土方歳三の埋葬地     関連ページ:箱館戦争ゆかりの地

概説 明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最終局面での官軍による箱館総攻撃の中、元新選組副長、箱館新政府陸軍奉行並土方歳三は箱館市中のどこかで戦死しどこかへ埋葬された。戦死地と埋葬地についてはこれまでにいくつかの説が出されているが確定的なものはない。ただ、土方歳三がいまだに函館のどこかに眠っていることは確かなようで、このことが土方歳三35年の生涯の最期の地として現在の函館をミステリアスな魅力で包んでいる。
 このページは、函館を訪れ箱館戦争関連史跡あるいは土方歳三関連史跡を歩くときの一つのヒントになればと思い、戦死場所・死因・埋葬地に関する現時点での諸説とその場所を簡単に紹介したものです。さらに詳しい内容については参考書欄に挙げた各書籍とさらに出展文書などをご確認下さい。[2004年8月]
参考書『新撰組研究最前線(上・下)』(新人物往来社)、『土方歳三 新選組の組織者』(河出書房新社)、『クロニクル土方歳三の35年』(新人物往来社)、『土方歳三遺体の行方 解決編』((有)函館パルス企画『箱館人』2004第3号)
[1]戦死地

(1)一本木説

 若松町。国道5号線沿い、総合福祉センターバス停付近。[map-A]

 一本木戦死説は最もよく知られた最有力説だろう。新選組隊士・陸軍奉行添役安富才助が5月12日に五稜郭から歳三の実家に宛てて書いた手紙に、江戸脱走から戦死に至るまでの様子を記している。戦死の状況については「一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。」と書いている。その他、戦死地を一本木と記録する主な記録を挙げると、大鳥圭介『南柯紀行』、小杉政之進『麦叢録』、横倉甚五郎『日記』、内藤清孝『蝦夷事情乗風日記』、立川主税『戦争日記』などがある。
 関連ページ:一本木台場

(2)異国橋(栄国橋・永国橋)説

 末広町。十字街電停の東側、十字街交番南西角の歩道あたりに異国橋はあった。[map-B]

 『中島登覚書』、『島田魁日記』などに「一本木関門より打ち出でて異国橋付近で馬上にて腰間を撃ち貫かれ落命」したことが書かれているが、二人は現場には居なかったという説、居たのだが日記には嘘を書いたという説、などあり。また、有名な歳三最後の言葉、「吾この柵にありて退く者を斬る」を書き留めている、石井勇次郎『戊辰戦争見聞略記』、大野右仲『函館戦記』も聞き書きと言われる。

(3)鶴岡町説

 鶴岡町は現大手町の電車通り沿いにあった。一本木と異国橋のほぼ中間。[map-C]

 明治3年(または5年)、元新選組隊士沢忠輔が日野の佐藤彦五郎(歳三の実姉の夫であり従兄)を訪れ、歳三の最期の模様を語っている。それを彦五郎はメモに残している:「五月十一日朝四ッ時 一本木鶴岡町 土方討死 附添 沢忠助 安富才助 別当熊蔵」。一本木鶴岡町という地名は無いが、一本木か鶴岡町と伝えたものか。

[2]死因

(1)狙撃説

 場所は一本木。

 松前藩と旧幕府軍が11日に一本木で遭遇したことを記録している『松前家戦争御届書』にある米田幸治が歳三を狙撃した人物だという(昭和53年5月19日付『北海道新聞函館支社版』の記事)。

(2)猟師による狙撃説

 場所は一本木関門近く。

 松前藩の戦争届書には、一本木で土方歳三を撃ち取ったことが記録されているが、撃った人物の名前は空白になっているという。その理由として、藩命によって出撃参戦した乙部村猟師のタイチが狙撃したが、藩としては不名誉なこととして公表もできず恩賞も出さず、むしろ口封じのために名主とタイチを拷問したという(『土方歳三の最期と結末』辻光王氏が関係者子孫からの聞き取りをもとにまとめたもの)。

[3]埋葬地

(1)五稜郭内説

 五稜郭町。五稜郭内管理事務所西側奥の土饅頭。[map-D]

 小島鹿之助『両雄士伝』に「従士、(歳三の)屍を担いて五稜郭に還り、壙を穿ちて之を葬る」とある。さらに、明治32年9月10日、上野東照宮で開かれた「伊庭八郎を偲ぶ会」でその出席者の一人が「八郎君の墓は箱館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らにあり。」と語った(『旧幕府』3巻8号)。大正10年9月刊行の片上楽天著『五稜郭史』は一本松の土饅頭を合葬地とし、伊庭八郎もその中に埋葬されたとしている。すなわち、歳三も同所に埋葬されたことになる。ただ、明治11年の土塁修復工事の際に夥しい遺体が発見され、それらはすでに願乗寺へ改葬されていたため、大正15年10月の土饅頭調査のときには中は空であったという(大正15年10月11日付『函館新聞』)。先の発言者と片上はそのことを知らなかったのだろう。

(2)願乗寺説

 東川町。現本願寺西別院。[map-E]

 前述のように、明治11年の土塁修復工事の際に夥しい遺体が発見されたため、それらは願乗寺へ改葬され石碑も建てられた(明治16年10月16日付『函館新聞』)らしいが、願乗寺はその後幾度か火災に見舞われて合葬墓も今は見つからないそうだ。この記事の続きは、墓碑建設より数えて7周期に相当するから墓碑に修理を加え、場所も高等の位地へ移し、翌17日に同寺に於いて供養会と移転式を行う、とある。供養会と移転式を翌日同じ場所で行っていることから、移転先である「高等の位地」は同寺境内と考えるのが自然だろう。

(3)大円寺二本松の根元説

 神山3丁目。大円寺本堂脇。[map-F]

 歳三の馬方だった17歳の吉田松四郎が5月11日、歳三と共に一本木一帯の戦に参加。戦死した歳三の遺体を馬で五稜郭に運び、通夜を営んだ翌朝、松四郎らは神山村の浄土宗無量庵(現大円寺)墓地内の二本松の下に歳三の遺体を埋葬した。この話は昭和63年刊行『それからの土方歳三・蝦夷の花道』で紹介されたが疑問が多く、現在では小説として扱われている。

(4)大円寺無縁塚説

 神山3丁目。大円寺入り口。2回ほど移動しているらしい。[map-F]

 前出の吉田松四郎は50年たった大正7年に、二本松の下の歳三の仮の墓を掘り返し遺骨と副葬品の鎖帷子と小刀も一緒に無縁塚に改葬したことになっている。この話も前項の続きであり、同じ扱いとなる。ただし、現在大円寺の門脇に建っている無縁塚は五稜郭築城時に亡くなった石工たちの墓だというのは小説でなく本当の話。

(5)極楽寺(念仏寺・無縁寺・閻魔堂)説

 吉川町。極楽寺本堂北側。[map-G]

 「七重村の閻魔堂」という説もあるが、七重村に閻魔堂はないそうで、七重浜近くの閻魔堂というとここのことになる。島田魁は一本木関門で戦死した歳三の遺体を亀田七重の念仏堂の縁の下に隠し、後年明治20年になって島田は歳三の遺体を改葬したという。堂は建て直されたということなので、現在の堂の北側空き地が元の堂のあった場所かと思われる。

(6)碧血碑説

 谷地頭町。妙心寺西側、碧血碑。[map-H]

 碧血碑は明治8年に建立された戊辰戦争全体の旧幕府軍戦死者の慰霊碑。侠客柳川熊吉は新政府軍によって出された旧幕府軍兵士遺体埋葬禁止令を無視して、実行寺住職らとともに遺体を実行寺に埋葬した人物。その談話によると、歳三の遺体を閻魔堂から発見し火葬して碧血碑へ納めたと言うが、真偽のほどは疑わしいと言われている。また、これとは別に、(2)願乗寺説に書いた「場所も高等の位地へ移し」という部分を、願乗寺とは別のさらに位の高い場所、と解釈し、碧血碑あるいは函館山のどこかへの改葬を推測している説もある。

(7)山背泊説

 入舟町または船見町。

 『クロニクル土方歳三の35年』p166にひとことあるだけで、具体的な論考を目にしたことはない。

[4]関連地図