宇須岸河野館(箱館)(うすけしこうのだて)

概説 亨徳3(1454)年津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来した。
 政通は、当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは市立函館病院から元町公園に至る東西約92m、南北約115m、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれている。この「河野館」を遠くから見ると箱に似ていたところから、「箱館」と呼ばれるようになり、地名発祥の基となった(明治2年「函館」と改称された)。
 永正9(1512)年アイヌの反乱で河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため和人は亀田に移り、箱館は以後100余年にわたって衰退した。
 箱館は宝永年間(1704〜1711)になって、住民の増加に伴い相次いで寺院が建ち、また、寛保元(1741)年には松前藩の亀田奉行所が「河野館」跡地に移されるなど、再び栄えて来た。
 寛政11(1799)年幕府は東蝦夷地を直轄地とし、亨和2(1802)年この跡地に箱館奉行所を設置した。この頃から高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。箱館奉行所庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。[現地説明板より]
市立函館病院跡地の緑化工事が行われている箱館跡(2001.6.11)
その他の写真
  1. 概略図
  2. 船見町称名寺に残る館主河野政通供養碑
訪問記[2001/06/11]9ヶ月ぶりに来てみると、市立函館病院は移転し、その跡地は緑化工事の真っ最中だった。その後、函館市役所で聞いたところ、この場所の利用方法は白紙なので、とりあえず更地にして(一部観光用の駐車場)、広く意見を聞いた上で案をまとめるようです。なお、河野館についての発掘調査の予定は全く無いとのことです。
所在地函館市弥生町
参考書