コラム・24
    
領土の喪失
日本、正確にはヤマト朝廷は朝鮮半島に任那(みまな)という植民地をもっておりまして、512年、大伴金村(おおとものかなむら)はこともあろうに、そのうちの4県を百済(くだら)が望むままに割譲をしてしまいました。4県といいましても、日本風にいうと4村。それも、百済の国境に近い辺鄙な寒村だったらしいですし、譲った方が、軍備費的にも経営効率がよかったとも考えられたらしいですがね。
大伴金村は武烈天皇の死後、皇位継承者がなかったのを、応神(おうじん)天皇五世孫という継体天皇を越前(えちぜん)より迎えた大功ある重臣。
ですが、540年(欽明天皇元年)欽明(きんめい)天皇の難波(なにわ)行幸に従ったとき、物部尾輿(おこし)らに先の任那4県割譲の責任を糾弾されて失脚。住吉(すみのえ)の宅に引退せざるをえなくなりました。まあ、失脚。
その後の562年には任那諸国は北隣の新興国新羅に併合されたんですがね。
任那4県割譲は大伴金村が百済(くだら)から賄賂をもらったとかの噂まで姦しかったようです。ボクも540年に生きていたら、「金村はワイロをもらった」と言いつのるだろうなぁ。領土については、合理主義を忘れての独特の感情がありますねぇ。
     
これとよく似た話にローマ皇帝ハドリアヌス(在位117〜138)の話がありますね。
ローマの五賢帝の一人で、平和的、防衛的な皇帝として有名ですね。
彼は皇帝になるや、121〜134年の13年間にかけて帝国各地の属州を巡察しました。
ええ、テレビの歴史番組では今のイギリスにある遺跡、「ハドリアヌスの長城」が出てきます。テレビに映るのは原型をとどめているカーライルのグリーンヘッドから、ソウイングシールズの間だそうですが、あれを見るかぎり「長城」なんてものではありませんねぇ。
まあ、長さはたいしたものだったらしく、もとは西のソルウェー湾から、東は北海に近いウォルゼンドまで延々118キロに及ぶものだったらしいですし、幅約8メートルの堀が造ってありますが、今に残る遺跡からすると、形ばかりの石積みですね。
まあ、さすがに、途中に築かれていた守備隊のための城塞には、ちゃんとローマ風呂があったらしいけどね。
でも、あれをみるかぎり、防壁というよりも蛮族に対し「これから先には攻めていかない」、防衛軍には「これ以上、北へ進出してはならない」との意思表示の設備のように感じました。
     
ハドリアヌス帝はルーマニアを視察して、防衛費用と獲得できるものとの赤字の大きさからして、「ルーマニアから撤退する」との議案を本国ローマの元老院に提案したそうです。
領土を失うことに元老院は反対。ローマ市民もこぞって反対でした。ええ、軍事費で四苦八苦していたのにね。ボクも、当時のローマ市民だったら、反対派にまわっていたと思うなぁ。
ボクなんか、ロシアへ旅行したことはないもんね。中央アジアのシルクロードにいっても、モスクワへは行きたくなかったもんね。ええ、北方四島をとられている恨みは忘れようもない。