会津若松城

概説 別名、鶴ヶ城。元は黒川城といったようだが、黒川城というのは向羽黒山城のことを指すという別の説もある。戦国時代には蘆名氏の居城であったが、天正17年(1589)に伊達政宗が蘆名氏を破り入城するも、翌年には豊臣秀吉の奥州平定で蒲生氏郷が入封、若松城と改めた。その後、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明が入封。寛永20年(1643)保科正之が入封し、以後松平(保科)家の居城として幕末を迎える。戊辰戦争のおりには旧幕府軍として新政府軍との間で激戦が行われ開城を余儀なくされた。
 天守は明治7年(1874)に取り壊されたが昭和40年に外観復元された。また、日新町の阿弥陀寺に櫓が移築され利用されていると聞く。
 戊辰戦争のおり白虎隊が自刃した飯盛山も現在は観光地となっています。
鉄門(左手)方向から見た天守閣
その他の写真
訪問記[2006/10/16]ちょうど天守閣内の資料館では『徳川将軍家と会津松平家』の企画展が行われていた。案の定お散歩団員2号ははぐれてしまい公園内に迷子の放送を流すことになった。
所在地福島県会津若松市追手町。
参考書『【決定版】図説・江戸三百藩「城と陣屋」総覧 東国編』