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酒井均と定子のページへようこそ


 

 

酒井家の主、均(ダディー)が他界して早くも一年余りが過ぎて行きました。

ダディーは名実ともに私たちの大黒柱で彼なしには事が進まない人材でしたので、彼の死後私はとても困惑いたしました。それでも何とか今日を迎えられたのは、彼が残した有能な子供たちの支えがあったからだと思っています。

 

ダディーという呼び名は、生後4か月の長女を連れてカナダに渡った時からのもので、外国人が「Where is your Daddy ?」などと呼びかけるものですから、それに合わせて「ダディー」になったのです。私の発声が悪いのか人が「ダーリン」と聞き違えて、「まあ、若いわね。」、とか「いい歳をして!」などおっしゃいます。電車の中で私が遠くから「ダディー!」と呼びかけると、周りの人たちがどこにそんなカッコいい奴がいるのかと見渡すので、「おれは身がちじまる思いだったよ。」とこぼしていました。それでも臨終の床ですっかり目を開けなくなったとき、私が呼びかける「ダディー!」にはパチッと目を開けてくれたのには感激でした。

 

彼は生前「来年春の叙勲にノミネートされていますがどうされますか?」と問われて、「くれるものなら何でももらうよ。」と答えていました。しかし春には届かず、930日に逝ってしまい、死後叙勲で正四位瑞宝中授賞を授与されました。

 

彼は亡くなる数年前から新しい本を出版しようと文章を書きためていました。

「やっと二章までできたよ。」と言っていましたが、その先は「今のおれには難しすぎて書けない。」と嘆いて筆を折ってしまいました。十数年前の大病の後遺症で彼の脳細胞はかなりの被害を受けていたのです。

タイトルは“ビッグバンから生命誕生まで”というもので、彼が話してくれたところによると、「生命誕生をもたらす物質(分子)は一番安定している元素鉄にくっついて宇宙に散らばっていくと考えられる。」とか。

彼が書きためた文章は愛用のマックの中にそのまま保存されています。

 

実験屋酒井の最後の実験は料理でした。私が大腿骨骨とう骨折で入院を余儀なくされてから自炊で食べざるを得なくなったのですが、驚いたことに自分好みの実験用具がうんと増えていたのです。秤、メジャー、食品カロリー計算表、卓上電磁調理器、電磁調理器対応の土鍋、スライサーetcです。料理の本もいろいろ増えていました。

私が退院してからも朝昼晩すべて彼が料理してくれました。熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、手順よく、盛りつけは美しくなかなかのシェフでした。そんなこんなで少し無理をさせてしまったかなと後悔しています。この頃の彼の体重は43キロでした。それが4月末に体調をくずして入院し、9月末に亡くなった時は34キロに減っていたのです。

「もういいよ。終わりにしよう。さよなら。」とメモして、消え入るような最後でした。「サヨナラ」だけが人生だ。せめて生きている今を楽しもうではないか。と誰かが言っていました。彼の人生も十分に燃え尽きたものだったのではないかと思います。

 

これに比べると、長女の連れ合いの死は早すぎて惜しまれるものでした。

一昨年秋、スキルス性胃がんが見つかり、あと8カ月と宣告されたのです。抗がん剤も日々新たになってきているからあと5年ぐらいは大丈夫でしょうと楽観視していましたが、やはり駄目でした。昨年822日予定通り天に召されてしまったのです。酒井は彼の死を知って大変悲しみ「まだやりたい事がたくさんあっただろうに」と惜しんでいました。享年48歳でした。

長女の忙しい日々はそのあと1年ほど続きました。葬儀から相続まで、更に遠来客への応接など様々でした。幸か不幸か酒井の状態は明日をも知れぬ非常事態にありましたので、長女は「いざという時に困らないようにお寺と葬儀屋を決めておく方がいいよ。」それから「現金はできるだけたくさん用意しておきなよ。死者の口座からは一切引き出せなくなるからね。」と教えてくれました。

子供たちと相談してお寺は彼が友達の葬儀で見つけて「俺もここにしよう。」と言っていたところに決めて、いよいよ危ないと思われるようになってから葬儀屋にも連絡したのでした。何もかも長女の後を追うように事を進めていけばよかったので助かりました。

「戸籍謄本は多めに取っておくといいよ。」と言うのも役立ちました。

人間何時かはこの世に別れを告げる時が来るわけで、私もひそかに身辺整理をしているこのごろです。

そら耳か 「おーい、さだこ」と 風の中

 

(平成2212日)

 

 


 

 

 

 

 


2006年もはや3月半ば、桜の季節がそこまで来ています。お正月は例年は3人の子供たちの家族が集まったのですが、昨年次男が九州に移ったため今年は2家族だけでやや寂しい新年でした。しかしマージャンに加えて今年は新たに購入した家庭カラオケセットが男どもに好評で結構賑やかでした。長男も裕久君もなかなかのタレントであることを発見しました。

正月3日は長男一家と恒例の富岡八幡宮に初詣でしました。毎年同じように混み、同じような屋台が立ち並んでお正月気分を満喫できます。無宗教なのにお賽銭を上げお守りを買う、これは新年の儀式であり日本の文化なのだといい聞かせながらも日本人とは不思議な人種だと思う。

 

 初詣はちゃんとしたのに今年は今のところついていません。私は1月は胃腸風邪で苦しみ、2月は肺炎で2週間も入院する羽目とないました。

 

定子は3月に風邪をこじらせ呼吸が困難となる発作を起こしたので救急車で近所の病院で運んでもらいました。幸い2―3日で症状は治まりました。

 

1月には私も深夜救急車のご厄介になったので今年は既に2回も救急隊のお世話になりました。タクシー代わりに救急車を利用するという批判があります。私たちの場合もそれに近いかも知れませんが、年寄り2人で暮らしていると大変不安なものです。救急車を呼んだのは何度か逡巡したあげくで、決して手軽に呼んでいる訳ではありません。今後緊急度を判断して救急車の運用を適正化しようという考えがあるようですが、考えてみると判断を任せられる専門知識を持った救急隊員の数は限られているでしょうから大変危険なことです。慎重にやって欲しいと思います。

 

肺炎で退院してから1週間目の3月6日東大病院に行った帰りに湯島天神によりました。梅はまだ5分咲き程度でしたが、やっと春だなと明るい気持ちになりました。

 

なお今年は結婚50周年、3月26日の日曜日、子供たちが金婚記念日を祝ってくれました。これを機に結婚記念のCDを作り子供たちに配りました。その一端を下記サイトに纏めました。

 

 

 

 

 

 

 

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均の迷想

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