ロシア物語【ウラジオストク編】

2004年07月03日(土)「ウラジオストクの現状と印象」
 この地名を知ったのはいつ頃のことか定かではありませんが、ずっと前から知っていたような気がします。 初めてのロシアの大地、しかも永久凍土のシベリアへの一歩。この地に降り立つことが、とても不思議な体験のような気がしました。

 ヴァーシャとともに車で観光しましたが、どことなく懐かしさが感じられるところでした。もちろん函館にそっくりだということもありますが。 思った以上に開けた街でした。

 ヴァーシャによると、今街を走っている車は、日本車が90%も占めているところでもあります。 人口80万人であること、大陸と海との影響を受けた気候、生息する動物のこと、太平洋艦隊の本部があること、 日本の富山と密接な交流をしていることなどの説明を受けました。

 いずれにしても生活は厳しく、年金受給者はそれだけでは食べていけないのでダーチャという別荘をもって農作業をして生活しているということでした。

2004年07月03日(土)「ダーチャ」
 これは、いわゆる別荘といわれるロシア独特(?)の畑と小屋があるところです。 政府に申請して土地を借り受け、小屋は自分で建て夏はそこに住んで農作業をして過ごし、食料を確保する。 大きな都市の近くでそんな光景を多くみました。

 地平線に日が昇り、地平線に日が沈む、そんな広大な土地なのですが、耕作できる土地はごくわずかなのでしょう。 時々放牧された牛を見ることもありましたが、農民の姿は殆ど見られなかった。あの厳しい冬の寒さでは農業は無理なのでしょう。

2004年07月03日(土)「自由市場とスーパー」
 ソ連時代からの市場で食料品や日用雑貨が沢山売られていました。そんな市場を冷やかしながら見て歩きました。

 スーパーはどこの国も同じような形式で、それこそ何でも揃っている感じでした。 列車に乗って食べる食料、ミネラル水、ジュース、非常食用にビスケット、パン、久しぶりにヨーグルトも買いました。 かなり購入したのですが費用は、わずか137.42ルーブル(約4.6ドル)。

 日本と比べてかなりの割安感を覚えました。

2004年07月03日(土)「ジプシーに囲まれて」
 駅前の広場からホテルに帰る途中のこと、うっそうとした茂みのさびしいところを通りかかりました。 案の定、ジプシーの子どもたち数人に囲まれました。

 それぞれ片手を出して迫ります。とっさに「NO」と、私はいって、その場を去ろうと急ぎました。 その場近くにいた、ちょっと大きい3人の男性が、彼らをたしなめていましたが、彼らとて身なりはよくはない。 振り向くと一緒に散策していた、男性のTさんは平然としています。

 私はひったくりの経験者、ちょっとやばいかなと思ったところで遭遇したのですが、子どもといえども、かなり危険です。 これからも用心するにこしたことはないですね。

2004年07月03日(土)「あり得ない話」
 15年前なら到底考えられもしなかったであろう事が起きていました。アメリカの軍艦が3隻ウラジオストク湾に入港していたのです。 その海軍兵たちの交換式?のようなところに出くわしました。

「アメリカから来たの?」と兵士に聞いてみたところ、「あの人に質問してくれと」とジェスチャーで示された。 とても信じられない情景でした。

 かってこの地は、ソ連軍の重要な基地として非公開とされてきたところです。 今ではアメリカ海軍が友情訪問をするようになったのだとヴァーシャが話してくれました。

2004年07月03日(土)「ウラジオストク駅舎」
 多くの駅の中でも美しいといわれているだけあって、本当に美しいたたずまいでした。 至る所におしゃれな装飾が施されていて、思わず写真を数枚撮りました。

 日本人のグループも何人か見受けられ、駅舎内の写真を撮っていました。 どこからともなく女性の警備員が現れ、写真を撮ってはいけないといわれ中止しました。

 これから乗るシベリア鉄道列車を見学したり、ウラジオストクからモスクワまでの距離(9,288キロ)が表示されたモニュメント、 陳列された珍しい5輪の機関車(Tさんに教えてもらう)などを写真に納めました。

2004年07月03日(土)「建国祭」
 ウラジオストクのある沿海州は、もともと清国の領土でした。1860年の北京条約を経て、150年前、ロシアの領土となりました。 それを祝う建国祭が、広場で行われていました。

 広場のあちこちで若者たちが、スポーツゲームに興じていたり、ステージでは、おばちゃんや子どもたちの歌や踊りが披露されていたのです。 中でも、女の子と男の子のペアで踊るカチューシャは、可愛くて見とれてしまいました。

 ふと前に陣取っていた、太ったロシアのおばちゃんが後ろを向いて、私にキャンデーをくれたのです。 怪訝そうにしていた私に、自分の食べているキャンデーを見せて「ほれ、これだよ。食べなよ」という所作をしたので、ありがたく頂きました。

 「スパシーバ」とお礼をいうと、にこにこしながら返答をしてくれました。

2004年07月02日(金)「初めてのロシア大地」
 私たちツアー・メンバー8名は、大韓航空でソウルから飛んで、ウラジオストク入りしました。 出迎えたロシア人(日本語)ガイド、ヴァーシャと共に街へと案内された。街行く人を眺めると、私たちより厚着をしているように見受けられ、 寒暖の差が大きいことを物語っているようでした。

 ウラジオストクは、かって見た函館のような街並みで、港に向かってお椀状に開けた街で坂が多くありました。

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