旅のはなし3

2002年11月05日(火)
「Kさんからの便り」
 “チロルの谷をのんびりと”の旅の途中に出会ったKさんから今日e-mailで便りが届きました。 ベルギーで2ヶ月間日本語指導のボランティアをしての帰国挨拶でした。

 私にとっても懐かしい街並みの画像と共に簡潔なことばが添えられたものでした。とても好印象で私も見習いたいと思う程です。 彼女は今までにもアメリカ、カナダでボランティアをしたり、ヨーロッパ各地をひとりで旅もします。 歌もたしなまれ、私のあこがれの人なのです。

 いつも彼女から旅の便りが届けられると私も旅情に浸れます。彼女からの便りは楽しみの一つです。

2002年09月14日(土)
「ミイラの謎・アイスマンの死」(9月13日・NHK教育テレビ放映)
 昨日テレビの番組表を見ていて、【地球時間「ミイラの謎・アイスマンの死」法医学が解き明かす5000年前の死因 】に釘付けになりました。

 昨年チロルの谷を旅して、一番気に入った谷エッタールでの出来事でした。この谷へ入ってHさんと出会い、すぐにこのミュージアムを紹介されました。 この地で、本当に珍しい5000年前のミイラの大発見があり、その詳しい資料がミュージアムにあるので、興味があれば訪れてみるいいと勧められました。

 1991年9月オーストリア・アルプス3200m地点でヘルムート・ジーモン、エリカ・ジーモン夫妻によって発見されたのでした。 私もこの発見のニュースは記憶にありました。そのミイラをオーストリア、イタリアの科学者たちが多方面から調査研究した結果によると、 5300年前の3月、争いに巻き込まれて右肩を矢で射られ、高い山に逃れたものの力尽きて死亡したようだと判定されました。

 彼には“エッツイ”(羊飼い)と言う名前まであります。何でも見たがり屋の私は、早速そのミュージアムに行くことにしました。 人っ子ひとり通らない村道をてくてくと30分位歩いて行きました。そこは高い山々に囲まれ、その山から勢いよくほとばしりながら落ちてくる滝。 美しい水が流れる川、牧草地が広々と広がる。そんなところに、小さな木造のミュージアムがありました。

 まだ、まだ謎が多い“エッツイ”は近々解剖される予定だとも言われていました。

2002年09月11日(水)
「“チロル”の写真奮闘記・2」
 7月中旬、ようやく整理のめどがついたので我が家のウエブマスターにその旨を伝えると、またまた新たな注文が出されました。 載せたい写真をかなり整理してはいるものの、どうしても沢山残ってしまいます。 そんなに多くは載せられないのでカットすること、載せる写真に1枚ずつ名前を付けることなどです。

 これが結構面倒な仕事で、写真の編集をしなおしています。こんなことで、もう少し時間がかかりそうです。

2002年09月10日(火)
「STEIFFCLUB・JAPAN」
 昨年、「チロルの旅」に出る前に“にわかテディベア・ファン”なった私が奇しくも出会ったテディベア販売を手がけていたTさん。 その人からテディベアについての話を聞いたことは「旅のはなし」の中でも紹介しています。

 そのSTEIFF(シュタイフ社)の“テディベア生誕100年展”が、そごう店でありました。 その旅の間にドイツまで行って、シュタイフ社のテディベアを探してみましたが見あたりませんでした。がっかりしたのは言うまでもありません。

 ところが、我が町でその愛らしいテディベアに沢山出会えました。思いもかけず、身近で出会えたことを何となく因縁めいたものと考えました。 さらに、驚きはスイスの“バーゼルブッペンハウス博物館”所蔵のものも展示されているのだそうです。 もし、いつかスイスに行くことができるならば、ぜひ行ってみたいものです。

2002年07月08日(月)
「チロル写真集・奮闘記」
 “チロルの谷をのんびりと”で写した写真の数々は大変なものです。 大きな枠組みは作ってはみたものの、パソコンに読みとらせた大きさではHPに反映できません。 そこで、毎日それらを選択加工する作業に明け暮れています。

 どの写真一枚とっても忘れがたいものばかり、それを切り捨てなければならない辛さ。それでも、ついつい残してしまい、かなりの分量となってきました。 また、1年経過しているので似通った場所では、どこの街なのかを判断しかねる場合が生じてきました。

旅ノートをたどり、ガイドブックで確認し直すなど結構大仕事です。  ある意味では、旅をもう一度よみがえらせているようなもので結構楽しんでいます。そんなことで、もう少し時間がかかりそうです。

2002年07月04日(木)
「チロルの写真集は、もうすぐ」
 “チロルの谷をのんびりと”の写真集はパソコンに取り入れてから、どのような形でにHPに載せようかと悩んでいました。 ようやく結論を出しました。行き先によって大きなくくりを作り、それを細分化していこう。 「チロル」、「スイス」、「プロヴァンス」、「ドイツ」とこのような分類をしてみました。

 そうすることで、とても作業がしやすくなりました。早速、昨日はその分類に取りかかりました。 HPに載せるような大きさにしたり、必要なものを選んだりする作業です。 もうすぐお目にかけられそうです。

2002年05月08日(水)
「“チロルの谷をのんびりと”の写真集はまだ?」
 昨年この旅に出たのが6月でした。そろそろその日がやってきそうです。旅は終わった後も楽しい思い出を残してくれます。 写真集はどのような方法で載せていこうかなと考えるうちに2ヶ月がたってしまいました。まだ迷っています。 しかし、そろそろと考えています。

2002年02月17日(日)
「旨いもの」
 先日、地元のラジオが「うまいもの」というテーマでリスナーから声をつのっていました。 私が海外に出て、いつもお世話になるのが中華料理店。ことの発端は“’97ヨーロッパ一周6ヶ月間 ”で体験したことが元になっています。

 これまでに、何回かの長期旅行で日本食への焦がれを感じたことがなかったはずなのに。 その旅に入って2ヶ月過ぎた6月22日、私はサンタクロースのいる村、フィンランドのロバニエミ へやってきました。 ここはもう、北極圏内。それなのに中華料理店「迎客松」がありました。

 レストランに入って、北京スープ(ペイジンスープ)と四川炊飯とビールを頼みました。 北京スープの醤油味に思わず「おいしい!」と言葉が飛び出しました。もちろん、無愛想な中国人へもその気持ちを伝えました。 滞在は2日間でしたが何度か食事に行くと、にこやかに応対してくれるようになりました。 そんなことがあって、この旅の間も再三、中華料理店で食事をしました。

 もちろん、“チロルの谷”でも同様です。海外で食べた日本料理店は、ほとんど値段が高くておいしくないのに比べて、 中華料理店ではその国々で根を張り、地元の食材を生かしておいしく、しかも値段も手頃なのです。

 あのとき味わった“北京スープ”の旨さを今でも忘れることはありません。

2002年01月21日(月)
「方向音痴と私」
 私は本来、方向感覚が鈍いようです。ひとり旅を始めるようになって、少しは方向感覚が養われ、大きな失敗をしなくなりました。

 子どもの頃に何度も中耳炎を患い、三半規管の働きが今一つだったからだと考えています。 子どもの頃から、乗り物に弱く、ブランコはもちろん、浜に突き出ていた波止場の上を歩くのも苦手でした。

 そんな私が、全く知らない外国の街をひとりで歩き回るのですから不思議です。 それには、やはりそれなりの工夫をしていたようでした。 新しい街では地図を必ず持ち歩きます。ヨーロッパでは教会とか公園を、工事中のグレンなども必ず頭にたたき込んでおきます。 それらを途中でチェックしたり、近くを歩いている人やお店の人とかに尋ねたりしながら目的地へ、そして宿へ帰って来ます。

 【道順をチェック/高いビルを目印に】を知らないうちにやっていました。 しかし、気をつけているようでも時々迷うこともあります。 幸いなことに、ヨーロッパの都市は狭いので、歩き回っているうちに新しい街と出会い、思わぬ拾いものをすることもあります。

 インスブルックでも、近道だと思って通りを歩いてみると、その通りが袋道になっていることを何度か経験しました。 そうでした、乗り物酔いも高所恐怖症もいつの間にか克服されていました。山登りも訓練になったのでしょう。

 今日の朝日新聞【方向音痴・知識と工夫で感覚補う】 記事からこんなことを思いだしました。【】内は朝日新聞から引用

2002年01月18日(金)
「ローソクの明かり」
 最近、日本でも“ローソクの明かり”が 癒しに効果があるということで話題になってきました。 昨日テレビでも、浴室に何本かのローソクを立て、電灯を消して入浴している光景が報じられていました。 確かにゆらゆらと揺れる明かりを眺めていると、ほっとくつろげるような気がします。

 私がヨーロッパを旅行するときには、必ず訪れた街の教会に入ります。宗教心からではなく、 教会を中心に花開いたヨーロッパの文化を見ることができるからです。 といいつつも、マリアさまの前にゆらゆらと揺らぐローソクの明かりに惹かれてしまいます。

 私は決まったように薄暗い教会の中、ゆっくりとマリアさまの銅像に近づき、ローソクをあげてお祈りをするのです。 旅の安全と感謝を祈って。やはり、ここは心安らぐ場所のようです。

2002年01月04日(金)
「忘れ得ぬ人びと2」
 これは、オーストリアのフェルトキルヒでのことでした。

 駅を出ると方向がさっぱり分かりません。 確かガイドブックでは小さな街だと書いてあったので直ぐ見当がつくと思っていました。なるほど駅前は小さな広場でした。

 バスを待っている様子でベンチに座っている若い女性がいました。同じようにインフォーメイションを尋ねました。 彼女はすぐ立ち上がり前に止まっているバスの運転手にその方向を聞いてくれているようです。 ほどなく、私を手招きしてバスに乗るように合図を送ってくれました。

 このバスがその方面を通るのだと説明、彼女も一緒に乗り込んでくれました。
「ここがインフォーメイションですよ」とその真ん前にバスを止めてくれました。  その女性と運転手さんにお礼をいって降り、インフォーメイションのドアーを開けてみました。しかし、あきません。 バスは発車せずに私の様子を見守ってくれている彼女と運転手さん、もちろんお客さんも。彼女が降りてきて張り紙を読んでくれました。
「今日は土曜日なのでクローズです」と教えてくれました。私はがっかりしましたが、みなさんに心からお礼をいいました。

 旅人をこんなに優しく親切にしてくれる人たちに、私はオーストリア人大好きと思うようになりました。 まだまだいます。インスブルックの中華料理店の人々、ボーデン湖畔でベンチの隣に座って身振りで話した中年の女性などなど。 これらは、旅の思いでの中にいっぱい詰まっている宝石です。

2002年01月04日(金)
「忘れ得ぬ人びと」
 旅をしていると心に残る親切を受けたり、心が通い合っていつまでも交流を続ける人たちがいます。この度もこんな人たちにたくさん出会いました。

 南フランスで出会ったYさん、Iさんたち。たった半日だけの出会いだったのに、なぜか以前からの友人のような親しみを覚えました。 帰国後もメール交換を通して交流しています。

 一方、ゼルデンで出会ったHさんとは、1週間同じ宿で過ごしましたが、帰国後全く音信はありません。 しかし、Hさんには、とても親切にしてもらいその風景とともに思い出されます。

 それから、イタリア・メランで私は大きなザックを背負い、厳しい暑さの中汗だくでインフォーメイションを探していました。 バス停にいた若い女性に、宿を探してもらうためにインフォーメイションを尋ねたが一向に理解してもらえず、もう捨て鉢になっていました。

 その様子をちょっと離れたところでみていたのでしょう。
「May I help you ?」と若い男性が聞いてくれ丁ねいにその場所を教えてくれました。

2001年12月28日(金)
「旅で出会った素敵な人々4」
 旅で出会う人々は、私にとって宝物です。今回、旅の始まりにフランスにも足を運びました。 スイスを離れ1週間の予定でフランスを訪れました。夢にまで描いていた南仏の風景をひとめ見たいとの願いから。

 リヨンに先ず1泊、それからアルルへと。そこで、たまたま駅で出会ったのが横浜出身のKさんでした。 お互いに宿を探すところから始まり、私はガイドブックおすすめの宿にインォーメイション で予約してもらいました。 Kさんは駅近くの宿を探しに、その後お昼を一緒にしませんかということになりました。

 それぞれ荷物を宿に預けて再び駅で再会、お昼を食べながら、いろいろな話がでました。 旅のこと、自分の今を語る、これからの旅についてなどなど。

 Kさんの旅の姿がユニークなので、楽しいひとときとなりました。 Kさんは、会社である地位にいながら自ら、早期退職を申し出てヨーロッパ各地を歩きオペラ三昧の旅をしているというのです。 学生時代にイタリア語を学び、オペラの魅力にとりつかれたのだそうです。こう話すKさんは、50歳代団塊世代の男性でした。

 その彼からカマルグ湿地帯の素晴らしさを教えてもらい、私がそこを訪れるきっかけとなったのですから。

2001年12月26日(水)
「旅で出会った素敵な人々3」
 ホテル・べラリーで出会った素敵な人々は他にもたくさんいました。 90歳のYさんは、車椅子で旅行を楽しまれていました。 そして、趣味の絵を描きながら旅を楽しんでおられた医師のHさん、それから数年前からスイスや他の国など、友人を案内されて旅を続けられているSさん、 さらに、「スイス我が命」と1年間 あらゆる手を尽くして調べ上げた資料を基にひとり旅を続けておられたKさん。

 みなさんのお話を聞いているだけで、いろんな人の生き方を学ばせて頂けるのです。 旅は、こんなに素晴らしい 感動を与えてくるものだということをあらためて感じました。

2001年12月13日(木)
「旅で出会った素敵な人々2の余談」
 ホテル・ベラリーでは、ディナーの席がひとりのお客さんの場合、相席になることが多いのです。もちろん、本人の承諾も受けます。 家族できた人は、ほとんどの人が他人に興味を示しません。そうでしょう、家族団らんで楽しむために旅をしているのですから。 それでも、なかには一人旅の人にも話しかけたりして交流も生まれています。

 そんなことで、アイガー登山に夢をもった人と若き脳外科医と相席となりました。相席では、まず挨拶から食事が始まります。 私は、彼らに挨拶の名刺を渡しました。アンナプルナ内院へのトレッキングの写真入りです。

「わあ、とんでもない人に出会ったよ、恥ずかしくてこちらの名刺が出せない」と彼らは大げさに驚いて見せました。 いろんなおしゃべりをしているうちに、私が英語を習い高校1年生くらいまで上達したことまで話したのです。
「僕たちは、中学生くらいかな」と、私を持ち上げた彼らは謙遜していました。

 ところで、宿のオーナーのフレーニさんと彼ら二人は英語をあやつって会話をしていました。私は蚊帳の外。笑える話しでした。

2001年12月05日(水)
「旅で出会った素敵な人々2」
 続いて、ホテル・べラリーです。一度、スイスを訪れてアイガーを見てから3年。 「あの山に登ってみたい!」という夢を実現しようとする52歳の男性と「世界の脳外科医の手術を学びたい」と100人の外科医に手紙を出したところ予想を裏切って、 100人全員からOKの返事をもらったのでアメリカを経てヨーロッパに渡ってきたという40代前半の若き脳外科医とディナーで同席しました。

 彼らとの会話の中で話される事柄がとても新鮮で、彼らの前向きな姿勢に尊敬の念を抱きました。 本当に素敵です。そんな彼らの会話に私も加わり楽しい食事をしました。

 話を聞いてから、これまで見ていたアイガーを特別な思いで眺めました。幸い登頂に成功し、その喜びも聞くことができました。本当に“感動しました”

2001年12月04日(火)
「旅で出会った素敵な人々1」
 旅に出ると、たくさんの人たちに出会います。そんな人たちの生き方に感動することが多く、これも旅の醍醐味です。 とは言っても、意志疎通できる日本人が圧倒的に多いです。可能ならば、多くの国の人たちとも交流してみたいのですが、ことばの壁もあり難しいのです。 それでも、身振り手振り、かたことの英語で話し通じ合うものを感ずることもあります。

 ホテル・ベラリーでこんな人たちに出会いました。 90歳の女性が車椅子で旅をしておられました。その方は、定年退職後30年間ひとりでヨーロッパを旅してこられたそうです。 お話を聞いていると、失礼ながら、そんなお年には見えない話しぶりや考え方に驚かせられました。彼女から、これからの私の人生に最高の励ましをもらいました。

2001年11月21日(水)
「ハイジの里におばあさんがやって来た2」
 ひっそりとした小さな町で見かけるのは、日本人の若い親子とカップルのみ。一度だけ、中国人の若い団体を見かけました。 なるほど、アニメで育った若い世代の人たちが来るところなんだなと、自分ながら場違いなところに来てしまったような気がしました。

 それにしても、不思議なのは外国人の観光客が見あたりません。レストランに入っても地元の人ばかり。 「ハイジ物語」は、日本人だけに人気なのかな、「フランダースの犬」の例にもある通り。などと、分析?してみたりしました。

 私が泊まったホテルに、日本語で書かれた「ハイジ・ハイキングコース」のパンフレットがありました。 4時間コースに興味があったので、お天気のよい日を選んで出かけました。

 人っ子一人もいない山道やアルムを1時間半くらいかけて登ると「ハイジのおじいさんの家」がありました。 そこには、小さな子どもを連れたヨーロッパ人の家族が3組、すでに到着していました。 「ああ、やっぱり、いたいた」と、私は妙に安心しました。

 白いひげをはやしたおじいさんは、「ハイジのおじいさんです」と日本語で自己紹介していました。 ハイジのおじいさんに、日本語のメニューの中からコーラを注文、持参したパンとでお昼にしました。 私は、再び、ひとりで里まで下りました。5時間たっぷりかかっていました。

 私の「ハイジ物語の里」体験は、とてもいい思い出づくりとなりました。 

2001年11月16日(金)
「ハイジの里におばあさんがやって来た1」
 物価の安いオーストリアにぎりぎりまでいて、やっとスイスへと戻ってきたのがヨーロッパを離れる1週間前でした。 言ってみれば、グリンデルワルトへの帰り道。何となく、孫娘たちへの土産話になればと、急に思い立ちました。 行き方が分からなかったのですが、幸いコピーしてきた“ヨーロッパ格安ホテル・ペンション”に行き方が書いてあったので訪ねることにしました。

 ハイジの里、マイエンフェルト駅は、とても小さく、キオスクが1軒あるだけで閑散としていました。 駅から2軒目のヒルシェンがおすすめと書いてあったので、そこに決めてました。

 レストランも経営しているので、お店から入り、レジの所にいた人に条件をいうと、その条件の部屋があるというので泊まることにしました。 1泊、70スイスフランでした。オーナーは、宿帳に記入した私の年齢を見て「わぁ〜」と声をあげていました。 たぶん、こんな年齢の者が泊まったのは、初めてだったのかしらと考えました。

2001年11月15日(木)
「2度目にはほほえみを3度目には握手3」
 こんな経験は何度もありました。やはり、セルデンのあの山小屋で夕食をした時、よそからも何家族か参加していました。 その家族と一緒に肩を組んで歌って、すっかり打ちとけた人たちとでした。

 何日か後、その家族の一員に街で出会いました。それこそ、前からの知人のように笑顔で挨拶して二言三言おしゃべりしました。 そのほかの街でも、同じバスに乗り合わせただけなのに、観光している間に何度か出会うと、もうこぼれんばかりの笑顔で挨拶をするのです。

 私が出会ったヨーロッパの人たちは、一見、冷たそうな顔つきをしていますが、 道を尋ねたり、写真を撮ってもらったりすると、急にほほえみを浮かべ優しい顔つきになります。

 何なんでしょうね。その落差の大きさに私はいつも驚いていますけれど。

2001年11月14日(水)
「2度目にはほほえみを3度目には握手2」
 それから、犬を連れた家族に何度も出会うことになりました。あのトレッキングの翌日、私が乗っているバスに彼らも乗ってきました。行き先も同じエッツなのです。 そこで、当然「やあ、やあ」と笑顔で挨拶を交わしました。それから、再び出会ったのは、ホーエムート(2659m)の頂上でした。

 当日、天気が悪くその山に霧がかかり、リフトで上るには寒そうでした。1時間ほど待っている間に、その霧がさっとはがれたので上ってみることにしました。 オーバーグルグルが既に標高1927mもあるエッタール最奥の集落です。山頂には雪がうっすらとかかっていました。

 かじかんだ両手を片方ずつポケットに入れて暖をとりながら、やっと頂上に到着しました。山小屋の日溜まりは、案外暖かでした。 一面雪が積もり、氷河も間近に眺められ感動しているときでした。

 そう、例の子犬を連れた家族にぱったり、どちらからともなく私は、ご主人と奥さんと娘さんと握手を交わしていました。

旅のはなしリストに戻る 01チロルに戻る トップページに戻る