魂を貪るもの前日譚
鬼神に横道なし
鈴音は深く吸った息を吐いた後、両眼をカッと見開いた。
閃光が走る。
目の前を舞い落ちる木の葉に十字の切れ目が入り、四つの欠片となった。
「すごい」
傍らからの声に、鈴音が振り向く。
そこには敬愛する姉の姿があった。
鈴音は手に刀状に収束した霊気を消した。
「すごくなんか、ねえよ。親父だったら、八分割さ」
「それを言ったら、私は刀の持ち方だって霊気の扱い方だって知らないわ」
「まあ、それはそうだけど」
鈴音は前髪をかきあげた。
おしとやかで美しく、そして、病弱な姉に、武器や武術ほど似合わないものはない。
姉は和装に身を包んでいた。
烏の羽よりもさらに黒い髪と、信じられないほどに白い肌、明るい緑を基調にした小袖の着物が、絶妙なコントラストを生み出している。
対して、鈴音は白い胴衣に紫色の袴姿だ。
その髪は長く伸ばされ、結われてもいない。
武術を嗜むには邪魔にも思えるが、昔、姉が「鈴音も髪の毛くらいは女性らしくした方が良い」と言ったのをきっかけに伸ばしているのだ。
師である父も容認していたが、当の姉は覚えていないかもしれない。
「はい、鈴音。差し入れ」
姉が差し出したのは、三角形のおにぎりだった。
鈴音はおにぎりを受け取り、さっそく頬張る。
具は焼き鮭のようだ。
白米と塩と鮭の味が口の中に広がる。
「んまいなぁ」
「ありがとう。私が作ったのよ」
姉がうれしそうに微笑む。
鈴音は二つ目のおにぎりもすぐに平らげた。
「親父も、もったいないね。姉貴がせっかくお昼を作ってくれた日に不在とは」
「お父さまはお忙しいから」
「あたしがもっと独力で退魔の仕事が受けられる力をつければ、少しは団欒の時間もできるさ。まあ、もしかしたら、あたしの修行の時間が増えるだけかもしれないけどよ」
「鈴音」
「ん?」
「……ごめんね」
「姉貴?」
「私は武術とか怖くて……」
「姉貴、武術は命を壊す術さ。
「鈴音。私ね、お父さまに訊いたことがあるの。武術は人を傷つけ、自分を傷つけるのではないかって」
「……姉貴」
鈴音は驚いた。
姉が父にそんな質問をしていたなんて、想像もしていなかったからだ。
もしかしたら、姉は、修行三昧の自分の将来のことを心配して、父に訊いてくれたのかもしれない。
「その時、お父さまは言っていたわ。大切な誰かを救うためには、どうしても何かを傷つけなければいけない時があるって。その時に、手を下すのが自分であるために自身を研鑽しているのだって」
「まっ、あたしはさ。そんな立派なことは言えないけど、あたしが強くなって誰かを救うことができるなら悪い気はしないよ。ヒーローみたいじゃん」
鈴音はことさらに軽く答えたが、姉は深く頷いて微笑んだ。
「鈴音はやさしいのね」
「あ、姉貴がやさしいから、あたしだってやさしくいたいんだよ」
面と向かってやさしいなどと言われ、鈴音は狼狽を隠せなかった。
頬を微かに赤く染めて、そっぽを向く。
「それに、やさしさも何かを守るためには必要だよ」
「ふふっ、お父さまと同じことを言うのね」
「へっ?」
鈴音が視線を戻すと、姉は微笑んだままだった。
「やさしさを無くしてしまったら、いくら強くなっても何も救えないって」
「おうよ、あたしが目指してるのは鬼のような武術の達人じゃなくて、ヒーローだからね。ヒーローは心に愛がないといけないのさ」
――首にかけた銀のロケットペンダントが、月光を反射して、きらりと光った。
そのペンダントを無意識にいじっていたことに気づき、鈴音は、人恋しいのかもしれないと苦笑した。
ふと、空を見上げる。
青白い満月が浮かんでいた。
「親父、母さん……」
脳裏に浮かぶ両親の顔。
姉の顔。
姉の最愛の男性の顔。
そして、再会した姉の変わり果てた姿。
敬愛していた姉は、噂通りの、『凍てついた炎』のような、『死』そのもののような女になっていた。
あのやさしかった姉が、武術のいろはも知らなかった姉が、退魔師狩りとして人の命を奪うことに躊躇いさえ覚えないような人間になってしまった。
織田家の後継者として育てられてきた鈴音には、その暴挙を許すことができなかった。
「霧刃……、あの人は、おまえの今の姿を決して望んじゃいないぜ」
呟き、行きかうものの姿のない静謐の道を行く。
左手にかなり段数のある石段が見える。
どうやら、上には大きな神社があるらしい。
と、鈴音は、その石段の手前で足を止めた。
猛々しい妖気を感じたからだ。
気がつけば、目の前の道を塞ぐように、巨体の異形が佇んでいた。
「鬼か」
舌打ちしながら、鈴音は前髪をかきあげた。
目の前の異形は、まさしく、『鬼』だった。
鈴音の三倍はあるだろう赤銅色の肉体を持ち、銀色の蓬髪をした鬼。
その腕も脚もまるで丸太のようで、首も太く、胸板も厚い。
人間では身につけることができないだろう程の信じられない筋肉の量だ。
下半身に穿いた袴は乾いた返り血で薄汚れ、顔には憤怒相の仮面を被っていた。
額から生える捻じれた二本の角は、生身のものか仮面の装飾か判別できないが、凶悪なものであることは確かだった。
「我が名は酒呑童子。退魔師の霊気を搾り取り、酒に換え、呑み干すものだ」
「あたしを呑みに来たか」
「いかにも」
「まさか、無銭飲食できるとは思ってないだろうな?」
「くははっ、気の強き女よな。もともと女は子を産む秘術を使うゆえ、霊力の器は男に勝るものが多い。しかし、立て続けに女が獲物だとは思わなんだが、どうやらまた楽しめそうだ」
酒呑童子が仮面の奥からくぐもった嗤い声を発しながら、その肉体から密度の濃い妖気を立ち昇らせる。
巨体を形作る筋肉が、さらに膨張し、熱風が吹き込んでくる。
鈴音の長い髪と、着ているライダージャケットの裾がはためいた。
「デカブツめ、あたしと
鈴音は先手を取った。
長い髪をなびかせ、疾駆する。
酒呑童子が迎え撃つように巨腕を振り下ろすが、鈴音は紙一重でそれを避けるように跳躍した。
鈴音のレザーパンツに包まれた長い脚が円の軌道を描く。
酒呑童子の仮面を打ち抜く、美しいまでの跳び廻し蹴り。
だが、鬼は怯まなかった。
打たれた状態から無理矢理に、太い腕を唸らせた。
だがその丸太のような腕の軌道が上へと向かわされる。
紙一重で酒呑童子の打撃を避けた鈴音が左肩でかちあげたのだ。
鈴音の細い腕が酒呑童子の腕に絡むように振り上げられる。
狙いは、顎。
さらに、絡みついた腕が、酒呑童子の腕関節を破壊しようとしている。
咄嗟に酒呑童子は後退した。
鈴音の打撃が顎を掠める。
間一髪。
酒呑童子はしかし、後退したのは一瞬。
裏拳を放つ。
だが、途端、酒呑童子の膝が、力の抜けたように折れた。
鈴音の指が、繰り出された酒呑童子の剛腕の手首に絡みつき、重心を崩していた。
酒呑童子が驚きの呻き声を上げた時には、すでに鬼の巨体は空中に舞っていた。
「天武夢幻流・組討・
地震のような衝撃とともに、酒呑童子の巨体が受け身も取れずに背中から地面に叩きつけられる。
しかし、鈴音は地面に転がった酒呑童子へ追撃を放たずに、その場を飛び退いた。
ブゥンという風の唸り声を残しながら、酒呑童子の腕が鈴音のいた場所を通過していった。
「タフだな」
鈴音が呟くように言う。
酒呑童子はゆっくりと起き上がった。
「うぬもまた柔の技を使うか。面白しッ!」
背中からまともに地面に叩きつけられたというのに、酒呑童子はたいしてダメージを受けていないようだった。
鈴音が舌打ちして、前髪をかき上げる。
酒呑童子が力強く一歩を踏み出し、再び剛腕を振るう。
「怪力野郎が殴るしか能がないのか」
鈴音の手が鬼の腕を絡み取った。
旋風が巻き起こり、酒呑童子の巨体が再び宙を舞った。
先程の投げ技とは違うフォーム。
鈴音の繰り出した投げは、彼女が継承している退魔武術・天武夢幻流の組討技の一つ、
標的の突進力を利用して、相手を脳天から地面に叩きつける投げ技だった。
だが、その次の瞬間、鈴音の予想しなかったことが起こった。
鬼が空中で身を捻ったのだ。
鈴音の身体が思いも掛けない方向へと引っ張られる。
酒呑童子は見事に空中で反転して地面に着地し、逆に鈴音の身体は自由を失って宙に投げ出されていた。
そして、そのまま頭頂部から地面へと叩きつけられる。
頭蓋骨が軋み、鈴音の頭から流れ出た真っ赤な血がみるみる大地に広がっていく。
酒呑童子は地面に転がる鈴音を見下ろしながら、己の繰り出した技の威力を実感できかねるように鬼面を傾けた。
「柔の技とはこういうものか。我が剛拳には似合わぬ技巧だが、覚えておくのも一興か」
大の字に倒れたまま、鈴音は衝撃によって虚ろになった視線を宙にさまよわせていた。
「バカな、初見で、返し技を……?」
鈴音は剣術系に比べて体術系の技は得意ではなかったが、今の行幸比良坂は簡単に、まして、初見で返し技を受けるような甘い掛りではなかった。
完璧なタイミング。
完璧な重心の崩し。
そして、完璧な投げのフォームだった。
決まらないはずがない技が決まらず、あまつさえ、返し技を受けた精神的ショックは、鈴音の肉体へのダメージと疲弊を増加させていた。
「女よ、うぬの使う技は美しいまでに完璧だったが、反撃はないと油断したのが運の尽きよ。うぬのその油断と我にとって初見ではなかったことが、我にうぬを地に倒れさせたのだ」
「……な、にっ?」
鈴音が、掠れた声で呟く。
鬼は、鈴音の技を初見ではないと言った。
もちろん、鈴音は酒呑童子と戦うのはこれが初めてだった。
――ならば、親父と戦った?
いや、親父からそんな話は聞いたことがなかった。
それならば、鬼がなぜ、魔を駆逐するための退魔武術・天武夢幻流の技を。
「うぬはあの女に似ているな。血縁の者か」
あの女?
あの女、だって!
虚ろだった鈴音の目に光が戻る。
天武夢幻流を伝える織田家は鈴音と姉を除いて、闇の一勢力に惨殺された。
そう、今現在、天武夢幻流を使う女は、自分以外ではただ一人。
鈴音が追い続けるただ一人の肉親。
「あ、あね……、霧刃を知っているのか」
「名は知らぬ。……が、すべてを凍らせるような冷たい目と、すべてを焼き尽くすような殺気の持ち主ならば知っている」
鈴音は両目を見開き、地面へと爪を立てた。
脳天を強打したダメージのせいで、身体が痙攣している。
それでも。
ぐぐっと、地面をかきむしり、立ち上がるための力を全身に込める。
自分自身に言い聞かせる。
立て、鈴音。
立て、立て、立て。
この鬼は、霧刃の。
霧刃のことを知っている。
なら、こんなふうに寝ていられるか。
霧刃の手掛かりが目の前にいるんだぞ。
鈴音は立ち上がった。
全身が頭から流れ出た真紅の液体に濡れ、無理をしているためか内股気味になった両脚はがくがくと震えている。
それでも、血で赤く染まった長い髪の奥で、眼光は鋭く、酒呑童子を射抜いている。
「立ち上がるか」
酒呑童子は鬼面の奥で両眼を光らせた。
「おまえが霧刃を知ってるってんなら、寝てるわけにはいかないのさ」
「あの女のことを知りたいか。我に勝てれば語ってやってもよかろう。もっとも、もはや、その身体では満足に戦えまい」
「満足な状態でなきゃ、戦えないとでも思ってるのかい?」
鈴音は、退魔武術・天武夢幻流の継承者として、身を挺して、闇から人々を守り続けてきた。
必ずしも満足な状態で戦えてきたわけではない。
連戦に連戦を続け疲弊した身体に鞭打って戦い続けたことも、狡猾な罠に嵌められ進退窮まった状態で戦ったことも一度や二度ではない。
闇の勢力に敗北し、拷問や凌辱といった地獄の責め苦を受け、瀕死の重傷から反撃に転じたこともある。
万全ではないとはいえ、この程度のダメージで根を上げるには早過ぎる。
何よりも、霧刃の情報を知っている相手を前にして、指を銜えているわけにはいかない。
鈴音は顔を
気分を害したわけではない。
前髪をかき上げようとして、ぐっしょりと手に血が滲んだのが気持ち悪かったのだ。
ひどく出血するほどに頭部を負傷したが、意識ははっきりとしている。
あとは身体が上手く動いてくれさえすれば良い。
鈴音は気合いの声を上げ、右手に霊気を収束して光り輝く刀を作り出した。
霊気を凝縮し、殺傷力を視覚化した武器だ。
「鬼、人間をなめるなよ!」
短く叫び、鈴音は酒呑童子に躍りかかった。
真っ向からの突き。
酒呑童子は簡単にそれを避け、鈴音の後ろに回り込み、拳を振るった。
瞬間、鈴音は霊気の刀を消し、トンボを切って拳を放つ鬼を飛び越えた。
突きは囮だと理解した酒呑童子が振り返る。
その時には鈴音は体勢を低くしていた。
「天武夢幻流・組討・
鈴音の両手が、酒呑童子の両脇の下へと吸い込まれるように伸びる。
そして、手のひらに凝縮した霊気を突き上げるように打ち込む。
人体急所で言えば、脇陰。
たとえ相手が物の怪であっても、両腕の付け根から霊気を流し込み、動きを止める組討技。
肉体に浸透した霊気により、酒呑童子の動きが止まった。
その無防備になった胸板に、鈴音の双掌が叩き込まれる。
酒呑童子の小山のような巨体が、霊気の爆発によって吹き飛ばされた。
「凄まじき技巧ッ! 幾万の夜を生きし我が心を躍らせるか、小娘ッ!」
酒呑童子は舌を巻いた。
重傷を負いながらもそれを感じさせない鈴音のアクロバティックな動き、そして緻密に霊気を操る技量に。
先の女は重さを感じさせぬ幽玄の動きをしていたが、この女の生命力溢れる躍動感も素晴らしい。
これほどの使い手は、平安の闇夜にもいなかった。
「テメーみたいに何百年も生きられはしないが、人間には何代にも渡る積み重ねってもんがあるんだぜ」
鈴音は酒呑童子を睨みつけながら言った。
天武夢幻流は開祖以来の修練の蓄積によって無敵の退魔武術となったものだ。
闇から人々を守り続けた
それは今は亡き父とともに、幼い頃から途方もない時間を修業に費やしてきた鈴音にとって誇りだった。
受け継がれてきた退魔武術の力と、その継承者という誇りと使命感が、鈴音を幾度となく闇との戦いにおいて経験した危機から立ち上がらせてきたのだ。
だが、鈴音の言葉を受けた酒呑童子は、今度は感嘆では応じなかった。
「……ならば、あの女はやはり人ではなく、鬼か。あの女は使う技こそ、うぬと同じだが、存在そのものが、うぬがのたまう技の基たる何世代もの練磨を超えていたぞ」
鈴音の血に濡れているはずの長い髪がざわっと逆立った。
次の瞬間、自分でも信じられないほどの激情が鈴音を叫ばせていた。
「……霧刃は、……姉貴は鬼じゃない。鬼になんて成らせない!」
「そうか、あの女は、うぬの姉か」
思わず「姉」と口走ったことを指摘され、鈴音がはっとしたような表情を見せ、唇を噛む。
霧刃が人の道を踏み外したと知った時から、霧刃は「姉ではない」と自分に言い聞かせてきた。
しかし、それは、本心であるはずがなかった。
姉を許せない。
だが、姉を止めたい。
姉を憎んでいる。
だが、姉を愛している。
姉が鬼に変わることなど、闇に堕ちることなど、望んでいない。
望むはずがない。
それでも、ずっと意識して呼び捨てにしてきた霧刃を「姉」と口走ってしまったことを指摘されたことは、酒呑童子が霧刃の情報を知っているという事実によってすでに焦燥に駆られていた鈴音の心を散々に乱し始めた。
否定と、肯定と、焦燥が渦巻き、集中力を奪っていく。
鈴音は、戦士として自分が致命的な状態に陥りつつあることに気づき、軽く頭を振った。
目の前の鬼を倒す。
そのことに集中しようとしたが、頭には霧刃のことばかりが浮かんでくる。
酒呑童子は、鈴音の心の乱れを見逃してくれるほど甘い相手ではなかった。
大地が振動した。
ハッとした時には、酒呑童子の巨体が砲弾となって距離を縮めていた。
「先の油断、そして、今の乱れ!」
夜の大気を恫喝する音ともに瘴気を纏った鬼の重いボディブロウが、鈴音の鳩尾に深々と埋まった。
「ぐっ、はっぁ……ッ!」
両眼を大きく見開いた鈴音の唇から、血の混じった空気が吐き出される。
痛恨の一撃によって、くの字に折れた鈴音の腹に、もう一撃が加えられる。
「……がはっ!」
さらに、顎へ、酒呑童子の突き上げるような拳が炸裂した。
ぐらりと揺れる鈴音の胸へ、鬼の渾身の一撃が打ち込まれる。
胸骨の砕ける音を残して衝撃に吹き飛ばされた鈴音が地面を転がった。
「華々しき戦才、抜き身の日本刀が如き鋭き霊気あれど、惜しむらくは、精神が明鏡の域に至らざることよ」
酒呑童子が血に濡れた拳を握り締める。
濛々と立ち込める砂煙の中、地面にうつ伏せに倒れていた鈴音がゆっくりと立ち上がる。
ゆらりとした動きに、今までの力強さは感じられなかった。
立ち上がりはしたものの、明らかに消耗しており、瀕死にも近い状態であることは、酒呑童子にも容易に見て取れた。
鈴音は無言のまま、両手を正眼に構えるように前へと突き出す。
その手に握るように霊気の刀が形成される。
弱弱しく明滅する刀身が、鈴音の受けたダメージによる霊力の低下を暗に示していた。
「はあッ……はあッ……はあッ……」
項垂れている鈴音の顔の上半分を髪がばさりと覆い隠している。
荒い呼吸を繰り返す唇の端から、血が流れ落ちる。
「尚立つか。その闘志は称賛に値するな。だが、これ以上苦しませるのは性に合わん」
酒呑童子は、鬼だ。
鬼に慈悲の感情はない。
だが、彼の矜持は獲物を必要以上に痛めつけることを好まなかった。
酒呑童子が重厚な足取りで鈴音へと近づいていく。
鈴音は霊気刀を構えたまま、微動だにしない。
間合いを詰めた酒呑童子が、瘴気の奔流とともに丸太のような腕で殴りつけてくる。
鈴音が緩慢な動きで、しかし、どうにか、その腕を避ける。
次いで、鬼の剛脚が大気を震撼させる勢いで鈴音の顎を狙って飛来する。
それを弱弱しい光を放つ霊気刀で受け流す。
明らかに、酒呑童子の攻撃に対する鈴音の動きは変わっていた。
良くなったのではない。
悪くなっていた。
目を見張るような機敏さが失われ、後手後手に、ぎりぎりで酒呑童子の拳脚を防いでいく。
体力の限界、霊気の枯渇。
酒呑童子は鈴音に次々と攻撃を加えながら、初めそう思った。
だが。
大きく体勢を崩した鈴音へ振り下ろした拳を、霊気刀で受け止められた時に、酒呑童子は真実を知り、驚愕のために鬼面の奥で両目を大きく見開かざるを得なかった。
「この女……意識が……」
下りた前髪の隙間から見える鈴音の両眼の瞳には意志の光がなかった。
先の猛攻を受けて地面に転がった時には、すでに鈴音の意識は刈り取られていたのだ。
その後、無意識のまま立ち上がり、酒呑童子と戦い続けていたのだ。
誇りか。
本能か。
闘志か。
姉の手掛かりへの執念か。
それとも、それらすべてか。
「とんでもない女だが、哀れでもある。ひと思いに殺して、魂を酒に漬け込み、その無念を飲み干してやろう」
酒呑童子が、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
どっしりと腰を落とし、拳を引き絞る。
まるで仁王の塑像の如き、圧倒的な迫力を持った構え。
一撃で心臓を打ち抜く。
それが、酒呑童子の思惑。
酒呑童子の全身から放たれる威圧感に感応したのだろうか、気がつけば、未だに失神したままの鈴音が霊気刀を肩に背負うように構え、腰を沈め、両脚にバネが溜めていた。
「来るか、闘神の妹よ」
酒呑童子の声が、夜の風に流れる。
ぽたり。
水滴の音。
血の滴る音か、それとも汗の落ちた音か。
それが合図となった。
ドンッという力強い踏み込みとともに、鈴音が弾丸よりも速い速度で酒呑童子に迫る。
神速の、突き。
酒呑童子は鬼面の奥で両目を大きく見開いた。
筋肉が蠕動する。
肉体を捻る。
踏みしめた脚から、腰、胸、肩、そして、腕へ、力を伝えていく。
放たれたのは、酒呑童子の最速にして最強の拳。
血飛沫が舞う。
酒呑童子の拳は、鈴音の左肩の骨肉を粉砕していた。
狙いが反れたのではない。
鈴音が、交差の瞬間に、あの一瞬に、光の速ささえ超えるであろう鬼の拳を、避けてみせたのだ。
しかも、同時に、鈴音の霊気刀は、酒呑童子の厚い胸板を貫いていた。
ごふりっと、酒呑童子が瘴気の混じったどす黒い血を吐いた。
「……やり、おるわ」
酒呑童子は自分の実体を形成する『核』――人間でいえば心臓――を、完全に破壊されたことを感じていた。
まさか、無意識の相手に敗れるとは。
いや、意識の枷が外れたことで、潜在能力が解放されたのか。
何にしろ、負けた。
酒呑童子は、それを認めていた。
だが、口惜しいことがある。
「残念だが、おまえの姉のこと、語ってやれる時間はないようだ」
この女は、まだまだ強くなる。
姉に対する迷いを払拭し、視野を広げれば、強さが跳ね上がるはずだ。
少しでも語ってやれれば、その手助けにはなっただろう。
――だが、それは叶わぬようだ。
酒呑童子の鬼面の奥で光っていた紅の双眸の光が消える。
同時に、肉体を維持する力が失われ、塑像が崩れるように、酒呑童子の巨体が形を失っていく。
「……ち、くしょう」
鈴音は唇を噛んだ。
いつの間にか、鈴音の目に光が戻っていた。
手に残る手応えから、一瞬で、鈴音は何が起こったのかを理解していた。
勝ったのだ。
だが、『核』を破壊された酒呑童子の肉体の崩壊は急速だった。
もう肉体の半分が崩れ去っており、闇へと還っている。
やがて、肉体を完全に失い、空中に浮いていた鬼面が、地面へと落ちた。
それもまた、パキリと二つに割れた後、粉々に砕けた。
酒呑童子は、手加減できる相手ではなかった。
全力で戦わねば、殺されていたのは鈴音の方だっただろう。
だが、鈴音は自分で、霧刃の手がかりである鬼を屠ってしまった。
意識を失うきっかけになったのは、霧刃への強過ぎる想い。
それを指摘されただけで、平常心を保てなかった
鈴音も自分が精神面の修練が足りていないことは自覚していた。
生れ持った霊力の器と、幼い頃からの修行で、鈴音は肉体的な鍛錬や技術的な研鑽は退魔師の中でもずば抜けたものを持つに至っている。
退魔武術の修行の過程で、まずは闇との戦いで生き残るための力を身につけることが優先されたからだ。
だが、まだまだ習うべきことが数多くあった十代半ばの時期に師である父を殺され、最終奥義を取得するための本格的な精神的修練を受けることができなかった。
そして、父を亡くすと同時に、心の支えであった母を失い、そして、誰よりも敬愛していた姉も姿を消してしまった。
それが未熟であることの言い訳にはならないとは思っているが、強大な力を制御する綿密な意識を形成するよりも先に、力そのものを手にしてしまった鈴音の精神的成長を妨げている要因の一つを占めていることは確かだった。
「姉、貴……」
鈴音の身体がぐらりと揺れた。
ほとんど力の入らない右手で、首から下げた銀のロケットペンダントを握り締める。
そして、そのまま地面へと崩れ落ち、鈴音は今度こそ完全に意識を失った。
「ちょっ……なんじゃこりゃー!?」
戸惑ったような少女の声が、夜道に響いた。
「……って、ふざけてる場合じゃないね」
スウェット姿のポニーテールの少女は肩に掛けてきたスポーツバッグを置くと、血塗れで倒れている鈴音の脇に屈み込んだ。
そして、鈴音の身体に手を当て、お気楽な態度を一変させて視線を険しくする。
「……全身に瘴気が回ってる。てことは、闇のものと戦ったってところね」
周囲を見回すが、闇の存在の気配はなく、微かな妖気の残滓しか感じられない。
倒したか、逃げられたか。
どちらにしろ、この女性が妖気の主を撃退したということで間違いはないだろう。
退魔師だろうか。
とにもかくにも、瀕死の重傷といって良いほどの傷を負っている。
治療をしなければならないが、傷口が瘴気に犯されていて、必要なのは医者ではなく、高度な治癒の術の使い手だろうと判断する。
「これは、姉さんに頼むしかないね」
ポニーテールの少女は、血に濡れるのを厭うことなく、意識のない女性に肩を貸して、石段を登り始めた。
――そして、この猫ヶ崎市は動乱に包まれることとなる。
織田家の姉妹のすべてに決着がつくのは、その