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新エンドトキシンの話
New Story of Endotoxin


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エンドトキシン研究の黎明期は宮沢賢治の生きた時代だった



宮澤賢治エンドトキシン(
endotoxin)という名が文献上に現れたのは 明治25年(1892)であるが、その4年後の明治29年(1896)に宮沢賢治が花巻町(現在の花巻市)で誕生した。

この頃細菌の狩人達は競って病原菌を発見した。そして現代病因論や免疫学が芽生え始めた。北里柴三郎とベーリングは、ジフテリアや破傷風などでは外毒素で病気を再現できること、抗毒素血清で外毒素を中和することにより治療できることを明らかにし血清療法の基礎を築いた(
1890)。一方で菌体にあると考えられていた多くのグラム陰性菌の病原因子の研究も始まった。これらの菌では培養濾液にはさしたる病原因子は見つからず、エンドトキシン の存在は未だ概念的なものであった。しかし、チフス菌の耐熱性物質が発熱性と毒性を示すことがわかり、菌体成分の注射で白血球が増加することから、宿 主の抵抗力を増強する物質が感染防御に有用であることがわかってきた。また、Coley toxinと呼ばれたヒト腫瘍退縮効果を示す菌体成分の研究も行われた。これらはまさにエンドトキシンの活性そのものであった。

当時特に東北地方には多くの人々を苦しめた飢饉が襲い、伝染病もはびこっていた。宮沢賢治は6歳のとき明治35年
,1902)赤痢を患い花巻町の隔離病舎に入院した。看病した父も感染した。この数年前に伝染病予防法が施行されており、赤痢は強制的に隔離される法定伝染病であった。

大正3年(1914)、18歳になった賢治は蓄膿症の手術で、岩手病院(後の岩手医科大学)に入院した。手術後発熱し発疹チフスの疑いがでたため入院が長引いた。発疹チフスも法定伝染病であり、赤痢にかかって隔離された6歳の時の記憶が蘇り賢治は死への恐怖にさいなまれたと考えられる。

以下の短歌はそのときに詠んだとされる。

目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ

屋根に来ればそらも疾みたりうろこぐも薄明穹の発疹チフス

  
(宮沢賢治『歌稿』大
正3年4月)

発疹チフスはリケッチアによっておこる発熱と発疹を主な症状の感染症である。シラミが媒介する飢饉や戦争につきものの感染症で、時に致命的であり恐れられ ていた。当時はリケッチア病の研究が盛んであったが、抗生物質のない時代でもあり研究中に感染する研究者が多かった。発疹チフスの学名
Rickettsia prowazekiiは 研究中に感染死した二人の研究者の名前からつけられた。リケッチアは細菌の一種であるが、細胞内でしか発育できず、白血球の一種であるマクロファージに取り込まれると殺菌されることがわかったのはずっと後になってからである。

もっとも賢治は、当時ロシア生まれの動物学者メチニコフが白血球が細菌を貪食することを発見して免疫細胞説を唱え、
1908年彼にノーベル医学生理学賞が授与されたことを知っていたのかも知れない。この菌と戦っている自分のけ なげな細胞を想像したのであろう。さすがは賢治である。

なお、佐藤隆房の著書『宮澤賢治-素顔のわが友-』には、当時の医学からすると発疹チフスは誤診であり結核の初期症状ではなかったかと書かれている。佐藤隆房は大正
3年に花巻で開業し後に花巻共立病院(現在の総合花巻病院)開業時に院長として迎えられた。彼は賢治の6歳年上で後に賢治の主治医になる。高村光太郎が戦時中に花巻に疎開したときにも尽力した。

穹とはドーム状のものを意味し、空も穹である。発疹チフスの疑いで入院中の不安な気持ちを癒すために屋上に上ったが見た空はうろこぐもが覆って病んでいるように薄明るかった。賢治の不安な心中が察せられる。

晩年病床で作られたと考えられている文語詩稿『岩手病院』はその時の心情を詠んだものとされる。

『岩手病院』

血のいろにゆがめる月は 今宵また桜をのぼり
患者たち廊のはづれに  凶事の兆を云へり

木がくれのあやなき闇を 声細くいゆきかへりて
熱植ゑし黒き綿羊    その姿いともあやしき

月しろは鉛糖のごと   柱列の廊をわたれば
コカインの白きかほりを  いそがしくよぎる医師あり

しかもあれ春のをとめら  なべて且つ耐えほゝえみて
水銀の目盛を数へ    玲瓏の氷を割きぬ

熱植ゑし黒き綿羊:当時綿羊(羊の別名、顔の黒い種の羊もいる)に何らかの病原菌の死菌を注射して免疫血清を採取し、その病気(感染症)の診断に用いたと考えられる。羊は菌やエンドトキシンなどよって発熱し苦しげに横たえていたので『熱植えし』とか『いとあやし』と表現したのであろう。


「しかもあれ春のをとめら」以下は賢治の看護婦に対する敬愛の情をうまく表している。

賢治は入院中に若い看護婦にひそかな思いを寄せた。
その女性は賢治より3歳年上の高橋ミネさんが定説である。彼女は盛岡近郊の日詰町の名家の生まれで東京慈恵医院看護婦教育所を卒業し一時藤山コンツェルンの創始者藤山雷太宅に看護婦として派遣され、子息の藤山愛一郎(外務大臣等を歴任した政治家、実業家)を坊ちゃんと呼んでいたという。

岩手医大の医学部正門前には『岩手病院』の詩の碑がある(下写真)。碑の左側に「賢治の入院と初恋Kenji Miyazawa's First Love」と題した日本語と英語の解説板がある。

碑の後ろの研究棟の4階に著者が以前いた研究室がある。この棟の右隣に賢治が入院した岩手病院があったが、取り壊され、大正15年(1926)に岩手病院診療棟として新築された。下の写真が現在の様子である。設計は岩手県出身の建築家である葛西萬司とされている。彼は辰野金吾とともに東京駅や日本銀行本店などを設計したことで知られる。

岩手医大は盛岡近郊に移転中である(医歯薬の基礎棟はすでに移転終了、病院などは5年後)。
跡地には一次外来病院などが作られるようだが、この建物は取り壊さずに保存するという。

歌碑
←賢治の歌碑(2010年2月撮影)
右側に見える建物はかっての岩手病院

岩手医大一号館
←中央の建物がかっての岩手病院で、現在は事務棟の一部になっている。簡素な造りながら風格を感じさせる(4階部分は後に増築された)。

右の建物は現在の病院の一部

写真左端が医学部玄関でその右側に賢治の歌碑がある。

(2014年1月4日循環器セ
ンター側から撮影)









賢治は昭和8年(1933)、不治の病結核を発症し37歳でこの世を去った。結核の特効薬ストレプトマイシンが放線菌から発見されたのは彼の死から10年後の1943年だった。

賢治が死んだ年、パスツール研究所(パスツール[1822-1895]により1887年に設立された)のBoivinは、Mesrobianu夫妻とともにTCA(トリクロロ酢酸)を用いて菌体から酸可溶性菌体成分を抽出する方法を発表した。この菌体成分は菌に対する抗血清と沈降反応を示して抗原性をもつことからBoivin(ボアバン)抗原と呼ばるるようになった。この成分が動物に毒性を示すことから、彼らはPfeiffeの言葉を用いてendotoxinと記載した。Boivin抗原は多糖、脂質のほかに蛋白を多く含んでおり、有効成分として蛋白の可能性も一時は指摘された。Boivin型エンドトキシンとも呼ばれる。

昭和25年(1950)になってマックスプランク研究所(ドイツ)のWestphalとLüdertzはグラム陰性菌からフェノール・水法により多糖と脂質成分を抽出する方法を考案した。この成分はエンドトキシン活性を示し、蛋白含量が非常に少なく強い毒性や活性を示すことがわかり、エンドトキシンの実態が明確になった。このWestphal型 エンドトキシンは現在も良く使用され、エンドトキシン研究の進展に大きく寄与してきた。

この時賢治が生きていれば55歳だった。



短歌は下記のサイトから引用した。
・宮澤賢治の童話と詩 森羅情報サービス
http://why.kenji.ne.jp/index.html#top

初恋の女性についての情報は下記のサイトから得た。
・宮澤賢治の詩の世界 http://www.ihatov.cc/index.htmlのなかから
-2009年11月1日ミネさんの
結婚 http://www.ihatov.cc/blog/archives/2009/11/post_662.htm
-2008年12月21日ミネさんは賢治入院を憶えていた http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/12/post_594.htm
(ミネさんの「ちょっとドキッとするような美しさ」の鮮明な写真が数葉掲載されている)
・岩手医科大学/理念/本学の歩み・年史/私立岩手病院の岩手病院と宮澤賢治の項
 http://www.iwate-med.ac.jp/ideology/ayumi/iwate_hospital/

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