ロシア物語【シベリア鉄道編】

2004年07月08日(木)〜11日(日)「ユーラシア横断の実感」
 ウラジオストクからモスクワまでの距離を移動したという実感は、正直なところあまり感じられませんでした。 退屈しなかったというのがその主な要因だったかも知れません。

 旅が終わり、地図を広げてみて驚きました。こんなに広いユーラシア大陸を横断したんだと。 極東のウラジオストクから、2度も訪れたフィンランドに、もうすぐ手が届くところまで来ていたのです。

 そこで地図に乗車区間を描いてみました。そして、主な駅名も記しました。 ウラジオストク→ハバロフスク→ビロビジャン→チタ→ウラン・ウデ→イルクーツク→タイシェット→クラスノヤルスク→ ノボシビルク→オムスク→チュメニ→エカテリンブルク→ペルミ→モスクワ。

2004年07月08日(木)〜11日(日)「シベリア鉄道考察(バム鉄道)」
 それなら、シベリア抑留者が鉄道建設に従事させられた話は嘘だったのかと。 ならば、他の建設事業に従事したのであろうと、私の中で折り合いをつけようと思いましたが、やっぱり疑問はふくらむばかりでした。

 その疑問が解けたのです。シベリア鉄道の中間地点タイシエットからタタール海峡(間宮海峡)のソビエトスカヤガバニまでの区間、 4,300キロの建設に関わったということが分かりました。

 『終戦後、シベリアに抑留された日本人らが建設に従事させられた「バム鉄道」。』の記事を読んで分かりました。 バム鉄道とは、バイカル・アムール鉄道の略。

 やはり真実でした。犠牲となった方々のご冥福を祈ります。 『』内は2004年6月16日付け毎日新聞記事掲載 『この人と:「バム鉄道」を取材・岡崎渓子さん(58)/静岡◇歴史の真実、自分の目で』から引用。

2004年07月08日(木)〜11日(日)「シベリア鉄道考察(ある研究テーマから)」
 そのシベリア鉄道建設についての経緯を知ることができたのは、『極東地域におけるシベリア鉄道建設をめぐって』 と題した広瀬健夫氏(信州大学 人文学部・教授)の研究テーマからでした。

 それによると『1880年代、スエズ運河開通など運輸手段が進歩して、列強がより強く介入しうるようになって緊張がたかまっていた。 そのような情勢のなかで、ロシアも極東ロシアとヨーロッパを鉄道で結ぶことによりこれに対抗しようとした。 』

 このことは、当時の『日本は、ロシアの勢力が満州』におよんでくることを恐れて、シベリア鉄道完成前に『戦争にふみこんだ。』 そして『シベリア鉄道は、日本の近代、日清、日露戦争のあり方と深いつながりあると言えよう』

 このことも私を驚かせました。知らないとは言え、歴史はこんな複雑な因果関係があるものだということを。勉強になりました。 『』内は財団法人 東日本鉄道文化財団よりの資料。

2004年07月08日(木)〜11日(日)「シベリア鉄道考察(素朴な疑問)」
 私たちはイルクーツクから列車に乗ってから後悔の念にかられました。 「終戦後、シベリアに抑留された先輩たちの犠牲の上で、楽しい旅行をさせてもらっているよね」と誰かがいいました。

 私にもシベリア抑留から5年後に帰国した叔父がいたこと、このシベリアの凍土の上で辛い強制労働を余儀なくされ、そして力尽き葬られていった私たち先輩。 せめて、お墓参りをすればよかったのにと、居合わせた仲間で話し合いました。

 その時私は、抑留者がこのシベリア鉄道の建設にかり出されたのだと思って疑いませんでした。 ところが、「ライフ人間世界史」を読んでいるうちに疑問がわき、インターネットでシベリア鉄道の建設について調べてみました。 驚いたことに、シベリア鉄道は1904年に開通したことを知りました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「チンギス・ハーンがロシアで生まれた?2」
 お盆に訪れた孫娘が歴史の本が大好きだという。1973年に購入した「ライフ人間世界史」のあることを思い出しました。 本棚の奥にしまい込んで所在が分からなくなっていたので、出てきたら貸してあげると約束をして帰らせました。

 長女も長男もこの本が気に入って読んだそうですが、私は当時興味がなく読んでいませんでした。 全21巻揃って出てきました。埃を払っているうちに「RISE OF RUSSIA(ロシア)」という1冊が目に留まりました。 目次を見ると“モンゴルの脅威”という文字が目に入りました。 「これこれ、これでチンギス・ハーンのことが分かるかも」と心わくわくさせて読み始めています。

 確かに『モンゴル人は1237年から1240年にかけてロシア一円を席巻した』とありましたが、 チンギス・ハーンは1167年?生まれで1227年に没しているので、その時期とは違うようです。 とにかく遊牧民であった彼の祖先は、生誕地?一帯を股にかけて移動していたと考えました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「チンギス・ハーンがロシアで生まれた?」
 『ここがチンギスハーンの生まれた所ですよ』と、ガイドのヴァーシャが列車の窓から、なだらかな起伏のある緑の大地を指さして教えてくれました。 “えっ?なんで、モンゴル人のチンギスハーンがこんなところで生まれたの?”と思いました。 “そうだ、ここは昔モンゴルの領地であったに違いない”と疑問を持ちながらも自分を無理に納得させました。

 アムール川(シベリア鉄道に沿った川)の向こうは中国です。 物価が安いし、よく買い物に行くんだとヴァーシャがいっているのが、私には今ひとつピンときませんでした。 今回はとにかく、シベリア鉄道に乗って長距離をどれくらい我慢して移動できるのかが私の旅の目的でしたから、 不勉強だった私には理解できなかったようです。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「時差って面倒」
 日本ではこの時差がありません。やはりロシアの広大な大地では時差があり、しかも複雑です。 ソウルからウラジオストクに飛んで、マイナス2時間、ウラジオストクからイルクーツクまで来ると、日本時間と同じ時刻となります。

 イルクーツクからモスクワまでは6時間の時差、しかし、サマータイムを実施している期間は5時間の時差です。 シベリア鉄道の時刻表は、モスクワタイムになっているのですから面倒なのです。
「その都度、時間を直すと混乱するし、面倒だからイルクーツクに到着した時と、モスクワに到着した時に時計を直しましょう」というヴァーシャに従いました。

 これで、すっきり大きな不都合もありませんでした。要するに鉄道で移動する間は、そんなに時間を気にする事もないのですから、、、。 そんなことで、眠たくなればうとうとと、お腹が空けば各自がてんでに食べる。景色を眺める、おしゃべりをする。それでいて、退屈しない列車の旅でした。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「水物語り」
 シベリア鉄道列車に乗っている間に、もうひとりの講師を招きました。Fさんです。現役時代、中東を中心に活動された人のようです。 海水から真水を作ることが出来るのは本当の事でした。

 水について、今、日本では、ああだのこうだのと、マスコミやその筋の人たちで、うるさく論じられています。ご本人は、水道水を飲んでいらっやるようです。 私も同様、水道水をありがたく飲んでいます。時勢に流されないように頑張らなくては、、、。

「水のことなら何でもお聞き下さい」といわれながら、問題がありすぎて質問も定まりませんでした。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「美しいサンセット」
 サンセットを眺めた。Fさん、Sさん、Tさんと私。人生をそろそろおしまいにする我々、なんとも寂しい風景ではある。 傾斜した太陽は何十分列車が走っても、起伏のある大地を照らし続けていた。
「シラカバの樹木林をみると、白骨と重なり死を迎えることとダブって寂しい。」とFさんはつぶやく。

 ウラジオストク時間の11時を過ぎても夜は来ない。こうして何時間も列車の窓から、刻一刻と変わるサンセットの美しいグラデーションを眺めた。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「見渡す限り草原は花盛り」
 シベリアの大地、まさにその通り行けども行けども、どこまで行っても広い広い大地でした。極寒のシベリアでは6月になってさえも雪があるようです。 7月になると、そんなシベリアの大地に、春と夏が一度に押し寄せて来るようです。

 遠くに見渡す低い山並み、緑がまぶしく、そして草原は色とりどりの草花に埋め尽くされています。 ピンク、黄色の濃淡、紫の濃淡、オレンジ、白などの草花は咲き乱れ、短い夏の日を精一杯生きている姿が見受けられました。

 シベリア鉄道に乗って、この草原に出合えるとは予想もしていなかっただけに、大きな感動をもらいました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「列車の車酔い」
 7月3日夜乗車して明くる日、あまり眠れませんでした。みんなも同様のようでした。 この頃はすっかり車酔いとは、ご無沙汰していた私ですが、列車が猛スピードで走るときにはすごい揺れを感じていました。 当然コンパートメントに引きこもっていた私、室内の換気が悪くなったのか、突然吐き気がしてきました。

 ああどうしよう、あと2泊列車でしなければならないと考えると気が重くなりました。 ルームメイトのOさんにこのことを告げると、「すぐに廊下に出て風を浴びなさいよ」といってくれ、いろいろ励まし協力してくれました。

 ものの30分位風にあっていると、すっかり気分が治り快適な元の調子になり、ホットしました。 再びイルクーツクから乗車したときにも、オリガミに集中していて、再び車酔いをしてしまいました。 その時にも彼女が手厚く介護してくれて直ぐに回復、その後は楽しい列車の旅を続けることができました。

 隣室の男性の皆さんにも大変ご心配をかけたりしました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「走り続ける列車の点検」
 列車は一旦駅を出ると、一日中休むことなく走り続けます。夜中であろうと、昼間であろうと。 私たちが乗った列車が駅に到着すると、オレンジ色の作業服を着た線路工員が、下方にしゃがみ込んで、 丁寧に車体(?)を叩きながら音を聞いては故障箇所を探している様子です。

 今は夏、これが寒い冬、零下何十度の中でも行われるのでしょう。ご苦労様といいたい気持ちになります。 「これだけきちんと整備されている列車は安全ですよ」と「シベリア鉄道」に太鼓判を押されたTさんでした。 私たちも「確かに」と、信頼を寄せて安心の旅を送ることができました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「車内で出張講演」
 私が考えても見なかった事柄です。長い列車での旅こと、男性群はツアー仲間の4名で1コンパートメントを使用していました。 時々廊下に出ては話もしますが、彼らはお酒が縁でとても気が合い、殆どコンパートメントでおしゃべりをしながら過ごしていました。

 私たちも同様、女同士で、時にはヴァーシャを仲間に入れて、おしゃべりに没頭していました。 そんな中、Tさんという鉄道に詳しい人がいたので、出張講演をしてもうことになりました。

 そこでいろいろお話を聞いたのですが、素人の私たちにはピント来ませんでした。ヴァーシャは質問したりしていましたが。 ただ分かったのは、あの長い列車の車両毎にブレーキがあり、脱線しないようにコントロールしているらしいのです。 なるほど、考えてみるとブレーキ一つとっても、列車を動かしている事は、大変優れた仕組みなのだということは分かりました。

 Tさんはアメリカ鉄道とシベリア鉄道のブレーキを解析して博士号を獲得した人なので、まさに専門家です。 列車が止まる度に、いそいそと下をのぞき込んでいるTさんの姿は楽しそうでした。

2004年07月05日(月)「国際親善」
「国際親善」(オリガミ)
 私たちは列車を降りて買い物に行くのを楽しみにしていました。 さて、そんな折り、いつの間にか、後続の列車がつながれていたので、「私たちの車両はどこ?」ときょろきょろ探していると、 笑顔の女の子が「こっちだよ」と手招きをしてくれました。

 その子の名前はターニャ、人なつっこくて直ぐに友達になりました。いつも笑顔のターニャは列車の中でも明るく私たちに接してくれました。 ツアー仲間のSさんから色紙をもらった彼女たちに、折り紙を教えることになりました。

「オリガミ」と彼女らは発音して楽しみにしています。 しばらく折り紙から遠ざかっていたので、折り方を忘れていました。懸命にもつれた糸をほぐしながらやっと思い出しました。

 だましぶね、折り鶴、つのかご、ふうせん、かぶとなどを教えました。通訳はヴァーシャです。彼がずっと、つきっきりで彼女らに通訳してくれました。 こちらの意志もよく通じて、こんな楽しい国際交流は今までに経験したことはなかったです。
「国際親善」(ロシアの女の子たち)
 オリガミに興味を示して習いに来た女の子は、例のターニャ(12歳)、ダーナ(9歳)、 リーカ(9歳)、ナスチャ(14歳)、ナターシャ(15歳)の5人で、どの子も一生懸命に習ってくれました。

 私は、ひとつずつの動作で、きちんと紙を折ることを教えました。出来上がった作品に満足して、とても喜んでくれました。 ルームメイトのOさんとも、しっかり交流しました。

 最後に彼女らに署名を頼みました。いづれも心揺さぶられることばを記してくれて、涙が出るくらい感動しました。
「国際親善」(私はサニー)
 彼女たちは私をサニーと呼んでいました。 笑顔が少ないロシア人たちです。ちょっと、とっつきにくい感じがするのは何故でしょうか? 今までの社会体制によるものか、どうかは分かりませんが、私たちにはそう感じられました。

 そんな中、未来を背負うロシアの子どものたちと親しく接する機会があったことは、大変有意義なことだったと思います。 今回のツアー仲間のSさんも、「あなたの行為は、国際親善でしたね。彼らが大きくなって、世界平和が実現できるでしょう。と語っていました。 私もそう思います。私のオリガミを通して、彼女らが日本人を理解してくれたなら、きっと、争いのない平和な世界が築けるはずです。
「国際親善」(感動的なことば)
 女の子たちから贈られたことば。(ヴァーシャ翻訳)

ターニャからサニーへ(私の愛称)
「あなたの幸せ、健康、愛を祈っています。あなたに出会えてよかった。いろいろありがとう。」

ナターシャ
「星のように輝いてください。いつまでも消えないように!」

ナスチャ
「あなたは優しい人、人は違っていますが心は同じです。私はこの日を忘れないでしょう。」

ダーナ、リーカは幼いので署名だけでした。

 その他Oさんには、次のようなことばを寄せてくれました。
「あなたをみて日本をみたくなりました。」(ナスチャ)
「言葉の障害はるけれど、あなたの温かい心で、あなたと素晴らしい時が過ごせました。」(ナターシャ)
「国際親善」(ロシアの子どもたち)
 私が接した子どもだけで限られていますが、少なくとも、日本の今の子どもたちよりも落ちついているようにみえました。 家庭教育がきちんと、なされているように感じられます。

 オリガミを教えている間のこと、私も疲れて何度か「あとでね」と、ヴァーシャに伝えてもらいました。 この約束は守られ、決して私たちのコンパートメントに入り込まないでくれました。

 イルクーツクから乗車した列車でも、女の子ふたりと男の子ふたりに出合いました。 女の子はすぐ仲良しになりましたが、男の子は、はにかんでいました。でも、時間がたつにつれて、出合うと手を振って応えてくれるようにまでなりました。

 もうひとりの少年は(14歳位)、私を全く無視をしているようにみえていたのに、何度かホームに降りるときには、私に先を譲り狭い通路を通してくれました。 やはりレディー・ファーストのマナーが身に付いているように思いました。

 このように子どもたちは、田舎から町へ、町から田舎へと、夏休みを利用して長期間大移動をするようです。 観光地で見かけた小学生たちも、非常に静かに落ち着いた態度で見学しているのを見かけました。日本の家庭でも、ちょっと見習いたいものですね。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「サモワールは便利」
 「サモワール」なんとなくロシア語の響きがあるように思います。車内のサモワールはいつも熱々のお湯を提供してくれています。 カップにティバックを入れて紅茶を飲んだり、カップラーメンを食べるときにも重宝します。 ちなみに、車掌さんに2.5ルーブル出せば、ガラスコップに金具の取っ手がついた熱々の紅茶を用意してくれます。 これは下車するまで利用できて便利でした。

 『シベリア鉄道は電化されているとはいえ、それは先頭を走る機関車だけで、客車には電気が通じていない。・・中略・・。 客車の明かりや暖房の機能をまかなうのは、電気ではなく、サモワールで燃やされる石炭なのである。・・中略・・。 列車が極寒のシベリアで取り残されたらどうなるであろう。 もし暖房を電気に頼っていたら、乗客はたちまち寒さに震え、生命の危険にさらされるであろう。・・中略・・。 一見したところ時代遅れの技術に感じられるが、シベリア鉄道のサモワールは、客車にとっての心臓のように重要な役割を担っているといえるだろう。』 『』内はJICインフォーメーション第107号から引用。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「車内での食事事情」
 列車内の食事は各自が調達することになっていました。旅行会社からは1日約10〜20ドル必要だと知らされていました。 その中でサモワールがあるのでカップラーメンが便利だということで、カップラーメン(小)10コ、残り物の紅茶10袋、ポカリスエットなどを持参しました。

 ところが、ホームに売りに来るおばちゃんたちの食料が新鮮なので、そちらを手にいれて重宝しました。 カップラーメンは初めの1コだけは美味しかったのですが、2コ目から飽きて食が進まないので人にあげました。

 せっかく、食料袋まで調達して余分な荷物をさげてきたのに、邪魔で疎ましい存在となりました。 私はいつも旅に出る時、日本食は持参しない主義です。現地調達が私のモットーで、今回もその方が、よほど利に叶っているように思えました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「列車内はこんなところ(車掌さんは女性が多い)」
 なんといっても、ウラジオストクからモスクワまでの距離が9288キロメートル。通算7日間をかけて走ります。 私たちはウラジオストクからイルクーツクまでを3泊4日、イルクーツクからモスクワまでを3泊4日かけて走りました。

 そんな中で珍しいのは、1車両に2名の車掌さんが詰めています。乗車券のチェックとシーツを配布する。 もちろん、交代でお客さんの面倒を見たり、到着駅ではデッキから降りるための足場を整える、手すりを拭く、昇降のお客さんを確認する。 走行中の車内ではコンパーメント内の掃除、廊下に敷かれたじゅうたんのゆるみを直す、廊下の手すりを拭く、トイレ掃除、ゴミを到着駅で降ろす。 冷房管理やミュージックを流す、物品販売、サモワールの管理など。

 私が知る範囲での仕事です。結構忙しくこまめに働いていました。車掌さんもいろいろで、 イルクーツクからの車掌さんは、優しくて、いろいろ便宜を計ってくれました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「プラット・ホームでお買い物2」
 このプラット・ホームでの買い物が、今回私の旅での大きな呼び物でした。 「シベリア鉄道の旅」を意識するようになって、旅好きの人やガイドブックなどから、この情報を得ました。

 それによると、列車が止まると、どこからともなく地元のおばちゃんたちが、各々かごをぶら下げて、新鮮な果物を売りに来るというのです。 そこで買い物をしている自分の姿を想像してみると、たまらなく楽しくなり、わくわくしてしまうほどでした。

 実際、次の停車駅をヴァーシャに教えて貰い、列車が停車すると、いそいそと降りては掘り出し物はないかとホームを歩きまわりました。 これが結構、運動となり、こわばった体や気分をほぐしてくれるという、一石二鳥の役目を果たしてくれました。

「恥ずかしがりやのおばちゃんたち」
 旅の想い出に、おばちゃんたちと一緒に写りたかったですが、写してもいいかと尋ねると、一斉に身を隠してしまい実現できませんでした。 彼女らも普段着で来ているし嫌だったのでしょう。仕方がないので商品だけ写したり遠方より撮ることにしました。

「牛乳からヨーグルト」
 当然、私も「カスピ海ヨーグルト」を自宅で作っていましたので知ってはいました。 ガイドのヴァーシャが、1.5リットルもあろうかと思えるほどのミルクを買ってきました。

 それを彼が飲んでから、お腹が痛いといい出しました。ちょっと、調子が悪くなったようです。 そして、ミルクはそのまま放置されていました。1日経ってから彼はそれをコップに注ぐではありませんか。 えっ!なんで?と見守る中、彼はヨーグルトを飲んでいるんだと平然としています。

 「なんで腐らないの?」すると彼は田舎で絞ったミルクにはヨーグルトになる菌がいるので密封しておけば、 ひとりでにできるのだと説明してくれました。日本の牛乳ではこうはいかないとも話してくれました。

 何も加えないものは、こんな素晴らしいことができるのだと、感心しきりの私でした。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「プラット・ホームでお買い物」
 大きな駅は15分から20分くらいの停車時間があります。 「長距離列車」到着とばかりに、太ったロシアのおばちゃんたちが、てんでにかごを持って集まってきます。

 中身は主に食料品のたぐいで、ゆでジャガイモ、ゆで卵、ピロシキ、パン、トマトにキュウリ、いちご、メロン、ぶどう。 干し魚、アイスクリーム、牛乳、水などの飲み物などを売りにやって来るのです。

 ガイドのヴァーシャがいうには、無農薬なので自然な味がして美味しいのだそうです。 確かに、見かけはよくないけれど、どれも昔の味がしていました。

 特別なものを除いては20ルーブルに値段は統一されているようでした。いちごは50ルーブルでしたが新鮮でとても美味しかった。 売店のあるところではビールも売っていました。同室のヴァーシャが1.5リットル入をよく買っていました。

2004年07月03日(土)〜06日(火)「旅は道連れ、4人乗りコンパートメント」
 ふたりのベッド用イスは向き合ってふたつ、その上にやはり2つベッドがあります。 上の段は大きなヴァーシャでも「一にの三」で気合いを入れないと登れない高さです。 乗車前にヴァーシャに下段を私たちふたりの女性に取ってもらうようお願いしておいたところ希望通りになりホットしました。

 しばらくは、私たち3人で、そのコンパートメントを占有していましたが、何度目かの駅で新入りが乗ってきました。 イルクーツクまでに国境警備養成隊員で18歳(?)の若いミハイル君、英語も話せる可愛い青年でした。 その彼が降りた後、商社マンのテイさんが入って来ました。材木の買い付けで満州から来たのだという話を聞きました。

 折り紙を器用に折っているのには感心しました。近所に日本人が住んでいたので教えてもらったのだそうです。

2004年07月03日(土)「1等車、2等車、3等車」
 私たちの4人乗りコンパートメントは2等車で、1等車はふたり用でベッドがふたつでゆったりしているとのこと、 それから3等車はイスとベッドになる部分が一体化していて囲いもなしでした。 ちなみに私たちグループの中のYさんご夫婦は1等車を利用されました。

 食堂車もありましたが、メニューはあまり多くなく、選択肢が限られていました。私たち女性ふたりは、一度だけ利用しました。

2004年07月03日(土)「さあ、これから始まるなが〜い旅」
 以前、旅といえば列車に乗って移動することでした。子どもの頃から列車に乗るとわくわくしたものです。 シベリア鉄道もそんな旅情をかき立てるに十分な古めかしさを漂わせていました。

 私たち8名とガイドのヴァーシャは、ウラジオストク発20:17、TRN.7に乗り込みました。 17号車一番後列でした。私のベッドはトイレの隣、禁煙車なので皆さんはデッキで喫煙していましたが、 ドアーがきっちり閉まらないので両方の匂いを嗅ぐ結果となりました。 でもまあ、あまり気にしないようにしてやり過ごしました。

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