょうが。 > それとこの前、『土岐原史記』を見ていましたら〜 潮風さん、『土岐原史記』をお持ちなのですか?これはどんな本ですか? ひづめ@美浦村お散歩団 1189. 講演会のお知らせ 鴨志田智啓 2002/02/19 (火) 23:36 [前半部省略] ひづめさん・・・「土岐原史記」について、ご報告いたします。これは、かつて流通経済大学事務員 でした。伊藤勲さんの遺稿集です。江戸崎土岐原氏の、問題を提示した著作ですが。実は伊藤氏 は、大学へ通勤途中に交通事故に遭い亡くなってしまったのです。志半ばで本当に無念だったと 思います。また、江戸崎の土岐氏を研究している平田満男さんにも聞いてみましたが、伊藤さん には実際にはお会いしていないとのことですが、しかしこれは、いいですと高い評価得ています。 そういう物ですのでご報告いたします。