コラム・80 万里の長城は無用の長物?
   
中国の長城のことを、ボクら年配者は、ぎょうぎょうしく「万里の長城」といまだに呼んでいます。ええ、今時は英語のGreat wallの方が通りがいいですかね。
ところが、あの長城は無用の長物の典型と考えられているらしく、テレビはことあるごとに愚かな歴史的建造物として紹介しており、事典は「外敵防御という構築の目的はほとんど達成されておらず、単に威圧感を与えた程度といってよかった」とまで言い切っています。
で、まあ、あれ本当に「無用の長物」だったのか?ですが。
一般に、自衛のための軍備でも、軍備はいつでも侵略の手段になりますから、隣国にとっては脅威。そこで、隣国も防衛のための軍備を強化します。そうすると又、お互いに脅威を感じて軍備を強化して、軍拡競争がはじまります。ええ、学術語では「恐怖の連鎖反応」といいますね。
ですが、長城は、けっして侵略の手段にはなりません。長城が「ハウルの動く城」みたいに足が生えて攻めてくるとは、隣国も考えませんから疑心暗鬼におちいらない。隣国に威圧感を与えることのない長城は「恐怖の連鎖反応」からの軍拡競争を刺激しない、すぐれた専守防衛の設備と断言できます。
       
ところが、明(みん)朝(1368〜1644)末期には、長城が無用の長物ではなく、現実に外敵防御の目的を果たしました。
北京北方にあって、いま観光資源になっている八達嶺(はったつれい)付近の「万里の長城」は、高さ8・5メートル、頂部の厚さは5・7メートルもあるんだそうですね。
明(みん)は南方から興った漢民族の王朝ですが、明はモンゴル人の王朝である元(げん)を1368年、北方の草原へ追放しました。それで、元の再来に備えるために長城を強化したのが、現在の「万里の長城」の原型だそうです。
さらに、明末に満洲に女真(じょしん)が勃興し後金(こうきん・後の国号清)を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返されました。
明は大苦戦をしましたが、「万里の長城」のおかげで、270年間も侵入を防ぐことができました。明の名将袁崇煥の活躍もあり、清(しん)は満洲との国境である長城東端の山海関をながらく抜くことができませんでした。
まあ、この結幕は清(しん)の謀略によって、明の崇禎帝が愚かにも名将袁崇煥を誅殺してしまい、その後、明は内紛により逆族李自成に滅ぼされてしまいました。ですが、清は自力では山海関を越えることができなくて、明の遺臣の呉三桂の手引きにより、やっと山海関を通って侵入をはたし、1644年に「清」の中国支配が始まったのでした。
ことほど左様に、「万里の長城」は越えることが困難な防衛の有効な設備でした。けっして、無用の長物ではありませんでしたよ。
まあ、入ってきてしまった後の「清」にとっては、無用のものになりましたがね。
     
ところで、蛇足ですが、長城を作ったのは秦の始皇帝とされていますが、今に残るあの立派な、いわゆる「万里の長城」は明代に作られたものです。
秦の始皇帝よりも、ずっと前の戦国時代(紀元前4〜3世紀)から趙(ちよう)などは北の異民族に備えるために長城を建設していました。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境線にも長城が作られていました。始皇帝は紀元前221年中國を統一した後に、国の中にあった長城は取り壊し、戦国時代の燕(えん)、趙(ちよう)などが作っていた北方の長城を繋げて大長城としました。
しかし、この時の長城は現在の物よりかなり北に位置しており、構造も土製であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったそうです。
ですから、いまの「万里の長城」は秦の始皇帝が作ったものとはとうてい言えません。念のため。