コラム・39
    
軽井沢の地名のことなど
はじめて軽井沢へ出かけたのは1970年ころのことでした。ええ、もうその頃は軽井沢は高級人種の集まるところとして有名になりかけていましたので、どんなところかと俗物的な好奇心ででかけましてね。
碓氷峠の南麓にある横川(よこかわ)の駅で、機関車のつなぎ替えの十分ばかりの停車の間プラットフォームに降りて、ぶらぶらすることになり、なにはともあれ、名物の峠の釜飯ってことになりました。以前は、あの駅でアプト式機関車につなぎ替えて、碓氷峠を越えていたそうですが、ボクが行った1970年では、もう粘着運転のできる電気機関車になっていました。
横川―軽井沢間11・2キロの勾配のもっとも急なところは、66パーセント(水平距離1000メートルに対し高さ66メートルの勾配)だそうで、鉄道が開通するまでは、峠を越えるのは大変な難儀だったろうと思いましたね。
      
後ほど知ったのですが、軽井沢の地名は、この峠越えが難儀だったことを記録しているんだそうですね。軽井沢の文字からは、軽ろやかなとか、水の湧き出る処とかの印象を受けますが、そんなものではないらしい。あの軽は軽子(かるこ)のカルが語源だそうです。
軽子(かるこ)とは、荷物をかついで運ぶ人足のこと。「かる」は「かるう(担)」と同根らしいですね。
越後から交易品の塩や塩鯖を馬の背で運んできて、軽井沢で小分けして人が背負って碓氷峠を越えていたらしい。軽子(かるこ)の足溜りがあったことから軽井沢の地名ができたと言います。
各地にカル(軽)の地名が残っていますから、固有名詞ではなく普通名詞のようですね。
でも、横川―軽井沢間では最急勾配66パーセントだったとしても、馬が通えないほどの傾斜ではないと思うんですが、鉄道線路のような緩やかな大道はなかったのでしょうね。隣接する藩にすれば峠は天然の要害ですから、兵馬が押し寄せてくる大道を大金をだしてわざわざ造ることはなかったでしょうしね。
       
それだけではなく、峠に大規模な開発を阻む信仰もあったとかいいます。
トウゲ(峠)の語源は「たむけ(手向)」で、サエ(塞)の神に手向をして御幣を祀ったところなんですね。
ところで、トウゲ(峠)の古語はヒョウ。西国ではツクシ。
西国のツクシは、難波の澪標(ミオツクシ)でお馴染みなんですが、標(ツクシ)はシメ。ええ、注連縄(しめなわ)のシメ。神の領域を示すシメ。
東国のヒョウは、そのまま標ですから、同じくシメのこと。
神の領域の峠に踏み込んで、大規模な土木開発をすることは憚られ、これも、峠越えの大道が造られなかった原因らしい。
それに、馬が荷を負って運べるようになると、多数の軽子(かるこ)が失業しますしね。
軽井沢あたりの寒村では、軽子は、かっこうの賃仕事であったのでしょうしね。
いずれにしても、あの碓氷峠を蟻のように背中に荷を負って登り降りしていた人達がいたんですね。
      
今、新幹線に乗って、レジャーに出かけるボク達は軽井沢の地名のおこりなんか考えてもみないですもんね。それにしても、日本は、ついこのあいだまで貧しかったんですよね。