うらばなし

2005年08月28日(日)「お友達つれて」
 最終観光地エストニアに到着。ツアーで案内された、フィンランドとエストニアを結ぶタリン港。私は早々にターミナル内を歩いてみました。 それから、停泊しているフィンランドからの船に、何ともいえない感情がこみあげてきました。8年前、フィンランド側から、こちらへ来たい思いで一杯なのに時間のやり繰りが出来なくて断念したことを。

 そんなタリンの街はこぢんまりしていて歩きやすく、仲間と3人でたっぷりと自由時間を楽しみました。 いつか機会があったら、再度訪れてもいいなあと思える街でした。

2005年08月27日(土)「国旗のステッカー」
 海外に行って必ず買おうと思う物の中に「切手と絵はがき」、「誕生カード」、「国旗のステッカー」などがあります。 その「国旗のステッカー」は、旅の証しに毎回購入して玄関のドアーに張ります。毎日通りかかるドアーですから、格別の思いでドアーを眺めることができるのです。

 旅のグッズもいろいろの変遷を経て、この「場所」をとらない、軽い、安い、それでいて自己主張してくれるものは、他にはないのではと思うに至りました。 しかし、今回もそうですが現地で「国旗のステッカー」を探すのは意外と困難なのです。 売る場所がタバコ店あり、切手売り場あり、キオスクあり、土産物店ありとその国、その国で様々なのです。

 そんなことで、買いそびれることが多く、今回も3ヶ国に行きながら一枚も購入できませんでした。残念!

2005年08月26日(金)「100万本のバラ」
 この歌はラトヴィアの元文化相が「自由と独立」の願いを込めて作曲したのだと、本人がその番組(世界ふれあい街歩き)の中で語っていました。 いろいろな国々に支配されてきたラトヴィアでは、5年に一度、「自由と独立のシンボル」としての、合唱際が130年も受け継がれて行われているようです。

 「100万本のバラ」のことを加藤登紀子さん自身が、7月28日のBshi「音楽夢クラブ・中村雅俊」の番組の中で、それにまつわる話を語っていました。 ロシアでも「恋の歌」としてヒットしたようですが、実は違う願いがこもった歌だったようです。

2005年07月30日(土)「アール・ヌーヴォー建築群」
 先日、たまたまNHK・ハイビジョン放送を見ていると、ラトビアの首都リガの市街地を歩いて紹介する場面に出くわしました。 今ひとつ印象の薄かったリガ、私は復習するような気分でメモをとりながら視聴しました。

 スエーデンに占領されていた時代の名残「スエーデン門」、それを利用して建てられた住宅やスエーデン兵の兵舎、 「三人兄弟」のように肩を寄せあって建つ中世の住宅などがしっかりと記憶に戻ってきました。

 そんな中、建築家エイゼンシュテインが、設計して建てられた多くの建築物も紹介されたのを見て、 もやもやとしていた「アール・ヌーヴォー」の建築物が鮮明に記憶の中で蘇りました。素人の私が見ても奇妙な装飾の建築物でした。

 ちなみに、アール・ヌーヴォーとは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて起こった建築の新様式運動です。NHK『世界ふれあい街歩き』から。

2005年07月26日(火)「おみやげどころかお水も買えない」
 3ヶ国を駆け抜けるように旅したので、何に不自由をしたかといえば、お金(現地通貨)でした。 間もなく通貨はユーロに切り替わるということですが、それぞれの国単位で発行されている通貨は他国では通用しないので困ります。当たり前のことですけれど。

 短期間の滞在では、その国で使い切るように両替を心がけているので、皆さん「困った、お金がない」とこぼしている人をかなり見受けました。 私もその一人で、財布をのぞいては硬貨を確認する始末。特にトイレとくれば少額の硬貨が必要となります。 もう使わないと思って教会や寄付金箱に入れてしまい、国境越えでトイレを使用するときにも何度か借用する羽目となりました。

 ユーロが使えると聞いていたのですが、おつりは現地通貨で返ってきたり、お店によっては断られたりと対応はまちまちでした。非常に不自由した国々でした。

2005年07月20日(水)「建築様式」
 ヨーロッパを観光すると、必ずといっていいほど出現するのは建築様式です。ゴシック、ルネッサンス、バロック、アールヌーボー、ロマネスク等々。 私にはあまり区別がつきません。従って、どこの国の古い街を見ても同じように見えるのですから困りものです。

 今回もバルト3ヵ国では、目新しいものを見た感じを受けませんでした。私に区別ができるとすれば、ゴシック建築とバロック建築ぐらいでしょうか。 私の知人で1級建築士のSさんにいわせると「まあもったいない」といわれそうです。

 建築様式が分からないといっても、全然駄目なわけはないと思います。ある意味ではその街全体を雰囲気で捕らえ感じ取ることはできますから。 でも知っていれば楽しさは倍加するでしょうに。

2005年07月11日(月)「聖ペテロ・パウロ教会」
 私たちは専用バスにて現地ガイドと共に観光しました。その中で最も印象が残ったのは「聖ペテロ・パウロ教会」でした。 『1667年から7年かけて造られたが、内装にはその後30年あまりの時間がかけられている。』といわれるバロック建築物の一つなのだそうです。 確かに今まで多くの教会を見てきましたが、こんなに清潔感あふれる、美しい白一色の教会に初めて対面しました。

 漆喰の彫刻が嫌が上にも教会内を引き立て、静寂にさせているように思えました。とても新鮮な感動を覚えました。 聖ペテロ・パウロ二世が生前訪れ、その肖像画も掲げられていました。

2005年07月09日(土)「戦略は辛うじて成功」
 旧市街地は、ほんのちょこっと。それでも塔から下りて、気の向くままにひとりで歩きました。 途中グループの人たちに出合いましたが、関心のあるところが違うのでまたバイバイ。

 そうこうするうちに、バスが来る時間近くになったので急いでそこへ向かいました。 「確かにここらあたりだったけどなぁ」と案じながらメインストリートを歩いていると、向かい側から我らの仲間ふたり組と遭遇しました。

 3人でその場所を(添乗員に教えてもらった停留所)探して通りを行ったり来たり、その場所は見つからず、とうとう4時がきてしまいました。 結局3人でタクシーを拾いホテルに無事帰還しました。 

 着後、分かったことのなのですが、お互いに単独では持ち金が足りなくて、タクシー代が払えなかったのです。これで私が立てた相乗り戦略は辛うじて成功したのでした。

2005年07月05日(火)「歌声の「五輪」響け(朝日新聞)」
 昨日、このニュースを新聞で読み、『「世界合唱の祭典 京都」(第7回世界合唱シンポジウム)』の存在を知りました。 『1987年、オーストリアのウイーンで第1回が開かれた。』そうです。

 [1988年9月11日エストニア各地から30万人以上(民族人口の3分の1)の人々がここに集い、独立への思いを歌にした。 “歌いながらの革命”といわれバルト三国の独立運動が大きな一歩を進めた瞬間だった。]

 私たちもこの「歌の広場」を見学してきました。いつだったNHKテレビでこのことを視聴したことがあり、私はその場に立ち感慨深いものを感じました。 こうしてみると、両者は殆ど同時期に始まり、そして前者は3年に一度だが、後者は5年に一度、ラトヴィアとリトアニアの人々と共に盛大に行われていると聞きました。 『』とタイトルも朝日新聞、[]内は地球の歩き方から引用。

2005年07月03日(日)「ケディミナス塔に国旗が飜る」
 6人グループ+私は、早速大聖堂の裏側から「ケディミナス塔」を目指して三々五々歩き始めました。午前中心配していた雪も止んで、少々寒さは残るものの楽になりました。

 ネリス川が注ぐヴィリニャ川のデルタに、ケディミナス城と塔があります。 丘の上にある塔までゆっくりおしゃべりしながら登って行くと、かなりの観光客が上り下りしていました。

 この塔には、リトアニア国旗が飜っています。『ソ連からの独立運動において、武力にも屈しない激しさ』をもつ国民の象徴なのです。 そこからは市街地が一望に見渡せる素晴らしいところでした。グループの仲間に感動的な風景を背後に写真を撮ってもらったり、塔内のミュージアムも一緒に見学もしました。

2005年07月01日(金)「ヴィリニュスでの自由行動」
 午前中、世界遺産「聖ペトロ・パウロ教会」、「聖アンナ教会」など市街地巡りのあと、クラシック様式の6本の柱を持つ、 大聖堂前のカテドゥロス広場で私たち全員はバスから降ろされました。

 自由行動になってから、こんなに寒いのに4時まで待ている場所がない。どうしよう? ひとりではタクシー代もかかりそうだし、そうだ!誰かについていけば割り勘で安くあげられる。私はバスの中でそう考えました。

 まず、4人グループにアタックしました。ところがそのグループは私が目指すケディミナス塔へは行かないといわれ即、戦列を離れました。 あたりを見回して6人グループ(?)を見つけ再度アタック。どうやら私の行きたい方へ向かうようなので合流させてもらいました。

2005年06月30日(木)「ヴィリニュスは真冬でした」
 ヴィリニュスの空港を降り立つと、そこはもう真冬でした。ホテルは少し郊外にあり、バスで30分位のところでした。 出歩くにはちょっと不便なところではあったけれど、静かな場所で落ち着くことはできました。

 翌、4月23日(土)午前中は、専用バスで市内観光をして午後自由行動という日程となりました。 なんと、当日その寒さは半端ではありませんでした。雪がひっきりなしに私たちへ降り注ぎ、あっという間に雪だるま状態となりました。 多分気温は2度か3度位と思われます。

 これほどまでに気温が下がるとは思わないので、十分な用意もしていない私たちは、ぶるぶる震えてしまいました。 はてさて、午後の自由行動はどうやって過ごそうかと思案に暮れる私でした。さあ、私は一体どんな行動をとったでしょうか?お楽しみに!

2005年06月04日(土)「もう一つの日本大使館」
 第二次世界大戦初期、リトアニアの首都カウナスにあった日本大使館で起きた事です。 日本人なら大方の人が知っている杉原千畝氏。本国の指示に背いてまで、ナチスの迫害を逃れ、日本通過のビザを求めたユダヤ人に発行したしたという旧大使館を訪れました。

 今は平和で静かな街に、小さな建物がひっそりと立っていました。向かい側の庭に大きな樹木があり、当時をしのばせているように思えました。 杉原千畝氏のビデオを見て、人類愛に満ちた立派な行動に胸が熱くなり、涙を禁じ得ませんでした。 そして記憶違いでなければ門柱に「命のビザ」と記されていたのにも感動しました。

2005年05月28日(土)「日本大使館」
 「あの方ね、日本大使館へ行かれたみたいですよ。すると、親切に日本語で詳しい街の説明を受られたようです」と、 私よりお姉さんで一人参加の女性(Aさん)が耳打ちするような声で私に伝えてくれました。

「迷われたのかしら?」(私)
「そこは、はっきりしないのですけれどね」と。続けて、
「わたくしはね、ちゃんと調べていたものですから楽しめましたのよ」とAさん。

 確かに一人参加のOさんは80歳の高齢男性で、OP参加者と別れて自由行動に移る際、街中に置き去りにされるような形でバスから下ろされていました。 いきなり街中でバスから降ろされると不安になると思います。理由はそこに至るまでの地図が抜けているからなのです。ちょっと気の毒でした。(OP=オプショナル・ツアー)

2005年05月26日(木)「イス取り合戦」
 メンバー総勢32人、6人組が2組、3人組、ペア組の人も何組かおりました。それで食事のたびに大騒動となります。 私などは一人参加なので、ぼんやりしていると座ろうとしたイスからはじき飛ばされるのです。 「まあいいか」とあたりの席を探すと、いつの間にやら、一人参加者がうろうろとしている姿に出合いました。

 やはり、そこは人間、度重なると腹立たしくもなります。時にはいい席を確保して、ひとり参加者を呼んであげることもありました。 こんな調子で、多人数で参加をしている人たちは、「いつも一緒でいたい」願望から、バスの集合時間にも、早く早くと集まり、添乗員さんに注意を受けていました。

 私から言わせると、旅で出合った人とは「一期一会」、そんな人との交流を深めるいい機会で、たまにはいろんな人と接するのもいいと思うのですけれど。駄目でしょうか?

2005年05月20日(金)「ニュース」
 やはり旅行した国の動静のニュースは、よく目に留まります。私がバルト3ヶ国を去ってから日も浅い5月7日、 リガ(ラトビア)を訪問したブッシュ米大統領がバルト3国首脳との4者会談に臨んだこと。 さらに5月11日付朝日新聞の「天声人語」にもその会談に触れた内容の記事が載り、5月20日の朝日新聞には、ロシアとエストニアとの国境に関する記事がありました。

 関心のある事柄は、なぜか続いて起こるように感じますが、気のせいでしょうか?

2005年05月20日(金)「ヘルシンキ・オリンピック・スタジアム」
(HELSINKI OLYMPIC STADIUM)
 今年、世界陸上競技大会が、ここヘルシンキで8月6日〜14日まで開催される予定です。私たちが観光したときには、大会へ向けて拡張工事がなされていました。 そして、タワーが昔と変わらぬままそこにありました。日本が戦後初めてオリンピック(1952年)に出場できた記念すべき地、ヘルシンキ、感慨深く眺めた8年前を思い起こしました。

 そして間もなく、この地で再び世界から多くのアスリートが集い、熱戦が繰り広げられ賑わうことでしょう。

2005年05月19日(木)「テンペリアウキオ教会」
 世にも珍しい教会なのです。傍目にはとても教会だとは気づきません。当日ドイツからえらい人(多分大統領ご夫妻)が来ているというので、少し混雑していました。 岩盤をくりぬいて作ったという寺院で、岩の上にちょこんと乗っかっている十字架がそれを象徴しているくらいでした。何とも不思議な様相を示して、ここには以前に来ていなかったので得をした気分になりました。

 上記の理由で内部が見学できなかったのは残念でした。その他シベリウス公園、オリンピック競技場、大聖堂、元老院広場、ウスペンスキー聖堂などをバス移動で観光しました。

2005年05月18日(水)「フィンランドからバースディ・カード」
「フィンランドからバースディ・カード」  4月24日が次男の誕生日、海外から送られたカードを受け取ったらうれしいだろうなと考えて、フィンランドはテンペリアウキオ教会のポストから投函しました。 (証拠写真も撮りました)

 リトアニアへの飛行時間待ちの5時間を利用して、バスにてヘルシンキ観光をする予定だと聞いていたので、多分現地でカードと切手を買う時間もないのではと思い、 カードは日本で用意し、昨年フィンランドで購入したムーミンの切手シールを貼りました。

 現地時間4月22日午後にポストに落としたのが4月26日には受け取ったとお礼のメールが入っていました。 私は国内外を問わず、旅行先で家族の誕生日を迎えるときには、このように現地からカードを送るようにしてきました。

 また、ヨーロッパなどでは素敵なバースディカードを見かけるので、あらかじめその年分を購入してきます。 これも楽しい土産物のひとつとなります。

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