魂を貪るもの
其のニ 禍々しき雷光
3.怒涛
『Suono delle campana』で、ちとせたちが真冬の話を聞いていた頃、シルビア・スカジィルは神代神社に辿り着いていた。
妖しく輝く満月は相変わらず銀の光を放ち、石段をゆっくりと昇るシルビアを照らし出している。
鮮烈なまでに赤いツインテールと漆黒のゴシックロリータのドレスの裾を揺らしながら長い石段を昇り切り、歴史を感じさせる荘厳な鳥居を潜り抜ける。
境内の手前まで来たシルビアは、ぐるりと辺りを見回し、舌打ちした。
「シンマラの気配を感じない」
シンマラが近くにいれば、彼女には感覚的にわかるのだ。
師弟の絆とでもいうべきものか。
むろん、シルビアは絆などという言葉を認めはすまい。
だが、それは確実に存在していた。
いくら抑えてもシンマラの中で燻っている炎の残り香を、シルビアには感じることができるはずだった。
この場に、その感覚はない。
あるのは、どこまでも静かな夜。
月の光のみが、音もなく降り注いでいる。
「はんっ、違う場所に身を隠しているってワケ」
シルビアは苛立ちを隠そうともせず、忌々しげに呟いた。
ここにいないのだとしたら、シンマラはいったいどこにいる。
ラーンの言った通り、猫ヶ崎高校にはもう残っていないだろう。
しかし、この神社にも手掛かりぐらいは残っているかもしれない。
探してみる価値はある。
シルビアがそう思った時、視界に人影が現れた。
「どなたです?」
のんびりとした声で、その人影はシルビアに話しかけてきた。
女性だ。
清楚な長い黒髪に、やさしげな顔立ちをしている。
白い小袖に緋袴という巫女装束に身を包んでいるため、この神社の関係者であることはシルビアにもすぐにわかった。
――アハハッ、手掛かりの方から、アタシの前に出てきた。
シルビアは歓喜した。
「おまえが神代ちとせか?」
「あらら、私はちとせの姉の神代葵と申しますが?」
女性はおっとりとした調子でシルビアに答えた。
「へぇ……」
すうっと目を細めて、シルビアは冷酷な笑みを浮かべる。
「シンマラの行方を知っている?」
「シンマラ?」
葵は聞いたこともないというように小首を傾げた。
その自然な様子から、シルビアの目にもこの女はシンマラのことは知らないとすぐにわかった。
妹がラーンと接触したことも知らないに違いない。
だが、それでも十分に役に立つ。
シルビアはそう思った。
「なら、挨拶しておかないとね」
「挨拶?」
怪訝そうな表情で尋ねる葵。
シルビアは唇の形を邪悪に歪める。
「そうよ。アンタの妹には、これからたっぷり世話になるんでね。警告も兼ねた挨拶を残しておかないとね」
「ちとせに……?」
「ズタボロになったアンタを見れば、アンタの妹もアタシの恐ろしさが良くわかるってモンでしょ」
シルビアの全身で抑えきれぬ邪気を伴った雷撃が弾けた。
特異能力者の、しかも、どう考えても好意的ではない相手の反応に葵が身を固くし、自分に向けられた害意への推測を口にする。
「まさか、あなたは『ヴィーグリーズ』の!?」
「察しがイイじゃない。そう、アタシは『ヴィーグリーズ』の幹部、シルビア・スカジィル」
優雅に一礼し、シルビアは腰の剣を抜き、切っ先を葵へと向ける。
シルビアの剣は、フランベルジュと呼ばれる刀身がギザギザになった凶悪な細身の西洋剣だ。
この凶悪な刃によって肉を抉り、突き刺して引き抜く時には肉を削ぎ落とす。
死よりも酷い苦痛を与えるともいわれる恐るべき凶器。
剣が銃にとって代わられた後も、儀式用の剣として使用されている。
「我が剣術の前に踊り狂うがイイ!」
一声叫び、シルビアが葵へ向かって剣を振るう。
とてつもなく速い。
まさに神速の一撃とも言うべき刃が、風を切り裂き、葵へと迫る。
「くっ!」
葵は慌てて、両手を目の前に突き出した。
無論、素手で受け止めようというのではない。
一瞬にして、葵の両手のひらに霊気が収束する。
そして、淡い輝きを放つ壁のようなものが出現し、シルビアの剣を受け止めた。
「防御結界術!」
予想外の抵抗に、シルビアが感嘆の声を上げる。
「しかも、これほど強力なモノを、何の呪具も使わずに素手で瞬時に張れるとはね!」
剣に力を込めるが、葵の結界の盾にはまったく通用しない。
刀身と結界の接触部分で行き場を失った力が火花となって弾けるだけだ。
「だけど、戦闘力自体はたいしたことはナイと見たぜ!」
「くぅっ!」
葵は元々、浄化や治癒、結界といった精神的な要素の強い『術』には長けているものの、肉体を使った戦闘行為は得意ではない。
神代神社の巫女として多少の武術の心得はあったが、それは護身術程度のものに過ぎなかった。
実際、結界で攻撃を受け止めながらも、葵にはシルビアに反撃する余裕はない。
それは即ち、猛攻をかけてくるシルビアに対して、葵には防御を固めるしか手段がないということだった。
加えて、この結界がもたらしている均衡状態も長続きはしないことを、葵は知っていた。
結界術は、精神力も霊気も多大に消耗する。
そのため、本来は術者への負担を減らすため、神具や祭器を使う。
だからこそ、素手で強力な結界を張った葵へシルビアは感嘆の声を上げたのだ。
「それに呪具なしの結界術は、術の補助が得られぬ分、身体への負担は大きいはず」
シルビアは冷静に葵の戦力を分析していた。
その表情には余裕がある。
「はたして生身でドコまで保てるかナ?」
ツインテールが揺られる度に、シルビアの剣筋が閃めき、結界を打ち据える。
シルビアはただ、葵の結界を形成する力が尽きるまで攻撃し続ければ良いのだ。
結界が消えた時、葵の抵抗する術も消える。
その時に至れば、葵は精神力も霊気も失い、すべてシルビアの為すがままだ。
葵は必死に精神力を奮い起こし、シルビアの怒涛の攻撃を防ぎ続けるしかなかった。
じりりりっ……、じりりりっ……。
時代遅れの黒い電話機が神代家の居間で鳴っていた。
留守番機能などという便利な物はついていないので、取るべき人間のいない今、けたたましく鳴り続ける。
外では葵とシルビアの戦いが続いているが、家にまでは影響を及ぼしていない。
電話を掛けているのは、ちとせだった。
真冬の話を一通り聞き終わり、家で待っているはずの葵へ連絡を入れておこうと、携帯電話から家に電話を掛けていることにしたのだ。
「おっかしいなぁ」
ちとせが怪訝そうな表情で眉を寄せる。
「この時間に姉さんが外に出歩くとは思えないんだけど。携帯にも出ないし」
携帯電話にも葵は出ない。
正確には出ることができないのだが、それをちとせたちが知る由もない。
真冬が襲撃された直後だけに、不安が頭を過ぎる。
「ちとせ、帰ろう。葵さんの身に何かあったのかもしれない」
悠樹が言う。
ちとせが心配そうに真冬を見る。
「でも、センセが……」
連絡の取れない姉も心配だが、傷を負っている真冬のことも放ってはおけない。
真冬は教え子を安心させるように微笑んだ。
「私のことは気にしないで」
「あたしに任せときな。何が来ても追い返してやるさ」
鈴音も力強く言う。
確かに鈴音に任せておけば、よほどのことがない限り、真冬の身に心配はないだろう。
万が一にも敵が攻めてきても鈴音なら防ぎきれるだろうし、真冬の傷が悪化したとしても相応の対処をしてくれるだろう。
そもそも、ちとせは鈴音を頼るために真冬を連れてきたのであるが、さすがに無闇に放り出して行くわけにはいかないという想いがあった。
「ちとせ、帰ろう。ここにいてもできることは限られているし、葵さんのことも気にかかるしね」
悠樹の言葉で、ちとせは神社に戻ることに決めた。
「そだね、何だか嫌な予感がするし……」
奇妙な悪寒が背筋を撫で上げているのだ。
ちとせも神職の血を引いているだけに、勘が良い。
「んじゃ、お言葉に甘えて、ボクと悠樹は神社に戻るよ。様子を見て連絡を入れるから」
ちとせは、そそくさと席を立った。
「悠樹!」
鈴音が、ちとせの後から部屋を出ようとしていた悠樹を呼び止める。
「何ですか、鈴音さん?」
「ほらよ」
鈴音が放り投げた銀色に光る物を、悠樹がパシッと手のひらで受け取る。
鍵だ。
「あたしのバイクの鍵だ。ちとせも乗せてけよ」
「すみません」
頭を下げる悠樹に、鈴音はにやりと笑った。
「ちゃんとメットはかぶれよ?」
「わかってますよ」
柔らかに微笑み返して、悠樹が部屋を出て行った。
教え子の後ろ姿を見送り、真冬が意外そうな表情を浮かべて鈴音に顔を向ける。
「すみません、いろいろと。それにしても、悠樹くん、バイクの免許持ってたのか」
「あれ?」
真冬の言葉を聞いて、鈴音はひどく間の抜けた声を上げた。
次いで、固まった。
「えっ?」
さらに、その鈴音の様子を見た真冬も連鎖的に硬直した。
微妙な雰囲気を持った沈黙が二人の間を流れる。
そういえば。
と、二人は顔を見合わせながら同時に思った。
鈴音と真冬の記憶では、悠樹がバイクに乗っている姿を見たことはない。
神代神社にもバイクが置いてある気配はなかった。
悠樹は高校二年生、十七歳である。
自動車の運転免許の取得資格は十八歳からであるから、当然持っていない。
それに、悠樹一人だけではなく、ちとせも一緒に行くわけだから、二人乗りである。
原付免許ではなく、普通自動二輪の運転免許が必要になる。
「ま、まあ、大丈夫だろ。普通に受け取ってたし……」
無免許運転をするほど、無謀な少年ではない。
何より、ちとせを無用な危険には巻き込まないだろう。
そう理由付けて、鈴音と真冬は無理矢理自分を納得させた。
「うくぅっ!」
ついに結界の負荷に耐えられなくなったのか、葵の両腕の血管が弾け、血霧が舞った。
結界の盾が放つ光も徐々に弱弱しくなり始めている。
葵の身体が壊れるのが先か、結界が消えるのが先か。
どちらにしても、このままでは葵を待っているのは絶望的な結果だけだ。
シルビアはフランベルジュの切っ先をくるりと回して、葵の血が舞う夜風を斬った。
「アハハッ、そろそろ限界みたいねェ」
甲高く笑うシルビア。
透明感のある声なだけに、悪意が込められていると相手の神経を抉る。
それに唇を歪めて笑う姿も、十代半ばの幼さの残る顔だけに、一層残酷に感じられる。
疲労困憊の葵の心身にも凶悪な嘲笑として響き渡り、肉体的にも精神的にも追い詰められているのを実感せざるを得ない。
実際、血が吹き出した両腕が千切れそうなほどに痛い。
それに、呼吸も苦しい。
目も霞んでいる。
シルビアが己の胸の前で剣を水平に掲げた。
バチバチと音を立てて、電光がフランベルジュの凶悪な刃を取り巻く。
「打ち砕くッ!」
シルビアの雄叫びに風が唸った。
閃く雷光。
まさに、電光石火という形容が相応しい鋭い斬撃が走る。
「!」
葵が必死の形相で、結界に全霊気を注ぎ込む。
しかし、シルビアの放った一撃は今までより遥かに威力が高かった。
結界に亀裂が生じ、雷撃が結界中を駆け巡る。
一切容赦のない圧倒的な圧力に全身を襲われ、ついに葵の身体がよろめいた。
明滅する意識を呼び戻した時にはすでに遅かった。
「しまっ……!」
弱まった結界は、シルビアの剣圧により簡単に破壊された。
結界を形成していた霊気が砕け、粒子の粉となって空中に拡散する。
同時に、シルビアのフランベルジュの刃が、葵の左肩に突き刺さった。
「きゃあああっ!」
ギザギザに波打つ凶悪な刃に左肩を斬り裂かれ、さらに剣に纏わり付いていた高圧電流がその傷口へ流される。
体験したことのない凄まじい激痛。
葵の頭の中は真っ白になった。
左肩の傷を抑え、両膝をついた。
だが、シルビアの攻撃の手を緩めない。
膝立ちになった葵の顎を蹴り上げる。
「あうっ!」
地面を転がる葵の戦意は明らかに消沈していた。
清潔感のあった白色の小袖は、出血で紅に染まっている。
仰向けになって倒れている葵に近づき、シルビアが剣を掲げた。
このまま、心臓に刃を突き刺せば、簡単に殺せる。
だが、シルビアは、そうしなかった。
なぜならば、葵を殺すのが目的ではないからだ。
「フン」
シルビアは剣の代わりに、ゴシックドレスの裾を翻してブーツを葵の腹へ踏み落とした。
「がっ!」
腹を踏みつけられ、内臓を圧迫される鈍痛に苦悶の表情を浮かべる葵。
自分を踏みつけているブーツを両手で掴んで退けようとするが、小柄なはずのシルビアの脚はビクともしない。
シルビアは小柄で体重も軽いが、『ヴィーグリーズ』の幹部として戦いの一線を張ってきた雷神だ。
己の肉体の使い方を知っており、相手を押さえつけるコツも心得ている。
重心のかけ方一つにも熟知していた。
それだけに、踏みつけられている葵も、簡単にシルビアを撥ね退けることなどできない。
苦痛に身悶えるのが精一杯だった。
「くっ、あっ!」
「でけぇ胸揺らして、ヨガってンじゃねェぜ!」
卑猥な罵倒で葵の抵抗を嘲笑い、シルビアがさらに強く踏みつける。
「がはっ!」
深々とシルビアのブーツが腹に埋まり、葵の口から血の混じった息が漏れた。
シルビアは冷笑を浮べて、穿たれた腹を両手で押さえて苦しんでいる葵の首を掴み上げる。
そして、無理矢理引き起こした葵の首を締め上げ始めた。
葵にはすでに反撃する力は残っていない。
シルビアは葵の喉が軋むほどに、頚動脈を締め上げる。
「くっ、うっ……、あっ……」
葵は遠退きそうになる意識を繋ぎ止めておくことだけで精一杯だった。
目の前が真っ暗になり、思考が止まる。
シルビアの手を外そうとしていた両腕からも力が抜けた。
ぐったりとなった葵を見て、シルビアが首を締め上げていた手を離した。
葵の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
だが、シルビアは葵がそのまま倒れることを許さなかった。
「イクには早いぜ!」
シルビアの強烈な蹴りが、崩れかけている葵の腹部に突き刺さった。
散々踏みつけられた腹へ、再び刻み込まれた打撃に、葵の目が大きく見開かれる。
「かっ、はっ!」
口から血の糸を引きながら吹き飛ばされた葵は、鳥居の柱に背中から叩きつけられる。
全身が砕けてしまいそうな衝撃。
前のめりに崩れ落ち、うつ伏せに地面へと転がる。
「がはっ、ごほっ、ごほっ、……ううぅっ、はぁ……、はぁ……」
苦しげに咳き込みながら吐き出した血の欠片が、地面に点々と赤い染みを作る。
両手を地面について苦しむ葵には、すでに立ち上がる力は残っていないようだ。
だが、シルビアの攻めの手は緩められない。
今度は背中を目掛けて、シルビアのブーツが振り下ろされた。
「アッハハハ、まだよ、まだまだ!」
「あうっ!」
背中を踏みにじられ、葵が苦悶の表情で呻く。
夜風を切り裂き、疾走していたバイクが、神代神社の石段の前に止まる。
運転しているのは悠樹だ。
その後ろには、もちろんちとせが座っている。
悠樹がエンジンを切ると、ちとせは素早くヘルメットを外して座席から身軽に飛び降りた。
鋭い視線で遥かな石段の上を見上げる。
境内から夜空へ向かって雷光のような邪気が迸っている。
嫌な予感がする。
一気に石段を駆け上がる。
悠樹もバイクからキーを抜き、すぐさまその後ろに続いた。
彼にも邪気は感じられたが、ちとせのように動揺を表には出さない。
二人で慌てては、事を誤る。
だからといって、葵のことが気がかりではないわけでも、焦っていないわけでもない。
それらの感情と同量の冷静な理性が頭の中を支配しているのだ。
悠樹はそういう思考回路を持っている。
ふと、その悠樹の目の前でちとせの動きが止まった。
石段の頂上で視界に捉えた光景に、ちとせは愕然としていた。
「ね、姉さん!」
パンキッシュな真っ赤な髪をした少女に痛めつけられている姉。
それを理解すると同時に、頭に血が上った。
敬愛する姉への暴力行為を見せられて、冷静になれというのは無理な話だ。
血が怒りで燃え上がるのを全身で感じ、瞬間的に、シルビアに向かって駆け出していた。
悠樹が止める間もない。
それだけに、速いといえば、この上なく速いといえた。
しかし、直線的過ぎる。
シルビアにとって反撃が容易な突撃だった。
真正面から突っ込んでくる少女を視界に捉え、シルビアが嘲弄を秘めた半眼で見下す。
そして、その唇が残酷な笑みの形に歪む。
葵の血に濡れたフランベルジュの刀身が、月の光を受けて紅に輝いた。