イソップの宙返り・224
     
ハイエナと狐
  
ハイエナは年ごとに、その性質が変わって、雌になったり雄になったりすると言われています。このハイエナが狐と友達になりたいと思っていましたのに、許してくれませんので咎めました。
すると狐は、
「わたしにではなく、あなたの性質に文句を言ってよ。あなたを女友達にするのか、男友達にするのか、わからないもの」と言いましたとサ。
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フランスの女流小説家、思想家であるボーボアール(1908―86)は「人は女に生まれない。女になるのだ」といっています。
性は生物学的な性別と、社会が男女それぞれに期待する性役割の二つの意味を持っていますが、生物学的な方をセックスとかセクシュアリティsexuality、文化の影響を受けた男女のふるまいの差異は、セックスと区別してジェンダーgenderとよんでいます。
先に挙げたボーボアールの「女に生まれない、女になるのだ」は、ジェンダーの意味での「女」ですね。
          
この「女になるのだ」は「女にされるのだ」と読み替えることもできましょうか。
この話で有名なのはアメリカの女性文化人類学者にマーガレット・ミード(Margaret Mead)がいまして、彼女にはニューギニア社会での子供の養育と男女の役割分担を比較した「男性と女性」(1949)の労作があります。
このニューギニアでの調査は、「フィールド・ワーク(field work)」とか野外調査とかいわれる、現場での長期間住み込みによるものでして、この本の中で、ニューギニア社会では、アメリカで男性的とされるパーソナリティを女性がもち、逆にアメリカで女性的とされるパーソナリティを男性が有していた例を克明にあげています。
ええ、また、別の社会では男も女も、アメリカで男性的とされるパーソナリティを有しており、もう一つの社会では男も女も、アメリカで女性的とされるパーソナリティを有していた、言っています。
ミードは、性別による役割、性別の仕来り、性別によるパーソナリティは社会によって異っていると言っています。
そう言えば、アメリカ人の男性の典型のマッチョなんて、日本人には、ただの粗野ですもんねぇ。
       
ですから、男らしさ、女らしさは社会によって異なり、男らしさ、女らしさは「社会によってつくられる」面がありますね。
ボーボアールの言った「人は女に生まれない。女になるのだ」は、こんな意味でもあるらしい。
      
日本での男らしさ、女らしさは人類普遍のものではないことはボクらはわかっていますね。
今、日本の若い女性の理想の男性像は「優しい」だそうですね。
優しいなんて、一昔前の考え方からすると「男らしくない」になりますが、それどころか、男が主婦業をやっているのも珍しくなくなっていますもんねぇ。ええ、主夫なんて言葉までできていますね。
こんなことを考えると、男女のパーソナリティは社会によって異っているどころか、同じ社会でも、時代によって激変しています。
男らしさ、女らしさ、なんて不変のものではなく、こんな程度のものらしい。