隅田川18橋めぐり1 (白髭橋〜蔵前橋)





1.白髭橋

この白髭という名の由来は、墨田区寺島の鎮主である白髭神社に因んでいます。
白髭神社は商人に信仰が厚く、創建は951年と言われています。
以前は、この地に「橋場の渡し」がありましたが、当時政府は、民間の費用で橋を架けることを奨励していたため、大正3年に地元の人々が立ち上げた会社、「白髭橋株式会社」が木橋を架けました。民営であったため、大人1人1銭の渡銭をとって維持費にあてていましたが、採算が取れず、橋自体も老朽化が進んでしまったため、大正14年に東京府に移管され無料になりました。現在の橋は昭和6年に完成したものでアーチ部分がトラス構造になっています。



2.桜橋
昭和60年に完成した、X形をした隅田川唯一の歩行者専用橋です。
花火大会のときは立ち入り禁止区域になってしまいますが、このすぐ下流が第一会場の打ち上げ場所になります。また、下流側は両岸とも桜の名所なのでお花見客でにぎわいます。


3.言問橋
「名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありや無しやと」という在原業平の歌にちなんで、橋名が付けられました。昭和3年に完成したこの橋は、ゲルバー桁が採用されました。昭和20年3月の東京大空襲の際には橋に避難した人が多数犠牲となりました。戦火に追われた人々が、両岸から、向こう岸へ行けば助かると信じてこの橋に殺到し、言問橋の上には、千人近い人々が折り重なり、橋上を埋め尽くし犠牲になったと言われています。 現在の言問橋は、93年の改修後の姿で両岸には隅田公園があります。その隅田公園のなかには、慰霊碑がひっそりと立ち、戦災の悲劇を現在に伝えています。


4.東武鉄道橋


5.吾妻橋
浅草のもう一つの玄関がこの吾妻橋、水上バス発着場所としても有名です。 橋が架けられる以前は、ここにも「竹町の渡し」があり、安永3年(1774)に 有料の「大川橋」として架けられました。当時、隅田川は一般的に大川と呼ばれていたため、この名が付けられました。その後、明治9年(1876)に正式に 吾妻橋として木橋が架けられたものの洪水で流失。 明治20年鉄製トラス橋に 架けかえられました。しかし大震災時に床部が木製のため焼け落ち、震災復興計画によって昭和6年に現在の橋ができました。
近隣のアサヒビール本社22階のレストランや墨田区役所の14階の展望室から隅田川が蛇行してゆく姿を見ることができます。

        


6.駒形橋
昔はここにも 「駒形の渡し」がありました。現在の、優美なアーチ橋になったのは 関東大震災後の復興事業として昭和2年(1927)に建設されたものです。橋名の由来は、橋の西詰めにあった駒形堂に由来して名付けられました。
このあたりには七不思議といわれる伝説があります。「置いてけ堀」(魚を釣った釣人に堀の中から「置いてけ、置いてけ」という声が聞こえ、釣った魚がなくなってしまう)、「送り提灯」(夜道にふと現れ、近寄ると消えてゆく)等があります。怪談ですな・・・。

  


7.厩橋
この地域は、江戸時代は蔵前にある幕府の米蔵に付属する厩が並び、対岸へ渡す手段として「御厩の渡し」がありました。その後、ここにも有料の木橋が架けられ、 現在の姿になったのは昭和4年(1929)です。
その後明治20年に東京府に移管されました。その後、トラス橋に架け替えられましたが、関東大震災で橋床部分が焼失したため、昭和4年に現在の橋になりました。
また、明暦の大火での犠牲者である無縁仏を回向院に運んだことから「三途の渡し」とも呼ばれていたそうです。
3つのアーチを持った美しい橋で、柱のステンドグラスには馬が浮び上がります

  


8.蔵前橋
幕府の貢米を収納していた米蔵94棟、他に御蔵奉行などの付属物があった広大な土地の大路を蔵前通りと呼び、それに因んでこの名前になりました。米蔵の他にも、近代になると 政府関係の倉庫など、文字通り蔵の街となり栄えた地域がここ、現在の橋は震災後の復興計画で、昭和2年に新たに架けられた橋です。
近くには、東京都慰霊堂があります。ここは関東大震災当時、陸軍被服本廠跡で、多くの火に追われた人々が殺到し、約4万人が焼死したという悲惨な事件がありました。園内にある復興記念館には震災の資料や第2次大戦の資料が展示されています。




9.JR鉄道橋






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