旅のはなし2

2001年11月13日(火)
「2度目にはほほえみを、3度目には握手1」
 セルデンに滞在中のことです。ガイスラヒャーコーゲル(3058m)までロープウエイに乗り上ってみました。 ところが、天候が悪く氷河がそばまで迫っていて、寒さも厳しく、あたりは霧で視界が全く閉ざされていました。 近くにいた人に記念写真を撮ってもらい、即、中間駅に戻りました。

 そこは、気温は上がって8度でした。下る道は中間駅を挟んで右と左に分かれていたので、 どちらを選択しようかと、持参したトレッキングガイドブックを広げて見ていると、家族連れの男性が心配そうに近づいてきました。

 私が歩こうとした方向は、彼らが行こうとする方でした。お礼をいって、彼らのあとについて行くことにしました。 夫妻と17歳くらいの女の子そして小さな犬の家族でした。彼らはドイツ人だと言っていました。

 ガイドブックの記述も古いので少々違っているところもあり、彼らのドイツ語に信頼をおいて彼らが教えてくれる道を選んだのですが、ことごとく間違っていました。 彼らも悪気は、なさそうなのですが、ひょっとして、からかわれているのかと思ったりもしました。

 彼らはリフトで下りるので別のコースを選びました。私は何度か道に迷いながら、どうにかひとりで里まで下りることができました。 こうして、彼らとはロープウエイの中で出会ってからトレッキングの間も何度か別れては逢い、すっかり親しみを覚え、出逢う度に、ほほえみを交わすようになりました。

2001年11月12日(月)
「感動をだれに伝えるの?」
 ひとり旅の楽しさをある会で、お話したときのことです。もちろん、辛いことも話します。
「とても、きれいな風景を見たとき、そばに誰もいないとつまらなくありませんか?」

 それができないからひとり旅はつまらないと、多くの人が言います。
「私はね、同じようにその美しい風景に感動している、外国の人たちへ気持ちを伝えますよ」と話します。 ふ〜ん、そんなものかと納得したような、しないような態度がみられます。
「Oh beautiful!」「It's fine!」「Very good!」「Your country is very beautiful!」などと話しかけます。

 すると彼らも同調してくれ、一体感を持つことができるのですよ。

2001年11月06日(火)
「レストラン、カフェ、バル(Bar)3」
 同じメランでのこと、日曜日とあって、ほとんどのお店が閉まっていて、スーパーさえも同様です。 私の泊まっていた宿は、ほとんど人通りもなくて淋しいところなので、遅く開店するレストランは敬遠です。

 でも、開いているのはバルだけです。そのバルもコーヒーやお酒などの飲み物が中心でした。やっと探してあったのが、冷凍もののパンを置いているバルでした。 やむなく、それを焼いてもらってコーヒーを飲んだだけで夕食にしたこともありました。

 ちなみに、バルはさまざまで、チーズやハム、卵などを挟んだサンドウイッチやトーストなど、ちょっとした料理を出してくれるところもあります。 早朝から夜遅くまで営業しているので重宝するところです。

 もう一つ加えるならば、やはりメランでのことですが、調理したものをケースに入れて直売しているお店があり、そこで何点か購入して夕食にしたこともありました。 日曜日はもちろん、そこもお休みでした。

2001年11月06日(火)
「レストラン、カフェ、バル(Bar)2」
 私が食事をしたところは、レストランの他にカフェとバルもありました。 レストランといえば、7時半から8時の夕食タイムにならないと開けないところがあったりで、私のように早くホテルに戻ろうとするものには、 レストランで食事をするのが難しいこともありました。

 イタリアのメランを訪れたときのことです。ちょっと郊外のハイキングコースを歩いてお昼にしようかと、ひっそりとたたずむお店に入りました。 なんと、そこはカフェでおいしそうなケーキがずらり、他の料理は見あたりません。 がっかりしながらも、私の大好きなリンゴのケーキとコーヒーを注文してそれを昼食にしました。

 こんなことを度々経験している内に、ケーキを見るのも辛くなりました。ケーキにうんざりなんて贅沢な話ですね。

2001年11月03日(土)
「レストラン、カフェ、バル(Bar)1」
 今までの旅の中で、今回ほどレストランを利用したことはありませんでした。 幾分か旅慣れしてきたこと、それから、前回に比べて短期間であったことで、ちょっとくらい贅沢しようかなと気をゆるめたこともあるでしょう。

 いつもながら、レストランへ入るとメニューを持参してくれます。 そのメニューの中、私は、どのようにして料理を選んだのかといいますと、英語でもドイツ語でも私に理解できる単語を探します。 その上で、トマトとかチーズとかビーフとかをみつけて注文するのです。したがって、何が運ばれてくるのか目の前に出てくるまでは分かりません。

 目の前に運ばれた料理を見るなり、大抵私は歓声をあげていました。 それは、分量が多かったり、素敵な料理だったり、考えていたのとは全く違った料理だったりと、さまざまです。

 そんな料理をたくさん食べたお陰で、今までの旅ではたいがい痩せて帰国するのですが、今回は2キロも太って帰りました。

2001年10月28日(日)
「日本製アニメが大活躍」
 海外旅行中、何よりも気がかりなのは世界のニュースです。テレビのある部屋に泊まったときにはチャンネルをグルグル回してCNN放送とか、BBC放送を探してよく視聴しました。 そんなに英語が堪能なの?といわれそうですが、私は、場面と知っている単語を駆使して読みとろうと努力しています。

 そんな中、多く目についたのは、日本のアニメーションでした。午前中に放映されていることが多く、オーストリアでもスイスでもドイツ語をしゃべる「ハイジ」、 「ポケモン」、「ピノキオ」、「セーラームーン」そのほか格闘シーンのあるもの、女子高校生のバレー物語(題名不明)など数多く見ました。

 これらアニメの登場人物や建物、風景などが全くヨーロッパをイメージして作られているので違和感なく見られているのではないかと思いました。 そして、内容はともかくとして確かにとてもよくできた作品だと思います。

 ちなみに、フェルトキルヒで出会ったあの土曜日のお祭り(?)には、風船屋さんもいて、空中に浮かんでいる風船のなかにポケモンを発見して驚きました。

2001年10月27日(土)
「続々・オーストリア最終日、ホテル・クローネの思いで」
 このホテルは、ドルンビルン駅からバスで10分の“シュピタル”バス停を降り、交差点を渡ってすぐのところにありました。たった、10分弱であたりはもう郊外です。 四星ホテルのレストランに入るには、ちょっと、気後れがしましたが近くに食事をするところがないので仕方なく入ってみました。

 おどおどしながら、あたりを伺っていると、「こちらへ、どうぞ」と案内してくれ席に落ち着くことができました。 メニューを持参してくれると、間をおいて注文を聞きにきてくれました。メニューとにらめっこして、ようやく決めたのが魚の料理でした。 それはそれは、美しい盛りつけで味もよく、食材もよく、おいしく頂きました。

 飲み物も赤ワインを注文したものの、銘柄を聞かれ困っていると、
「これが、おいしいですよ」と、持ってきてくれたウエイトレスさんは、中年の太った女性でした。
「味はどうでしたか」とまで、尋ねてくれる、きめ細かな対応振りにもう感動。
「Very good!」と、私は最大のゼスチャーと言葉でお礼をいいました。

 このホテルに3日間滞在しました。毎日ディナーはこのレストランでとりました。 毎回変わらぬ接し方、このホテルの温かな心づかいにオーナーの姿勢を読みとることができました。 料理は最高、接客態度は最高の“ホテル・クローネ”は、オーストリア最終日にふさわしく、私の心に残る町となりました。

2001年10月26日(金)
「国が変わっても、変わらぬ車窓風景」
 これは、私がブレゲンツからミュンヘンに遊びに行ったときのことです。帰りの列車はコンパートメントの中、お客さんは男性2人と私とで3人でした。 なぜか冷房が効かず、あまりの暑さに窓を開け放ち通路側もドアーは開けたままでした。

 そのうち、ひとりのサラリーマンらしき男性が、うとうとと眠り始めました。その情景を眺めていた私も眠気が襲い始めました。 慣れない道中なので、あくびがでるのをぐっとこらえて、その男性を観察し続けました。男性は、書類カバンを持ったまま、深い眠りに落ち込んでいきました。

 列車は特急で、しかも1等車内、どこか遠くへ出張だたのかしら?などなど考えているうちに、とある駅に着きました。彼はパット目ざめ、急いで降りていきました。 その、素早い動作は起きていたとしか思えないほどでした。こんな風景、日本では見慣れたもので、日本特有の風景だと思っていました。

2001年10月25日(木)
「続・オーストリア最終日、ホテル・クローネの思いで」
 “ガストホフ・クローネ”22号室の私の部屋は大きなツインベッド、さらにソファーベッドひとつ、テレビ、 木製のテーブルとブドウの絵が彫られた民芸家具調の椅子にどっしりしたクローゼットがありました。

 15畳もあろうかと思われる部屋の中央には、ほのかに光るシャンデリア、枕元の照明とテーブルの電気スタンドがあり、これらをすべて点しても夜は文字が読めない暗さでした。 窓はすべて両開きの木製ブラインドがあり、とても古い建物でした。そんな建物の下にレストランがありました。 ドイツ、スイス、オーストリアには、宿泊したお客さんに朝食と夕食を用意してくれる宿が多く、これらをガストホフと呼んでいます。

2001年10月24日(水)
「オーストリア最終日、ホテル・クローネの思いで」
 ドルン・ビルンの観光案内所で見つけてもらった宿“ホテル・クローネ ”での思い出は心温まるものでした。

 ドルンビルンは、17世紀の美しい建物が残る織物の町だということで訪れてみました。とても小さな町でした。 まず、度肝を抜かれたのは神殿風の前廊をもつ教会です。そのほかにもたくさんのフレスコ壁画が描かれた建物がみられました。

 観光客はあまり見かけないのに、私が希望する宿がなかなか見つかりませんでした。 かなりの時間をかけて、探してくれたのが四つ星“ホテル・クローネ”で、500シリングでした。

 私が部屋に通されたのは、新館ではなくて“ガストホフ・クローネ”の方でした。 ホテルのある場所は、ちょうど四差路の一画で私の部屋は、まさにその角っこ、幹線道路に面してひっきりなしに通る車の騒音に私は、到着早々落胆してしまいました。

2001年10月13日(土)
「ここはどこ?、列車で居眠り」
 やはりフェルトキルヒに滞在中のことでした。午後時間がとれたので、ユーレイルパスをつかってドイツのリンダウまで足を延ばしてみました。 ブレゲンツ駅までICで25分普通44分。そこで乗り換えてリンダウへ約10分。

 たった10分なのに、オーストリアとドイツでは、ずいぶん変わった感じを受けました。港もかなり華やかなでシンガポールで有名なマーライオンも見受けました。 そこは多くの人たちが行き交い大変賑わっていました。

 私は駅前をちょっと歩いただけで駅に戻り、帰りの列車に乗りました。それは、チューリッヒ行き午後2時29分発でした。 列車に乗るとなんだか、眠気がして30分くらい、うとうとしたようでした。そんな中、車掌さんが切符の点検にきました。私はまだ夢の中。 変だなあ、乗車して間もなく切符の点検を受けたのに。

 しばらくたって、ふと、窓外に目をやるとあまり見慣れない駅名が次々と目に入ってきました。
「ええっ、ここはどこ?」私はうろたえて、先ほどの車掌さんを追いかけて行き尋ねました。
「私はフェルトキルヒに行きたいのですが、そこには止まらないのですか?」
「そうですよ、チューリッヒ行きですよ」と答えて盛んに手元の機械(券売機)を操作していました。
「次の駅ザンクト・ガレンで降りて午後4時6分発クール行きに乗ってブックス(5時着)で降りなさい。そうしたら、フェルトキルヒまでダイレクトですよ」と、 タイムテーブルをとりだしていねいに教えてくれました。

 そんなことで、オーストリア→ドイツ→スイス→オーストリアへと半日で回りました。

2001年10月12日(木)
「シャッテンブルク風子牛カツレツを食べる(フェルトキルヒ)」
 この、フェルトキルヒの街はリヒテンシュタインと国を接していて、13世紀に出来た城壁や塔、城門が部分的に残っている小さな街です。 旧市街のはずれの丘にそびえる15世紀の城塞に行ってみました。その城内に“シャッテン城レストラン”があります。 そこで、名物のシャッテンブルク風子牛カツレツとサラダを注文しました。

 まず、飲み物のミネラルウォーターが、それからサラダがきました。お次は、シャッテンブルク風子牛カツレツです。私は一目見て「わ〜ぁ、ぁ、ぁ!」と叫んでいました。 巨大ポーク・カツレツ、ゆうに20センチはあろうかと思える大きさはありました。とても食べられそうにもないと思いながらもおいしいので全部平らげてしまいました。 (合計で140シリング)

 実をいいますと、この大きさのポーク・カツレツは初めてではないのです。インスブルック郊外にあるお城、アンブラス城のレストランでも食べました。 ここでは、ポテトフライにパンがついて、そのカツですから驚いたのはいうまでもありません。 オーストリアのレストランでその分量の多さを何度経験しても驚いてばかりです。

2001年10月11日(木)
「大道芸見て歩る記・フェルトキルヒにて」
 私がフェルトキルヒに着いたのが土曜日の午前11時、観光案内所はお休みで、大きな荷物を背負っての宿探しとなりました。 幸い、すぐに宿が見つかったので、さっさと荷物をほどき街に繰り出しました。

 ところが、どうでしょう。旧市街の中心、マルクト広場(Markt Platz)は大勢の人だかりがしています。 背のびして、人だかりの輪の中をみると、大道芸人がそれぞれ芸を披露していました。そんな輪が、あちこちにいくつもあるのです。 輪の最前線には、子どもたちが地面に座り、その後に大人たちが幾重にも重なりあって立ち、笑ったり拍手をしたりして盛り上がっています。

 派手に楽器を打ち鳴らしながら歌うもの、バイオリンを奏でながらクラシック音楽を披露するもの、水晶占いあり、彫刻立像あり、フェイス・ペインティングあり、 切り絵屋さんありで、その数の多いこと。 屋台風パンとウインナと飲み物(ビールやコーラ)屋さん、もちろんレストラン前のオープンカフェもありです。

 私もウインナとパンとコーラを注文して、その賑わいの眺めながら食べました。目の前で焼いてくれるアツアツのウインナのおいしかったこと。 それで58シリング、450円弱でした。 その後、私は一つずつの輪をハシゴしながらその日の半日を大いに楽しみました。

2001年10月10日(水)
「続・旅先での楽しみ1.2.3」
 そう、もう一つ加えたいことに、ヘヤーカットがありました。今回はシュルンスでしてもらいました。 通りを歩いているとき美容院を見つけたので、そこへ行ってみることにしました。 予約がいるようなので、ドイツ語辞典で前もってシャンプー、カットの語句を調べて、希望の時間をメモして若い店員さんに渡しました。 その内容の確認を受け、簡単に契約が成立しました。

 指示された椅子に腰掛けると、まず、コーヒーが運ばれてきました。(コーヒーかティー)そして、頭や肩のマッサージがていねいに行われたのでした。 これほどまでのサービスを受けるとは思ってもみなかったので驚きました。

 カットは、私がメモを渡した女性が担当してくれました。彼女はヘヤー・スタイルを美容雑誌で確認して、手際よく、ていねいにカットをしてくれました。 「Are you speak English ?」と尋ねたので「Yes, I can speak English a little」と答えると、いろいろと話しかけてくれ楽しいひとときを過ごすことができました。

 もちろん、シャンプー、カットも満足しました。彼女(マリヤ)にチップをはずんだのはいうまでもありません。

2001年10月10日(水)
「旅先での楽しみ1.2.3」
 私の旅は、いつも長期に渡るので、よく現地調達します。そのひとつ、化粧品、歯磨き粉、歯ブラシ、日焼け止め、爪切りなどです。 もう一つは、現地の気象条件に合わせた衣類、タンクトップ、ソックス、短パン、Tシャツ、半袖ブラウスなど、そのほか、現地で食べる食品類です。 これらは、大体スーパーなどで購入します。でも、おいしそうなアイス・クリームなどは店先で買っていました。

 現地の人たちに混じってぺろぺろなめながら歩いたり、ベンチに腰掛けて往来の人たちを眺めながら食べるもよしで、結構気に入っていました。 そうそう、フルーツ屋さんのかけ声でバナナやリンゴ、モモなども買ってそのあたりで食べていましたっけ、、、。

 こんな仕種が、なんだか旅をしているんだなあと、実感するひとときでもありました。

2001年10月09日(火)
「私が見たパレード・色濃く残る民族衣装の独自性」
 オーストリアを旅しながら、たくさんの集落別(?)のパレードを見てきました。インスブルックが最初でした。大体、日曜日に行われているようです。 私には区別のしようがないのですが、それぞれが違った色合いの民族衣装をまとい、チロリアンハットをかぶった男性、さまざまなティンドルを着てリボンの飾りをつけた女性、 各々20〜30名位で組織され、手に手に楽器を持って参加しています。もちろん鉄砲もです。

 中には、勇ましそうな肩章や胸飾りをつけている人たちもいます。そんな人たちが広場に集います。儀式があって空砲を放った後、号令と共にパレードが始まるのです。 クーフシュタイン、セルゲンで、大規模なのはレッヒでのパレードでした。延々3時間近く続いていました。

2001年10月09日(火)
「続・いつか見た街、ここはどこ?」
 バス停を後にして、私は街の通りを歩き始めました。バス停のあたりは、とても淋しい場所でしたが、ほんの20〜30m位歩いたところで、賑やかな街に入りました。 ところが、この街は10日前に来たレッヒの町並にそっくりだと気づきました。 「ええ!そんなのある?、ひょっとして、同じような街をつくったのかしら」と、疑問が一度に押し寄せてきました。

 そこで私は、一つずつ検証することにしました。川の向こう側の四星ホテルのグランド、屋根つき橋、スプリングの貯め池、バス停のベンチ、 スーパーそして私が購入した木製人形工房、スポーツ用品売場、レストランなどなど。 みんな、ありました。「でも、どうして、私はレッヒに来るつもりはなかったのに」と、まあ頭はこんがらがってしまいました。

 種をあかせば、今回のバス停が以前来た所とは違って反対側であったこと。しかも、前はザンクト・アントン駅からバスに乗って入りました。 通ってきた道も全く違って、はじめはゆるやかな平原を通り抜け、それを過ぎると、険しい山の中腹をくり抜いて作った絶壁の中のトンネルを通ってたどり着くという、 スリル感を刺激するようなコースでした。その上私が混乱したのは、レッヒの手前で降りたつもりでいたのですから。

 何はともあれ、清流が流れ、美しいアルプスに抱かれた小さな街を再度訪れることができたのは幸せでした。

2001年10月09日(火)
「いつか見た街、ここはどこ?」
 私は、ドルンビルン駅前からヴァートへと向かいました。オーストリアのバスは、ほとんど前乗り前払いです。 運転手さんに「ブレゲンツァーヴァルト」というと、「200シリング」だという。 お金を支払うと券売機をジージーいわせて「ダンケ・シェーン」と、いってチケットを渡してくれました。

 乗る前から気になっていた下車するバス停の名称、英語を全然話せない運転手さんに聞くのも億劫なので、ガイドブックに2時間を要すると書いてあったので、 成り行きに任せて乗り続けていました。

 窓外は広がりのあるアルムの集落を通り抜け、森の中、小さな川、大きな川を越え、2000m級の山々を眺めながらアルプスの谷間をずんずん上りつめていく、 時にはちょっとした街も出現したりで、私は、その景色の移り変わりをたっぷり楽しんでいました。

 いよいよ終点、みんなが降りるので私も降りることにしました。バス停の名称は知りません。 私は不安を隠し切れず下車後、すぐにバス停の時刻表を読みました。それでも、まあここから帰り便は発車するのだろうと思いながら、、、。

2001年10月08日(月)
「フレスコ壁画いろいろ」
 ミッテンヴァルトで見たフレスコ壁画は、ほとんど“宗教画”でした。このフレスコ壁画は、私が歩いたタール(谷)のいたるところで見ることができました。 エッツタールのエッツでも、レンゲンフェルトの農家でも、レッヒでも、ドルンビルンでもたくさん見てきました。

 フレスコ壁画はどんなものかご紹介しましよう。
【壁画の街ロイテは、中世、市場と交易で栄えた町だ。家々の外壁に描かれたフレスコの壁画が美しいことで知られる。屋外で描かれた絵だからドイツ語ではルフトマーレライー。 訳せば空気絵だ。一番多いのは装飾図形。そして、壁や柱、窓枠を立体的に見せるダマシ絵。また、聖母子像や家の守護聖人などの宗教画からその家の職業を描いたものもある。 ・・・中略】【】内は“チロル・パノラマ展望”から画像も引用。後日、私が写した写真も掲載します。

2001年10月08日(月)
「フレスコ壁画が美しい街・ミッテンヴァルト(ドイツ)」
 前日(7月8日)訪れたクーフシュタイン(ドイツ国境)とラッテンベルクにやや期待を裏切られた感じでした。 まあ、それでもクーフシュタイン要塞(郷土博物館)の塔の中で正午を告げる、4307本のヘンデルオルガン(Heldenorgel)の奏でる響きには圧倒されましたけれど。

 翌日あまり期待もせず、インスブルックから普通列車で1時間、国境を越えてミッテンヴァルトへやってきました。 駅を降りるとすぐ背後に雪をいただく岩峰がどっしりと控え、うっそうと茂った並木道が旧市街地まで続きます。そこまで歩いて10分。

 急に視界がひらけ明るい町並が現れる。どこの建物にもフレスコ壁画が描かれていて素晴らしい。 どの建物も歴史を感じさせてくれるものばかりです。 その街の中央には、小さなせせらぎが流れていました。せせらぎの両サイドには敷石も施されて、その通りを三々五々と歩く人々のためのベンチが置かれていました。

 私は、この街に来てみてよかったとつくづく思いました。そんないい街でした。

2001年10月05日(金)
「シュルンスの星はきれいだった」
 シュルンスは人口3700人といわれる街ですが、私が泊まった宿はこぢんまりとまとまった旧市街地の中心、というのも教会の真ん前が銀行でその背後にある小さなホテル。 街は周囲を山に囲まれていて昼間でも静かな場所、夜になるとなおさらです。街灯も1本だけが灯るだけで他にあたりを照らす灯りはありません。

 夜中ふと空を見上げると、これほどの星があるのかしらと思われるくらい、きらきら輝いていました。 日本では、どこも、かしこも目一杯あかりをつけているので、とてもこんな美しい夜空を望めません。ちょっと、うらやましい気がしました。

2001年10月05日(金)
「モンタフォン街道へ」
 私がエッツタールを後にして、やってきたのはフォア・アールベルク州のシュルンスでした。 モンタフォン街道へ行くための足がかりとして、この町を選びました。 ブルーデンツからパツナウンタールへ抜ける、シルヴァレッタアルプスの谷。シュルンスはその途中にありました。

 パルテネンはその谷の最奥の村。そこから更にバスは折れ曲がるような山岳道を登りつめると海抜2036mのビーラーヘーエにたどり着く。 そこにシルヴァレッタ湖が横たわりホーエス・ラッド(2934m)ピッツ・ブイン(3312m)エック・ホルン(3312m)級の峰々が湖面に姿を映している。

 私はそこでも、観光船に乗ってその湖を一周しました。 ガイドブック氏がいうように私も絶景といいたいところですが、確かに美しい色の水ををたたえた湖といい、雪を抱いた峰々などを見る限りでは。 ひとつ残念なことには人工湖なのです。ちょっと、がっかりしたのが正直な感想です。

2001年10月05日(金)
「“我が谷は緑なりき”・映画の題名を思い出す」
 私は、オーストリアの谷から谷へと歩いてきました。こうして思いでを綴っていて、なぜだか昔見た“我が谷は緑なりき”の映画の題名を思い出しました。 (HOW GREEN WAS MY VALLEY)ジョンフォード監督で1941年作の名画です。 【舞台は、イギリスのウエールズ地方の炭坑町です。そこに生きる炭坑夫一家の喜びと悲しみが描かれています。】【】内は引用文。

 もちろん映画とは関係ないのですが、私がたくさん見てきた緑の美しいタール(谷)の風景が、まさに、その題名通りでした。 チロルはのびやかで、広がりのある明るいところでした。 なかでも、シュトゥバイタールは「こんなに美しい景色がこの世に存在するのか」と思わず口をついて出てくるようなところでした。

2001年10月03日(水)
「続々・エッツタールでの思い出」
 もう一つ忘れられない思いでがあります。7月17日私たちが泊まっているホテル・アルペンランドが所有する山小屋で夕食会が催されました。 Hさんはメランへ1泊のツアーに参加するので不在。私ひとりで参加しました。

 約10名位のメンバーが午後5時過ぎにお迎えの車に乗って30分あまりで山小屋(2040m)に到着しました。 そこは、日だまりが暖かい場所で高い峰々が一望に見晴らせるよい場所でした。 戸外のテーブルに家族がひとまとまりとなって腰をかけ、あたりの景色を眺めながら雑談が進む。 私は、と言えば、ドイツ語が話せないので黙ってさっきから日記をつけていました。

 すると、「日記を書いているの?」とドイツ人だという男性が英語で話しかけてきました。 そうだと、答えるとみんなが一斉に関心を持ち私の方を見つめる。私が日本語で綴った日記帳をみんなに見せると「これが日本語か」というゼスチャーでみんなが驚く。 こうして、親しみを示してくれている空気が流れて、私はひとりでなくみんなの中にとけ込んでいきました。

 時は進み、他のメンバーも加わって賑やかな生演奏に合わせて肩を抱き合ってみんなが歌う、夫婦でダンスを踊る、 私もそんな中に加わって歌ったり手拍子を打ったりして楽しんだのはいうまでもありません。

 ほんとうに、楽しいひとときでした。もちろんディナーもおいしかったですよ。

2001年10月02日(火)
「続・エッツタールでの思いで」
 Hさんが提供してくれた数々の情報は、ひとり旅の私にとってどれほどありがたいことなのか、ちょうど“地獄で仏”にあったようなものでした。

 セルデン到着後、彼女の働きで難なく同じホテルに泊まることができたこと、そして観光案内所へ案内してくれて観光に必要なパンフレットやバスの時間表、 館内に掲示してある天気予報の見方、そして、エッツタール・カードの詳しい説明、、郵便局や現地ツアー会社、スーパーの在りかなど、更に観光のポイントなども、 それは細かに教えてくれました。

 彼女もひとり旅をしているので“痒いところに手が届く”ということばが、ぴったりのアドバイスでした。 ホテル内では、朝食と夕食の時だけ出会い、お互いのプライバシーに立ち入らない、一定の距離をおいて接してくれる彼女。 これは、私が必要な情報だけを選んで活動ができるように配慮しているように思えました。

 それでも、夕食をとりながら今日一日どうだった、こうだったなどの話が弾みました。とにかく、セルデンでは、何も心配することなく過ごせたのは彼女のお陰と感謝しています。 ホーエムート(2670m)からの大氷河の展望は最高でした。フェントしかり、どれを切り取っても素晴らしい所でした。

 ちなみに、彼女はドイツが話せます。現在も学習中だそうです。

2001年10月01日(月)
「エッツタールでの思い出」
 旅で出会った人たちが口を揃えて「エッツタールは最高よ」といいます。まさに、その通りになりました。

 イタリア・ドロミテ、メランからオーストリアへ舞い戻ってきた私は、何度も乗り降りして勝手知ったるインスブルック中央駅でエッツタール行きに乗り一つ目の駅で降りました。 それは、それは小さな駅でした。駅前は閑散としていて、今までとは全く違った空気が流れているような感じがしました。 駅前がバス停です。バスを待っているオーストリア人の老夫妻がいうには、2時間くらい待たなければならないというのです。

 やがて、そのバスもやってきて私とその老夫妻は乗り込みました。ほどなくして日本女性が乗ってきました。彼女はすぐ、私を見つけて隣の席に座りました。 どうやら、7月のはじめにセルデンに来て、長期滞在し、そこを起点に山に登ったり街に出かけたりしているようでした。彼女はHだと名乗りました。

 バスがセルデンに着く約1時間の間、彼女は必要な情報を次々と教えてくれました。しかも、今、宿泊している宿までも宿泊できるように交渉してくれました。

2001年09月29日(土)
「そこは氷河の上でした・シュトゥバイタールにて」
 インスブルック旧市街から軌道電車に乗り、私はシュトゥバイタールの奥地、パノラマレストラン・アイスグラートを目指しました。

 電車は、みどりとかわいい草花がいっぱい咲いている牧草地の斜面をゆっくりと、ゆっくりと登っていきます。 やがて、人口1500人のテルフスへ、そして3000人のフルプメスへと。時間は約1時間かかります。

 そこで、電車を降りバスに乗り換えてノイシュティフトを通り抜け、バスの終点ムッターベルク・アルム(1750m)へ。 私は急いでアイスグラートまでのチケットを買い、ロープウェイを乗り継いで上りました。

 そこは標高2900メートルの“氷河の上”でした。そこから見上げるアイスヨッホ(3250m)は、スイスで見なれた荒々しい氷河の姿はなく、 そのアイスヨッホからスキーヤーが色とりどりの服装で駆け下りてくる穏やかな傾斜の氷河でした。

 私もパノラマレストラン・アイスグラートのそばまで迫っている氷河の上に立ち、散歩をしてみました。いつか私の頬もゆるんでいました。

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