磯部館

概説 詳細は不明です。磯部稲村神社境内の解説板によると、桜川磯部稲村神社境内、桜の馬場(磯部桜川公園)、桜川流域は、平安時代から西の「吉野」に東の「桜川」と言われるほど東国一の桜の名所であり、紀貫之を始め多くの文豪詩家名士がこの地を訪れ多くの歌や句が詠まれているそうだ。永享10(1438)年磯部稲村神社神主磯部祐行が関東管領足利持氏に花見噺「桜児物語」一巻を献上し、これをもとに将軍足利義教が世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」の起こりとされているそうだ。

:磯部稲村神社境内の解説文中に「関東管領足利持氏」とあるが足利持氏は関東管領ではなく鎌倉公方である。従って、この部分は「関東管領上杉憲実」または「鎌倉公方足利持氏」のどちらかの間違いだと思う。謡曲「桜川」の解説のページをいくつか検索してみたが、磯部稲村神社境内の解説文中同様「関東管領足利持氏」とされているようである。気になったので稲村神社宮司さんに直接問い合わせてみたところたいへん親切に詳しく説明していただけた。以下にそのお応えをまとめておく。
 謡曲「桜川」について:(1)神社に伝わる由緒書に書かれている通りに解説文を作ったため混乱を招くことになってしまい問い合わせも来る。今後、この部分は調べて書き換えたいと思っている。(2)永享10年には世阿弥は佐渡へ流されているためこの年に謡曲「桜川」が作られたという内容には疑問がある。
 磯部館について:(1)宮司さんの家には「先祖が結城合戦に参陣して掴まった折、1度目は神官ということで許されたが、2度目は切られてしまった」という話が伝わっている。(2)お宮のある場所が一番高い所だが、本丸は東側の少し低くなった所(宮司さん住居部分)にあった。(3)南西側に土塁はないが三の丸といわれる場所がある。(4)お宮の西側は低地へ下っていく地形で東側のような堀や土塁はなかった。(5)北側に郭は無かったが現在の東中学校校庭中央から南側にかけて柊窪(シイラギクボ)といわれる大きな窪地があり自然の要害を形成していた。(6)佐竹国替えのときに常陸太田から秋田へ移動する佐竹氏が通ったという佐竹街道が柊窪の中を通っていた。[2003/05/06]
磯部稲村神社
その他の写真
  1. 境内東側は二重堀になっている
訪問記[2003/05/05]大した期待もしないで訪ねたのだが、境内東側の二重の空堀はなかなかのものだった。北側は東中学校およびそれとの間の道路工事で壊されているが一部堀の残存と北西側の隅櫓台は残っている。西側から南側にも東側同様の二重の空堀があったと想像されるが西側については内側の土塁の他はあまり判然としたものは残っていない。南側は神社入り口周囲の整備などにより改変されたと思われる。西側にも二重堀があったと想定すると60mX100mの、神社本殿を中心とする南北に長い方形館址と見られる。『茨城県遺跡地図平成2年度版』の印は北側の東中学校地へもかなり掛かっているのは自然の窪地を利用した堀があったからだろう(註参照)。
所在地西茨城郡岩瀬町磯部字稲置。桜川公園の北東700m、磯部稲村神社境内および町立東中学校校地。
参考書『茨城県遺跡地図平成2年度版』