旅のはなし1

2001年09月28日(金)
「続・しゅぽっぽ・モクモクSLの旅」
 同じイェンバッハ駅からツィラータール線がマイヤーホーフェンに向けて出ています。 ツィラータール・アルプスがそびえ、豊かな牧草地が広がる谷(タール)です。私はガイド・ブックの提案にそって、行きはバスに乗りました。 ひらけた畑や牧草地、農家の軒先をかすめたり、まるで広いツィラータールの端から端を紡ぐように走り抜けるバスの旅は、風景に変化がありとても楽しめました。

 帰りは列車でと、考えてマイヤーホーヘン駅へ。時刻表をみると、どうやら私が乗りたい時刻の列車がSLのようなのです。 チケットを購入するとき、駅員さんにそのことを確認することにしました。
「この列車はSLですか」私。(もちろん英語ですよ。笑い)
「?????」駅員さん。
「しゅぽっぽ?」と、私は得意のボディーランゲージ。
「おう、モク・モク」と、駅舎から出てきて時刻表を確認した彼もSLの身振りをする。2人は妙に納得しあったのでした。
「???“モクモク”って日本語?ドイツ語?」私はしばらくたってから考えました。

 ちなみにSLは6月から9月までに1日2往復運行されています。

2001年09月26日(水)
「しゅぽっぽ・モクモクSLの旅」
 私は鉄道でインスブルックからイェンバッハまで(特急・急行で20分)行き、そこからSLに乗ってアッヘンゼー(アッヘン湖)まで行きました。 それは、可愛い車体で煙をモクモク吐きながら緑の森やアルムを登って行きます。(最大傾斜15度)その煙が客車といわず、あたり一面に広がっていきます。 懐かしい煙の匂い、それを嗅いだのは、何年振りのことでしょうか。私は子どものようにはしゃいだ気持ちになりました。周りの子どもも、大人もみんなにこにこ顔でした。 登り切ると広い広い湖が広がっていました。

 観光船にのってゆったりと時間を過ごした私は、とても満足した一日でした。

2001年09月23日(日)
「続々・お・げ・ん・き・で・す・か?」
 11日後“中国飯店富都”とのお別れの日がきました。私は去り難い思いでいっぱいになりました。その思いを英文で記し、ママさんに渡しました。 彼女は中国語はもちろん、ドイツ語、英語も話せます。お客さんと英語で話しているのを聞いたことがあります。

「私は、このお店と出会えてとても幸せです。皆さんに親切にしてもらい、おいしい食事ができたからです。これから、イタリアに行きます」と。 「そう、イタリアでは貴重品に気をつけてね、元気でね」とママさんと店員さんも優しくいってくれました。また、いつの日か出会いたい、そんな人たちでした。

2001年09月23日(日)
「続・お・げ・ん・き・で・す・か?」
 こうして、毎日“中国飯店富都”行きが始まりました。昼間は、パン屋さんでパンとジュースを買って公園のベンチに腰掛けたりして食べました。 時には、ファースト・フードでサラダとパンとコーヒーなども食べました。

 観光してホテルに着くと、まずシャワーをして汗を流し、午後6時頃“中国飯店富都”へ出かけました。 二日目からママさんが「お・げ・ん・き・で・す・か?」といって笑顔で迎えてくれるようになりました。もちろん、他の店員さんも同様です。(日本語はママさんのみ) そんな、温かいもてなしを受けて、ああでもない、こうでもないと彼らのサポートを受けながらメニューを決めていきます。

 覚えていないのですが、いつ頃か私にだけ食後の梅酒が届けられるようになりました。おいしい梅酒でしめくくりディナーを終えることができる。 それは海外にいて、私の心を和ませてくれるひとときでした。   

2001年09月23日(日)
「お・げ・ん・き・で・す・か?」
 旧市街地からイン川にかかるアルテ・イン橋を渡るとすぐ前に“ホテル・インブリューケ”があります。その後側に“中国飯店富都”がありました。 そこには、ママさんと若い男性と中年の女性がいて3人が給仕をしてくれます。ホテルを変わってすぐの夕食から隣の“中国飯店富都”で食べるようになりました。

「何にしましょうか?」と問われ、何にしようかと考えあぐね「ラーメンはないんですか?」と。
「ラーメン???」、「ラーメンですよ」と食べる動作をしてみる。
「はあは、ヌードルね」、「そう、そう」そこで、メニューの中から食べたいヌードルを探す。
そこでまた、私は「野菜、野菜」と叫ぶ。 野菜と書いたメモを見せると、ママさんが「ザーサイ・ヌードル」という。
「それ、それプリーズ」と、やっと初日のメニューが決まりました。

 分量もかなりで、とてもおいしかった。日本食を離れて18日目にして醤油味を味わいました。 「ベリー・グッド」と思わず、私はお礼をいっていました。ちなみに、ザーサイ105シリング(820円)、ビール27シリング(210円)とで1030円でした。

2001年09月22日(土)
「輝く黄金の小屋根のインスブルック」
 スイスから一気にオーストリアのインスブルックに入りました。到着が夕方になるので気になる宿。 今回初めてVISAカードのジャパン・デスク(チューリッヒ)にお願いしてホテルをとってもらいました。なんと1100シリング(8600円)とても高額でした。 2日間そこで過ごし、長期滞在に備えて安い宿を観光案内所でみつけてもらいました。

 1泊朝食シャワー、トイレ付きで450シリング(3522円)のホテル・インブリューケ。 旧市街の黄金の小屋根まで2〜3分の近さで、しかもイン川のほとり、ピンク色の建物がとても印象的でした。 もちろん、室内は清潔でシーツは毎日きちんと整えられえていました。 朝食は必要にして充分なパン、ハム、チーズ、ヨーグルト、ジュース、ミルク、フルーツやフレークなどが用意されていました。 いつも明るい笑顔と声で接してもらえ、温もりのある家庭的なホテルでした。

 街は4年前と全く変わらず私を迎えてくれました。ただ違うのは黄金の小屋根がとてもまぶしく輝いていました。前回は急ぎ足で回ったので夕方だったからです。

2001年09月21日(金)
「3大イベント見たり聞いたり・続ブレゲンツ音楽祭の巻」
「ブレゲンツ音楽祭のため、ホテルは全部フルです」と観光案内所の職員にいわれて、急に背中の荷物が重くなりました。 音楽祭があることはガイドブックで知っていたのだけれど、ここまでとは思いもよらなかった。

 町を移ろうかしらと考えていると、心当たりを探してみましょうといって電話をかけてくれ、条件は悪いけれど中心街から離れたところが見つかりました。 そういえば、隣のカウンターでは階段状の観客席のチケット購入で交渉中でした。こんなことで、私は運がよければ音楽祭にも行かれるかなと、軽い気持ちだったのです。

 なるほど、湖上に設けられた会場や観客席、会場そばのホテルには1000人あまりのディナーのコップやお皿が準備されていてその規模の大きさに驚きました。  でもボーデン湖は、家族連れで賑わい、若いカップルは湖畔のスポーツ施設で卓球に興じたり、泳いだり、散歩で疲れた高齢の夫婦はベンチに腰掛けゆったりと、 それぞれがいい時を過ごしていました。

 昼間でもうっそうと茂る湖畔の公園で、私も同様に歩き疲れたらベンチに腰掛け景色を眺めながらひとときを過ごしました。 音楽祭には参加しませんでしたが、充分楽しむことはできました。

2001年09月20日(木)
「3大イベント見たり聞いたり・ブレゲンツ音楽祭の巻」
 私がオーストリアを離れる前に、この地を選んだのには訳があります。 そう、オーストリアに向かう途中、インターラーケン・オストからベルンまでの列車の中の出来事です。 グリンデルワルトで同じホテルに泊まっていたSさんとその友人が近くの席にいました。

「どちらへ向かわれるのですか」と、どちらからともなく話し出しました。
「私はオーストリアのチロル州へ行きます」と私が答えました。
「そうですか、私はローザンヌの友人を訪ねます」とSさん。
「毎年、知り合いのおじいさん、おばあさんを連れてスイスにやって来るのです」と、話すSさんが80歳であることを知りました。
「ええ!、とてもそんなに見えませんよ、ねえ」と、先ほどから話の輪の中に入っていた隣席の日本人ご夫妻に私は同意を求めました。
「ローザンヌはいいところですよ、ぜひ訪ねてみて下さい」と、Sさんとそのご夫妻が美味しいレストランのある場所や観光名所などなどを細かに教えてくれました。
「じゃあ、オーストリアからの帰りに訪ねてみましょう」と、彼らに約束しました。

 経費節減ということもあって、結局、私は予定を変更して近場の湖であるブレゲンツを選んだのです。

2001年09月19日(水)
「3大イベント見たり聞いたり・パリ航空ショーの巻」
 この話は、ポン・デュ・ガールで出会ったYさんから聞きました。 Yさんは航空関係の仕事をしていらして、仕事の都合で帰国が延期になり“パリの航空ショー”を見ることができたのだそうです。 その“パリ航空ショー”は、ル・ブルージュ空港で行われたそうです。

 『パリ航空ショーは、航空機の売買(当然軍用機も主流です)のためのショーなので、飛行展示もかなり行われます。 また、ル・ブルージュ空港というのは、『翼よ、あれがパリの灯だ』で有名な、リンドバーグが大西洋を横断して着陸した飛行場で、空港の入り口近くに、モニュメントがありました。 博物館もあり、コンコルドの1号機も展示されています。』『』内の興味或る話。

 “パリ航空ショー”の開催時には、ほとんど宿が取れない状態になることとか、いろんな楽しい話を聞くことができました。  あの有名なコンコルドは採算が合わないので生産を中止したと聞いていますが、どうなんでしょうね。これは聞き忘れました。

2001年09月19日(水)
「3大イベント見たり聞いたり・マイスターの人形」
 私が、この度ドイツへも行ってみたい希望がありましたが、それは、やはりドイツのテディベア、木製の“くるみ割り人形”“花の子どもたち”“錫の壁掛け”などが見たくて。 4年前にはたくさんの国を回ることで余裕がなかったのです。そんな、可愛いおもちゃをゆっくり見て、気に入れば買って帰りたい。そんな思いが詰まっていました。

 錫やブリキのおもちゃはニュルンブルクで、くるみ割り人形や花の子どもたちは、木のおもちゃで名高いグリューンハイニヒェンやザイフェンで作られているようです。 (ニュルンブルク近く)それぞれ、そこの気候風土に合った素材を利用して作られています。 おもちゃ博物館で有名なニュルンブルクへの観光は果たせなかったのですが、ミュンヘンの街でおもちゃの数々を見て気に入ったのを買いました。

 ドイツでは、おもちゃといえどもマイスターたちがその技術を駆使して、創りあげていくので素晴らしいものができあがる。だから人気があるのでしょう。 その他にもたくさんのおもちゃがありますが、ここでは到底ご紹介できませんのでやめておきます。  【ドイツおもちゃの国の物語・川西芙沙文・一志敦子絵・東京書籍】参考資料

 木製の“くるみ割り人形”・・・高さは8.5cm
 “花の子どもたち”・・・高さは、花を含めて9.5cm
 “錫の壁掛け”・・・学校の授業風景
 ブドウを持った男・・・オーストリア製、高さ9.5cm
 ブドウを持った女・・・オーストリア製、高さ9.5cm

2001年09月18日(火)
「3大イベント見たり聞いたり・テディベアの巻」
 たまたま、私がグリンデルワルトからオーストリアへ向かう列車の中でトモナガさんと出会いました。日本でテディベアの通信販売をしている方でした。 最近“ピ−ターラビット”から“テディベア”へ変心したことを前にも触れましたが、まさに偶然とはいえ不思議なご縁を感じました。

 シュタイフ社がテディベア販売を手がける世界の業者の方を招いて、6月にフェスティバル(懇親会)を開催するのだそうです。 ところは、ドイツのウルムからほど近い田舎、確かギーンゲンという村で、その村あげての歓迎だそうです。

 トモナガさんは、その合間を縫って気分転換にスイスのグリンデルワルトへやって来ました。 列車の中で、そんな話や彼が写した300枚の写真がデジカメに保存されているのも見せていもらいました。 美しいアイガー、メンヒ、ユングフラウヨッホ、そして高山植物の数々を見ながら、これは素人ではないなと直感しました。
「とても、きれいな写真ですけれど・・」「ええ、高山植物を撮っていました」との返事。

 彼はパソコンを携帯し、宿の予約や列車の発車時刻などを探して旅をしているとのこと、私より一歩先を行く旅人の姿を見ることができました。 私も、できることなら行ってみたかったのですが、ちょっと遠すぎました。(フェスティバル中は宿が取れません)

2001年09月18日(火)
「3大イベント見たり聞いたり」
 旅には、いろんな出合いがあります。それが風景であったり、歴史であったり、文化であったりと。 私は、いつも旅に出る前には“どんな人に出会えるかな”がひとつの大きな楽しみでもあります。それは、その人たちからいろんな話を聞くことができるからです。

 さて、今回もたくさんの素晴らしい人々に出会いました。 その中で3つの出来事「シュタイフ・フェティバル(テディベア)」と「パリの航空ショー」「ブレゲンツ音楽祭」に出会ったり話を聞いたりすることができました。

 残念ながら、この度は外国の人たちとは交流は生まれませんでした。やはりことばの壁はここでも障害になりました。

2001年09月16日(日)
「私は見た“魔女狩り”を!(突然ですが)」
 今年8月2日、オーストリアのフォア・アールベルク州立博物館を訪れました。 原始時代やローマ時代の遺産、中世以降の芸術作品など、州の歴史と文化のすべてが展示されているなかなか見応えのある博物館でした。

 その陳列の中に木ぎれで高く組んだやぐらの上に(高さ30センチ位)魔女が座らされて、まさに火あぶりの刑にされようとする模型を見ました。 ’97年のヨーロッパの旅から帰って「魔女狩り」の背景に興味を抱き本も読んだりしました。この模型を見ることで、やっぱり本当にあったことなんだと確信しました。

 この話をスイスにもどり、ベラリーの中島さんに話ました。 「あの、中世の時代なんの娯楽もなかったから民衆の娯楽に行われたのじゃあないの」と。 そうかも知れない、つぎつぎと火あぶりの刑に処せられる魔女たちを見ようと見物客は殺到したいうのです。ほんとうに、人間のもっている残酷さを思わずにはいられません。

2001年09月15日(土)
「大きいのや小さいのや、いろいろあって安い」
 セルデンで出会ったHさんにスーパーでのフルーツや野菜の買い方を教えてもらいました。そんなスーパーでは、バナナ1本でも、リンゴ一つでも、ぶどう一房でも買えるのです。 フルーツや野菜がボックスに山積みにされ、それぞれ番号が表示されています。欲しい品物をそばの計りに載せ番号を打つと、重さと値段が印刷された紙片がその秤から出てきます。 それを品物を入れたナイロン袋に貼って、レジに出せば金額を計算してくれる仕組みになっているのです。 そのボックスには無選別のフルーツや野菜があふれるように盛られています。

 “好きな分量だけ買う事ができる”これってとても便利です。ひとり旅をしているものにとっては大助かりです。 日本のように選別され、しかもパック詰めにされていると、値段が張る。選別することで、より高級品しか出回らない仕組みになっているようです。 様々なニーズ(購買者)にあった品物をそろえてもらいたいなと常々思っていました。

 先日、「無選別」で生産物を流通させたいとニュースが流れていましたが、これこそが、これからの市場に必要ではないかと素人ながら考えました。

2001年09月14日(金)
「私は信号待ちの犬のようでした」
 とにかく、駅や列車に乗ってもドイツ語の放送は皆目分かりません。 時にはホームが変更になったり、列車の遅延を知らせたりしているのですが、私にはまるで理解できないのです。

 それでは、どうしてその問題をくぐり抜けて来たのでしょうか。いつもとは違った雰囲気のことばで放送が入ります。 そこで耳をそばだてるのですが悲しいかな分かりません。とにかく、今度入って来る列車に何らかの変更があったようだ。 そこで、周囲の人たちの行動を観察している訳です。

 そこを動かなければ列車の遅延、みんなが動き始めたらホームの変更だと感づくのです。そう、周囲の人々の行動を見て動く。 これは、以前信号待ちをしているときに飼い主のいない犬が信号を待っていました。よく観察していると、みんなと一緒に信号を渡りました。 これは、多分周囲の人の行動を察知して渡ったのだなと思いました。

 そこで、私も同じかと、おかしくもあり悲しくもありました。

2001年09月13日(木)
聖ベゼネ橋の絵の額縁をつくりました」
 私は旅に出ると、気に入った場所の絵を買い求めます。街頭で名もない人たちが描いた絵を彼らのコレクションの中から気に入ったものを一つ選んで買います。 今回はインスブルック旧市街地とアヴィニョンの橋を描いたものを買いました。一つは額縁を買って飾りました。 もう一つは寸法が既製品となかなか合わないので額縁を作りました。

 最初はいろいろイメージを張り巡らして、きれいなものを作ろうとしたのに結局は画用紙そのままを使い簡単なものになりました。 それでも、気に入った絵を飾ることができて満足です。想い出の絵を額に入れて毎日眺めることが、私のお気に入りのひとつです。

2001年09月10日(月)
「南フランス・プロヴァンスは?」
 私の見た「南フランス・プロヴァンス」は、農村風景が広がり、そして歴史を感じさせるところでした。 当初、私がイメージしていたのは、セザンヌやゴッホなど印象派の画家たちがこの地にあこがれてやってきたのは、広々とした農村と自然かなと考えていました。 彼らは、この古い歴史の町も愛したようでした。

 私は、次のことを引用しましょう。 【「プロバンスには神のような太陽、悪魔のようなミストラル」とゴッホは言った。」セザンヌも故郷エクス・アン・プロヴァンスで常に自然と対峙した。中略。 セザンヌが達した芸術の究極はこの自然からうまれたと思われる。】と、この地を表現していました。 【プロバンス 歴史と印象派の旅・牟田口義郎 佐々木三雄・綾子・新潮社】

2001年09月08日(土)
「続・♪ アヴィニョンの橋の上で輪になって踊ろう (^O^)」
 ♪ アヴィニョンの橋の上で
   みんなが踊る 踊る
   アヴィニョンの橋の上で ♪
   みんな輪になって踊る  ♪

 ♪ 「アヴィニョンの橋の上で輪になって踊ろう」の楽譜の紹介です。 これは、観光地に必ずお土産やさんがありますが、その橋のたもとにあったインフォーメイション内で買いました。 Tシャツです。前身頃にプリントされています。フランス語なのでさっぱり読めませんが、これを着てとてもうれしがっています。

2001年09月06日(木)
「遅ればせながら旅のはなし」
 「旅の記録」では、主に記録をつづりました。したがって、“できるだけ短く”をモットーに心がけたつもりです。
 「旅のはなし」では、自分が見て感じたことや、こぼれ話、エピソードなどを書きつづっていきます。

 少し話が長くなり退屈になるかと思いますが、そこら辺にいるおばさんが「こんなことをしたんだ」とか、「面白いことをしているね」、 「まあ、あんな馬鹿なことをよろこんでいるよ」などと笑い飛ばしながら読んで頂けたら幸いです。

2001年09月06日(木)
「♪ アヴィニョンの橋の上で輪になって踊ろう (^O^)」
 ♪ アヴィニョンの橋の上で
   みんなが踊る 踊る
   アヴィニョンの橋の上で ♪
   みんな輪になって踊る  ♪

 これはフランス民謡で世界に知られた曲です。バレー「ジゼル」の作曲者アドルフ・アダンがオペラ・コミックの中でこの民謡を取り入れ有名になったそうです。

 この橋の名前は「聖ベネゼ橋」といい、大水害で3分1が欠けた状態となっていました。 このアヴィニョンの歴史に触れると長くなりますが私は、単に民謡に魅せられて「行ってみよう」と単純な気持ちで出かけてみました。

 「橋の上で踊れますか?」の声が聞こえてきそうですが、それは無理のようですね。 ガイドブックによると、古地図にはこの橋の中程に中州が描かれていて、そこに下りて踊ったのだろうと推測されています。

 この橋のたもとには、どでかい城塞宮殿がそびえています。もう、石の塊といった風情で美しくもありません。 でも今も尚、褐色の城は、その偉容さを誇っています。アヴィニョンの最盛期は法王庁があった1309年〜1378年の頃のようです。 城の内部も見学しましたが、とにかく大きく広い、かっての隆盛をかいま見たような思いでした。

2001年09月06日(木)
「続々・ポン・デュ・ガールをみてメチャ感動した私たちでした」
 フランスにひとりで乗り込んできて、ことばの壁にぶっつかり散々苦労していた私は、ポン・デュ・ガールでYさん、Iさんと出会い、意気投合。 切れ目がないほど3人でおしゃべりをしました。

 Yさんは仕事でマルセーユに滞在。その仕事の都合で帰国が延期されこの観光ができたのだと語り、Iさんは友人とくるはずだったのが都合が悪く、 ひとりでくることなったことなど、お互いの仕事のことやらパソコンの話やら尽きることなくたっぷりと話しました。

 こうして、ひとり旅をしているもの同士が出会うと、とても意気投合するのです。「ひとりで食事をするのはつまらないから一緒に食べませんか」ということも多々あります。 ひとり旅人は、さみしいけれども決してそれ以上の付き合いはしません。 お互いのプライバシーに立ち入ることなく、「じゃあ、明日ね」「これからも、お元気でよい旅をね」などと、ことばをかけて別れます。

 以前スペインを旅したときにも、私は敦子さんと一緒の旅でしたが、移動場所が何度か一緒になった若い男性や女性と昼食や夕食を食べたことがありました。 「動くときはひとりがいいけれど、食事をするときはみんなと一緒がいいね」と若者がいっていました。全く同感です。

 変な話ですが、ポン・デュ・ガールで彼らと別れた後の行動について私は全く知りません。 そんなことで帰国後もYさん、Iさんたちとメールのやりとりをして交流を続けています。

2001年09月05日(水)
「続・ポン・デュ・ガールをみてメチャ感動した私たちでした」
 ポン・デュ・ガールの話ですが【「たとえ相当な回り道になろうとも、訪れるに値する」と、ミシュランの案内書はすすめる。 ガルドン川にかかるこの水道橋(Pont du gard)は古代の驚異であるからだ。そこでは建築に対するローマ人の天才が遺憾なく発揮されている。】 【】内は【プロバンス 歴史と印象派の旅・牟田口義郎 佐々木三雄・綾子・新潮社】から引用。 ローマ帝国の滅亡後維持管理ができなくなり一部破壊されたが、ナポレオン三世が修復させ、現在もその姿をとどめているそうです。

 私がこの地を訪れるきっかけとなったのが、やはりカマルグをジープで回るとき、ツアー客の中にいた日本人女性からその素晴らしさを聞いてからです。 彼女はアヴィンヨンの田舎を回るツアーに参加すると聞きましたが、人気コースで予約が大変だと話していました。 そこで、私はポン・デュ・ガールだけでもいい、バスはその間、田舎巡りしながら現地にいくのですから、それだけでも十分と思って一個所だけの観光になった訳です。

 ほんとうに、素晴らしい建造物に出会い、Yさん、Iさんにも出会えて楽しいひとときを過ごせたことは、とてもいい旅の想い出となりました。

2001年09月05日(水)
「ポン・デュ・ガールをみてメチャ感動した私たちでした」
 この日11時頃アルルから移動してきた私は、それこそ大急ぎで宿を探し、荷物を置いて、このポン・デュ・ガールを目指しました。 (12時15分発のバスを逃すと遅い便しかないので)

 バス停に日本女性Iさんがいましたので確認して一緒にバスに乗り込むと、運転手がなにやら聞いていますが、私は「????」。 「はあ?往復のことですか」と日本語でいいました。すると、車内のどこからか日本語が聞こえてきました。その方をみるとYさんがいました。 Yさんの近くの席に私たちは座り30分くらいバスに揺られてポン・デュ・ガールにつくまで雑談を楽しみました。

 下車後、帰りのバス便を確認したのは当然です。いちばん早く出発するのは、ものの30分くらいで、次は、ずうっと遅くて18時50分くらいでした。 そこで3人は遅い便を選びました。

 私たち3人は、おしゃべりしながらバス停から歩き始めました。大きな建造物なのだからすぐ見えると思ったのですが、なかなかそれらしき姿が見えてきません。 あっちでもないこっちでもないと3人で探してやっといく方向がわかり、また、ぞろぞろと歩きはじめ「ポン・デュ・ガール」を発見しました。

 レンガ色の巨大な橋が目に飛び込んできました。まず、その規模の大きさに驚き、そしてその美しさに感嘆し、緻密な石積みに再び感動を呼び覚まされました。
「わあ〜っ、すごい」、「わあ〜っ、すごい、すごい、すごい」、「素晴らしいね」、「ここにきてよかった!」 「うん、うん、とうとう、みたね」と、3人は口々に叫びながら、そのローマ人の造った美しい水道橋に酔いしれました。 よくぞ、2000年前の人たちが造ったものだと理解しがたいくらい、ひとつひとつの石をていねいに積み重ね、美しい弧をを描く。 実用一点張りでなく芸術性をも持たせたのだと思いました。

 私は、そのローマ人に畏敬の念を抱かずにはおれませんでした。

2001年09月04日(火)
「ARLES・アルルは古い街だった」
 カマルグを訪れたのは6月22日でした。幌なしのジープに乗って走り回った湿地帯では、 それこそむき出しのぎらぎらした太陽を全身に浴びて1日で手足は真っ黒に日焼けしたのです。 私が持参していた温度計では40度を指していたのですから無理もないでしょう。

 そんな、南フランスの中のアルル。しかも、私が何度「アルル」と呼んでも現地の人には誰ひとり理解してもらえませんでした。 無理もないでしょう、日本人が不得手とする発音のRとLが入っているのですから、アルルと呼ぶために何度筆記したでしょうか。

 炎の画家ゴッホがたくさんの絵画を残したアルルは、歴史は古く、紀元前46年の秋、ジュリアス・シーザーによってローマの植民都市が築かれたというのです。 私のイメージでは、その歴史は思いもいたらなかったのですが、やはり、現地に入って肌で感じました。

 とにかく、私が泊まった「ミューゼ」というホテルはもちろん、周囲はローマ時代の遺跡に囲まれているというか中にあるのです。 お隣さんも前の家もみんなローマ遺跡でした。特に円形闘技場は宿に近く壊れかけてはいるものの、今も闘牛が行われています。 私は運悪く、その試合の日程とずれてみることはできませんでした。一見の価値があると聞きました。

 真っ青な空にぎらぎらと照りつける太陽は容赦なく地面を焦がします。しかし、一歩木陰にはいると、まるでうそのような涼しさです。 また、日が陰ると尚一層その感が強く気温による寝苦しさは一度も感じたことはありませんでした。

2001年09月03日(月)
「そして広大な湿地帯カマルグへ」
 私がカマルグの名前をはっきりと認識したのは、アルルへ入って日本人男性Kさんと出会ってからです。 「カマルグに行くんだ」と興奮気味にアルル駅で出会うとすぐ、彼はいいました。「カマルグ?」と私。 「必見ですよ!素晴らしい湿地帯です。」と力を込めて勧められたのです。と、そこで私も行ってみようと考えました。 なんでも、バスの便が悪いのでとしきりに彼はいっていました。

 さて、私はといえば、幸にもジープで回るツアーをみつけたのでジープで2時間半と効率よく回ることができました。 カマルグは【アルルの郊外を起点にローヌ川は大小二本の支流に分かれ、三角洲を形成して地中海に注ぐ。 中略、この平野の大部分は中央部に広いヴァカレス湖をかかえ込む大湿地帯だ。中略。 第二次大戦以前からの動植物保護区であり、まさに野鳥の天国。】といわれるだけあってたくさんの野鳥を見かけました。

 ただ、残念なことに説明がフランス語なので私は全く蚊帳の外。 それでも野生のフラミンゴの群が大きな羽を広げて飛び立つ姿は美しく、白い羽に黒のアクセント、それにピンクの色が加わって優雅そのものでした。 そのほかにも、白い馬、水牛?、などもみかけました。

 それから、見逃してはならないのは水稲栽培です。日本のような立派な水田ではないのですが、かなりの収穫があると聞いています。 そして、地平線まで広がるひまわり畑でした。【】内は『プロバンス 歴史と印象派の旅・牟田口義郎 佐々木三雄・綾子・新潮社』より抜粋。

2001年09月01日(土)
「アルルからエクス・アン・プロヴァンスへ」
 エクス・アン・プロヴァンスは私の好きなセザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山のあるところです。 バスの連絡が非常に悪く仕方なく周囲をタクシーで回ることにしました。

 アルルからバスに乗ってエクス・アン・プロヴァンスに向かっているとき乗客7人の内4人までが日本人でした。 その中のひとりで、フランス在住の若い女性から「スリが多いですから、くれぐれも気をつけて下さい」と忠告を受けました。 どうやら、コソボ難民が大勢入り込み、スリを働いているようです。彼女も子ども数人に囲まれてどうにも抵抗できなかったという経験者です。 なんだか、せっかくの美しい自然に浸ろうとやってきたのに腰を折られたようですが、やはり忠告をありがたく受けました。 そんなことも遠因でタクシーに思い切りをつけたのです。

 そのサント・ヴィクトワール山を案内してくれたタクシーの運転手は片言の英語をしゃべってくれたので大助かり、多少なりとも意志疎通ができました。 山の周囲を回っているとき、ピカソが晩年住んでいた山荘と彼が葬られたところを遠くでしたが指を指して教えてくれました。

 セザンヌが愛してやまなかった故郷の山をこの目で見ることができ、うれしさで胸がいっぱいになりました。 日本の山を見慣れた私には、決して美しい山には見えませんでしたが、方向とか光の具合で微妙に変化をみせる姿に天才画家は魅せられたのでしょう。

2001年09月01日(土)
「あこがれの南フランスへ」
 南フランスといえば印象派の画家たちが愛した土地です。 私も印象派の画家たちの絵について、比較的よく知っているものが多いので興味もあり、描かれた風景と出会ってみたいという思いで決めました。

 私は、リヨン、アルル、アヴィニヨンを訪れました。アルルからエクス・アン・プロヴァンスと湿地帯カマルグへ、アヴィ二ヨンからポン・デュ・ガールへ行ってみました。

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