羽賀亀谷城

概説亀谷城所在地の謎:常陸南部で最初の南北朝の合戦が展開されたのは東条荘内の東条城・亀谷城だ[龍ヶ崎市史中世編]といわれるが、その亀谷城の所在地については確定しておらず、(1)東町釜井説(中山信名『新編常陸国誌』P67)、(2)江戸崎町羽賀説(宮本茶村『新編常陸国誌』補P408、『関城逸史』)、(3)新利根町説があり、このうち羽賀説が通説となっていた。ところが、「別府幸実軍忠状」[『龍ヶ崎市史中世史料編』P180]によれば、暦応4(1341)年、別府幸実は高師冬に従って信太および東条荘内の南朝方の城を攻める。佐倉城(江戸崎町佐倉)を落とした後、伊佐津で小野川を渡河し、同日東条城、亀谷城の順に攻め落としたことになっている。しかし、この文書に記載されている順番で攻撃が行われたとすると、佐倉城と伊佐津の間に亀谷城が位置するとする「羽賀説」には疑問が生じ、「釜井説」がより真実味を帯びる。なお、『江戸崎町史』ではここには「亀谷城古墳」があるとしているが、この地が「亀谷城」の名称で呼ばれるようになったのは宮本説以後なのではないだろうか。[『阿波崎城跡・平台郭跡』「亀谷城の所在地」より抜粋要約]
南側からの遠望
訪問記[2002/5/12]亀谷古墳の場所は未確認
所在地稲敷郡江戸崎町羽賀新畑
参考書『龍ヶ崎市史中世編』、『阿波崎城跡・平台郭跡』