エルパソからチワワへ

1)ツームストーンからカルルスバッド・ケーバンまで

3月末の連休を利用して私達はまた旅に出た。

メキシコ3日間を含む9日間の旅行だった。

トランクにテントと炊事用具一式を積んで、ルート10を走り続け、インディオも通過してジョシュア・ツリー国立モニュメントで一寸立ち寄って記念撮影をした。ジョシュア・ツリーは“荒野の7人”にもチラッと出てくるが、枝の先端にぼさぼさと緑の葉を密集してつけている木でユッカの種類で最大のものと言われている。これが異常にたくさん群生している所がインディオを過ぎた辺りからアリゾナにかけて広範囲に広がっていて、ナショナル・モニュメントになっていた。(現在は国立公園となっている。)

アリゾナに入ると景色は次第にサボテンが目立ち始める。刺のある低木に混じってジャイアント・カクタスのサワーロが林立し始める。その日はロサンゼルスから450マイル余りも走ったのでドライバーは足がつるほどだったと思う。私はまだ高速道路の運転は怖くて出来なかったので全て主人まかせだった。10時間ほど運転の後、あらかじめ調べておいたKOAキャンプ場に入ったのはもう暗くなってからだった。直ぐ側にサンタフェ鉄道が走っているのは、夜中になってから気が付いた。突然轟音と共に地面が揺れて、一瞬何事が起こったのかと思い、汽車だと気づくには一時の間が必要だった。100両位の貨車がガタゴトガタゴトこれでもか、これでもかと音を響かせて睡眠の邪魔をした。3ドルの入場料はもっともな値段だと思った。

翌日、私達は先ずオールド・ツーソンの映画スタヂオへ行った。説明によるとコロンビア映画社が“アリゾナ”の撮影の為に1860年のツーソンを再現したセットだそうだが、後にも大いに利用され、“大草原の小さな家”とか“ローン・レンジャー”などここで撮影されたようだ。私達が行った時もデモンストレーションにアクションやガンファイトを突然見せてくれて驚いた。

次に砂漠植物園に行き、珍しく、又美しいサボテンの花を見て回った。サボテンだけでなく、熱帯植物の数々が栽培されていた。本来はここで珍しい植物を売っていたようだ。もっとも自然に生えたサボテンなど、一寸道をそれるといくらでも見られた。そんなわき道のサイドテーブルでランチを広げて食べたような気がする。

その後、“OK牧場の決闘”で知られたツームストンへ急いだ。

ツームストンは”The Town Too Tough to Die,”と言われ、多くの人の興味と哀感を呼ぶ町である。本来は銀の鉱山で栄えた所らしいが、血気盛んな無神論者や無法者がはばをきかせて現在に至るまでギャンブルをしていたホールやバードケイジ劇場、OK牧場、ブーツヒル墓場などが訪問者をひきつけている。

町の一角に絞首刑台が当時を偲ばせるかのように展示してあった。墓場はオコチーヨの柵に囲まれて盛り土と石ころの上に墓標があり何年にどのようにして死んだかと記されていた。中でもジョージ・ジョンソンの墓は“Hanged by mistake”とあり涙を誘う。

OK牧場というのは意外と小さなサークルで、こんな所で決闘があったとは、とても考えられなかった。当時の新聞記事を売っていたので買ったような気がするが探し出せないのは残念だ。もしかしたら見ただけで買わなかったのかもしれない。

この日はツーソンへ行く途中、民家の庭先のような所にテントを張って泊まった。

次の日はカールスバッド・ケイヴァンズに向けてまた走り続けなければならない。目的地までは450マイル余り、7_8時間はかかる。

点から点へ広い砂漠の中を走りに走って目指すキャンプ場に着いたのは9時か10時頃だったろうか。砂漠の熱風が吹きすさぶ中でテントを張ろうと奮闘したが、なかなか思うように行かなかった。

「どこかモーテルでも探そうか?」、

「今から探しても無かったら大変だよ。」など言い合って、結局回りの木にテントを縛り付けて,取るものも取りあえず寝袋にもぐり込んだ。しかし夜中中テントは風にあおられて風船のように膨らみ、吹き飛ばされるのではないかと思うばかりで、なかなか寝付けなかった。

カールスバッド・ケイヴァンズ(鍾乳洞群)は知られている限りでは世界最大の規模をほこっている。私達が入り口から歩いた距離は3マイル、最も深い洞穴は地下478メートルというからかなり深くまでもぐった事になる。最後に到達したところでランチ ボックスを売っていたので皆で買って食べた。

記念に箱を一つ持ち帰った。最後はエレベーターで地上に出る仕組みになっていたのはありがたかった。入り口近くに夕暮れ迫る頃に一斉に飛び出すコウモリを眺める石段があった。私達は見ることはできなかったが圧倒的な数だと言うことである。説明書には50万とあるのでまさに半端ではない。鍾乳石も石筍も巨大でそれぞれ造形美を誇っていた。

 

この日はエルパソの郊外にあったラマダインというモーテルに泊まってゆっくり体を休めた。

翌日メキシコに入るのだが、メキシコにはガソリン・ステイションが殆ど無くて、有っても質が悪いと言われていたので、ガソリンを満タンにして、なお予備のタンクにハイオクタン価のガソリンを入れて持って行くことにした。

2)チワワーカサグランデの遺跡

メキシコ入りはこの時初めてで、ロサンゼルスでメキシコのビザは貰ってきたのだが国境を越えるのに意外と時間がかかり、予定がすっかり狂って、目的地チワワに着いたのは夕方遅くなってからだった。道は砂埃が舞い上がる一本道、迷うことも出来ない。砂に覆われてしまったらお手上げだが、そうならないように所々砂防柵があった。長距離バスのグレイファウンドが走っていた。又列車が並んで走ることもあった。機関士が汽笛を鳴らして手を振るので私達も手を振って答えた。途中ランチを食べられそうな所があったのでとまって、手振り身振りで‘フリットコンケソ’を手に入れて食べた。なかなか美味しいものだった。エンチラーダの中身がチーズだけのものだ。 実を言うと、メキシコに入るに当たってスペイン語を何も知らないのには多少の不安があった。唯一の頼りは加奈子が学校友達から教えてもらったスペイン語だったが、やはりまだ一寸無理があった。チワワに着いた夜、賑やかな通りの一角にあったレストランに入って食事をしようとしたのだが、何を頼んだら良いのかさっぱり見当がつかず困ってしまった。 そこへローストチキンを棒に刺し並べて肩に担いだ男の人が入ってきた。早速ボーイを呼んであれを五つくれと言ったら少し英語のわかる人が出てきて、五つでは多すぎるから一つにしなさいと言うのだ。チキンとぼそぼそのご飯の夕食はこうして何とか食べることが出来た。

チワワはスペインによって1709年に統治された町で、スペイン風の美しく立派な建物が並ぶ都会だった。エルパソに隣接するフアレの町外れの貧しさに比べると雲泥の差があった。しかし中心の大きな教会の入り口には貧しい物乞いが数人いて、やりきれない気がした。 博物館には当時の衣装やインディオの土器などがたくさん展示してあった。 チワワ犬は名前のとおりこの地に由来するのだが、記録によるとインディオが飼っていた鳴かない犬、テチチをアメリカ人が持ち帰って改良したのが現在のチワワだそうである。 メキシコの第一夜は無事に過ごせた。翌朝、宿屋の窓の外で盛んに織物を見せびらかしている現地人がいたので一枚記念に買ってきた。現地では肩にかけている姿を見かけるが、我が家ではテーブル掛けにして色あせるまで使った。

次に目指したのはヌエボ・カサグランデ、前日昼食を食べた所から西へまっすぐに伸びた道をたどって行くと到達する。

これが又長く、多少の起伏はあったものの一面黄土色ののっぺらぼうな道で、変化があるとすれば所々に脚を上に向けてころがっていた牛や馬の死骸ぐらいで、大丈夫かなあと思いながら走った。そして夕方やっと小さな町に着いて、唯一のモーテル兼博物館に落ち着いた。つまりこの地の有力者がこれらを兼務していたのだろう。カサグランデから収集したらしい壷などを見せてくれた。

 この晩、私達は大変な目にあうのである。夜中の3_4時頃ふと目を覚ますと部屋中息もつけないほどの煤煙がファンの風にあおられて回っているではないか。

どうしたらよいものか私には見当もつかなかった。持っていたタオルで皆の顔を覆って少しでも煤煙を吸い込まないようにするのがやっとだった。朝起きたら皆の顔や鼻の穴は勿論、そこら中真っ黒なのでびっくりした。

外に出ても同じで全く逃げ場がなかった。

宿の主人によれば、果樹園の凍結を防ぐ為に、夜中の1時から5時まで重油を燃して煤煙で空を覆うのだそうだ。知っていればファンなど回さなかったのにと恨めしく思った。 早々にここを離れて山の上に逃げたら、下界一面真っ黒い煤煙に覆われているのが見えた。

 

カサグランデの遺跡は現地案内人を頼んで見せてもらった。広大な住居跡と神殿跡を見て回った。日干し煉瓦を積み上げて作られた住居はT字形に下が細くなった穴でつながって、外からの進入をし難くしてあるなど工夫されていた。神殿は土を平らに盛り上げたものだが、長い蛇の形をかたどった盛り土があったと記憶する。下記のインターネットサイトによれば、もう一つ鳥(鷹)に捧げる神殿もあったらしいが遠くて行けなかったか、忘れたか記憶にない。ここに住んだパキーム人は北方から来たプエブロインディアンで、宗教は南方のアステカの影響を受けている、その北限らしい。15世紀位に干ばつか、攻撃か、その他何らかの理由でここから去ったと思われている。

http://www.desertusa.com/mag00/aug/stories/paquime.html

案内人が落ちている土器のかけらを拾ってもいいと言うので、私達はめぼしいものを探して記念に持ち帰った。ここは現在世界遺産になっている。

帰り道果樹園の傍らを通ったので気をつけて見てみたら、私達を苦しめた重油の缶があちこちに置いてあるのが認められた。現在はここからフアレまで斜めの道があるようだが当時はそのような道はなく、もと来た道を帰るしかなかった。

フアレの産業物産館でオアハカの黒くて3本脚の壷を買ってきた。残念ながら日本に着いた時は割れて使い物にならなかったが。 その日、日が暮れてから私達は国境を越えてアメリカ側に戻った。やっと埃っぽいメキシコから抜け出たとの思いしきりだった。 ファミリー・レストラン‘サンボ’で夕食をとった時は生き返った感じがした。 「やっぱりアメリカの方がいいね。」 私達は再びKOAキャンプ場で泊まり、翌日は火成岩の風化による奇岩が面白いチリカウア・ナショナル・モニュメントを見学して、10年前の公園をもう一度見たいと思ってフェニックスの市街に入った。

記憶は微妙に異なっていて、白鳥がいた水辺を見つけ出すには至らなかったが、カチナドールを土産に買ってロサンゼルスに帰った。

カチナドールは私達にとっては高い買い物だったが、今でも良い思いでになっている。とにかく9日間の大旅行だった。

 

カチナドールです。

















OK牧場です。




















バハ・カリフォルニア

‘1月は行き、2月は逃げて、3月は去る。’と言うが、この年の4月は疾走するようだった。

3日に帰って間もなく、サンディエゴにスクリプス海洋研究所の観測船が入港して、カプラン教授やジョー・クラインが仕事をしていた為に船内を見学できるというので、皆で出かけた。そのついでにシー・ワールドを見て来た。マリーンランドより大掛かりで、色々な催し物があって十分楽しめた。しかし、ドライヴに次ぐドライヴでいくつ坂を越えてテールランプの波を追いかけながら家に帰ったことか。 次の週末は汽車の博物館とパサディナの北に位置するウィルソン山に天体観測所があると言うので行ってみた。

パサディナの町を通りくねくねと曲がりくねった山道を登ってたどり着いた所は意外に開けた公園のような所で山の上からロサンゼルスの市街が見渡せた。天文台は色々あって、メインは100インチのフーカー天体望遠鏡で、‘ハッブルの法則’が発見されたのはこの望遠鏡によるものである。週末には開放されて内部を見る事が出来た。勿論夜ではないので覗くのは不可能だったけれど。この望遠鏡は200インチのパロマ望遠鏡が出来るまで世界一大きなものだったと言うことだ。そこから少しはなれて長い鉄塔の先に着いている望遠鏡があったが、太陽を見るために作られた望遠鏡だと言うことだった。その他小さいのがいくつかあったような気がする。これらは山のあちこちに散在して短時間で全てを見るのはむつかしい。公園に戻って、一休みして山を下った。 その次の週末はロングビーチに停泊して、展示されていたクイーンメリー号の見学をした。

こんな豪華客船で世界一周出来たら最高だろうなと思いながらデッキを歩いた。 そして29日から再びメキシコを訪ねることになった。 目的はバハ・カリフォルニアのラグーン、ラグナ・デル・グランデにプレカンブリアンから生息しているシアノバクテリアを収集、観察に行く為だった。 UCLAのビル・ショーフはこの手の微生物や生命の起源などを研究している権威者で、この日はそのグループと一緒にカプラン研究室のグループが加わってそこを視察に行った。カプラン教授は子息のデービットを連れて国境まで来たが、パスポートを忘れてメキシコ入り出来なくなった。

「メキシコに行く時は1ドル札をポケットにしのばせて置くといい。なにかトラぶったとき役に立つ。」と言っていたがこの時は役に立たなかったようだ。ビル・ショーフはカプランの車に同乗していたが、ここで私達の車に乗り換えることになった。 国境を越えるとティフアーナ、ガラッと変わった景色が目に飛び込んでくる。小さな子供が土産物など持って車に擦り寄ってくる。 一寸進んだ所で一人の男がやって来て、「もう一度パスポートを見せてくれ。」といった。

再発行のパスポートでアメリカのビサがない主人は前回のメキシコ入りの時、長い時間手間取ったのを思い出したのか、パスポートを見せて1ドル渡した。それを見ていた別の男が又やって来て、今度は「トランクを見せてくれ。」といった。厄介だと思った主人は、男が見終わってからかよく覚えていないがまた1ドル渡した。 「なんで悪いこともしてないのにお金を渡したのよ。あの二人、笑っているよ。」 「そうだったな。カプランの言う事が頭にあったのでつい渡してしまった。」 ティフアーナからエンセナーダまではそれほど遠くなく、また良い道が続いていた。UCLAの他のグループと待ち合わせる為にこの町で待つことになった。待つ間によせばいいのにメキシコでの釣りの免許証を取ることになった。主人の話によるとあちこちのビルを回ってやっと手に入れたそうだ。それが10ドルかかったけれどすごく立派なもので、輸出まで出来るものだった。結局釣りをするような時間はなかったのだけれど、記念にはなった。 ここから先は山道で、途中ソンブレロやカッパなど目を引くメキシカン・グッズを並べている店が目に入ったが無視して道なりに先を急いだ。

暫らくすると細かな土埃が舞う地帯に出た。先の車が土埃を舞い上げていくので道が見えなくなりそうだった。どこまで行ったのか、どの位かかったかよく覚えていないが、到着した所は広い砂浜の一角で、半島の先に向かって右手に太平洋が広がっていた。このバハ・カリフォルニアはかつて罪人を送り込んだ所とかでとにかく貧しさが際立っていた。遠くにバラック建ての家が一軒見え、あとは見渡す限り木もない荒地が広がっていた。海岸に続く砂山に手のひらいっぱいの大きさは有ろうか、大きなハマグリの貝殻がたくさん散らばっていた。対になった一個だけ持ち帰ったが、どうしてこんな形で残ったのか不思議だった。 子供達は早速ゲイラカイトを飛ばして遊び始めた。風が強く凧はどんどん遠くへ上がっていった。そして遂に風の強さが糸の強さより勝って糸が切れて凧ははるか彼方へ飛んでいってしまった。 「探しに行こう。」兄弟二人は駆け出していった。しかし途方もなく遠いことに気づいて帰ってきた。夕方一軒家の子供達が喜んで凧を揚げているのが見えた。夕焼けの空に揚がっていたのは見覚えのあるピッツァハットがくれた凧だった。 その夜は皆でキャンプファイヤーを囲んで食事をした。私はいつものようにローストビーフを持って来ていたので、日本風カレーを作って配った。 私達はテントを張って寝たが、ほかのザークやジョー・クラインなど大部分の人は寝袋を砂に埋めて満天の星を眺めながら眠った。砂を掛けると暖かいのだそうだ。 翌日、ビル・ショーフを始めとして殆どの人がラグナ・デル・グランデへ探検に行った。海水が残っている所は足首ぐらいまでで、干潟に成っている所もあり、広漠としていた。遠くに山並みが見えた。生物らしいものは見当たらないが、こんな所で脈脈と進化もせずに生命を繋いでいるものがいる。海水の下の堆積物をはがしてみるとその生物が現れる。最も初期の藻類と思われているシアノバクテリアである。 健は「干からびた土をひっくり返したら塩の結晶が出てきたのでびっくりした。」と言っていたが、主人に言わせると「あれは塩と硫酸カルシウムだ。このような干潟を形成している所はペルシャ湾の浅瀬とここだけだ。」そうだ。 私達はその日のうちにここを離れた。来た時と同じようにもうもうと土埃を巻き上げながら。          

 

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