魂を貪るもの前日譚
酒呑童子(シュテンドウジ)
鬼神に横道なし



「おねえちゃん」
 そう呼ばれ、織田 霧刃(きりは)は振り返った。
 見覚えのある顔。
 黒髪を長く伸ばした少女。
鈴音(すずね)
 妹が立っていた。
 ただその姿は、霧刃の知っている最後に見た妹よりもはるかに幼い。
「おねえちゃん」
 幼い鈴音は、にっこりと笑った。
「あたしがまもってあげるよ、おねえちゃん」
「……鈴音」
「おねえちゃんのかわりにあたしが天武夢幻流のあとをつぐの。だから、おねえちゃんはやさしいままでいて」
 約束だよ。
 鈴音はそう言った。
「やくそくだよ、おねえちゃん」

 ――織田霧刃は、目を見開いた。
 視界がぼやけている。
 己の汗で濡れた首元が気持ち悪い。
 だが、それ以上に胸を貫く、錐で抉られるような痛みが、意識を混濁させていた。
 喉の奥から込み上げてきた鉄の味のする液体に、呼吸を妨げられる。
「ごッ、ごほッ……ごほッ……」
 絡みつくような咳。
 口元を右手で、黒を基調とした千早(ちはや)に似た羽織の下に着ている白衣に包まれた胸を左手で押さえながら、肩を大きく上下させる。
「おねえちゃん」
 呼吸を整えようとした霧刃に、夢の中と同じ言葉が掛けられる。
 霧刃の両目の瞳孔が微かに収縮した。
 まだ明滅している視線を正面へと向ける。
 ぼやけた視界に人影が映る。
 近い。
 ベンチに腰掛けた霧刃から数歩の距離。
 だが、敵意も、殺気も感じられない。
 それらがあればこれほどの接近を許すはずがなかった。
 立っているのは、少女。
 長い黒髪。
 霧刃は目の前に立つ少女を改めて見た。
 ――鈴音、ではない。
 当たり前だ。
 鈴音はもう二十歳のはずで、幼い少女であるはずがないのだ。
「おねえちゃん」
「私はおまえの姉ではない」
 応えてからバカな答えをしたものだと霧刃は額に手を当てた。
 ねっとりとした感触。
 汗で濡れている。
 口の中にも鉄の味が広がっている。
 唇の端から液体が零れているのに気づいた。
 手で拭う。
 予想通り液体は真紅の色をしていた。
 忌々しい。
 手の中の吐血を握り潰す。
 そして、少女に視線を戻した。
 やはり、幼い。
 小学生低学年くらいの少女だ。
 ここは小さな公園だが、すでに陽は落ち、街灯がチカチカと点滅している。
 人気はほとんどない。
 だからこそ、霧刃はここで休んでいたのだ。
「……子どもがこんな時間に何をしている」
 咳と胸の痛みを意志の力だけで抑え込みながら、霧刃は少女に問うた。
 そして、今度は、バカな質問をしたと思った。
 少女の答えを聞く前に立ち上がる。
 肩の辺りでバッサリと切られた烏の羽よりも黒い髪と、同じ色の袴の裾が夜風に揺れる。
 だが、再びギリリッと心臓が捻じれるような激痛が胸を貫いた。
 胸を押さえ、ベンチの前に蹲り、先程より激しく咳き込む。
「おねえちゃん!」
 少女は驚いたように霧刃に駆け寄り、その背中をさすった。
「余計な……」
 ――余計な真似を。
 出かかった言葉が、霧刃の口から漏れることはなかった。
 相手は子どもだ。
 小さな手で背中をさすり続けられたこともあり、霧刃の呼吸は整い始めていた。
 霧刃の暗く深い紅の瞳が微かに揺れる。
 少女は霧刃の顔を覗き込んだ。
 黒く澄んだ目に敵意はまるで感じられない。
「おねえちゃん。だいじょうぶ?」
「……大丈夫だ」
「でも、せきがひどかったよ」
 発作の収まった霧刃は青白い顔のままだったが、ゆっくりと再び立ち上がった。
「……外で寝てしまったから風邪を引いただけだ。さあ、あなたもバカなお姉ちゃんのように風邪を引かないように帰りなさい」
「わたし」
 少女は俯いた。
「おうちにはかえりたくない」
「……どうして?」
「おねえちゃんとけんかしたの」
「お姉ちゃん? あなたのお姉ちゃん?」
「うん、わたしのおねえちゃん」
「ケンカを?」
「おねえちゃんのカップをわっちゃったの。あやまろうとおもったけど、おねえちゃん、すごくおこって。だから、おねえちゃんなんかきらいだっていってにげてきちゃったの」
「そう。でも、お姉ちゃんはきっと心配している」
「しんぱいなんかしてないよ。きっと、わたしのこときらいになっちゃった」
「妹の心配をしないお姉ちゃんはいないのよ」
 霧刃は血に濡れていない左手で、少女の頭を撫でた。
「それに、あなたもお姉ちゃんのことが本当に嫌いになったのではないでしょう?」
「うん」
「心から謝れば仲直りできる。だから、家に帰りなさい」
「ありがとう。おねえちゃん、わたしかえることにする。あっ、もしかして、おねえちゃんも、いもうとがいるの?」
「……ええ」
「じゃあ、おねえちゃんも、はやくおうちにかえったほうがいいよ。かぜひいちゃったんでしょ。いもうとが、しんぱいしちゃうよ」
「……そう、ね」
 少女の言葉を受け、霧刃の表情が翳りを帯びた。
 その時だった。
 霧刃の真紅の瞳が収縮した。
「おねえちゃん?」
 少女が不安そうに霧刃を見上げる。
 霧刃は少女の頭を撫でていた左手を離し、腰に帯びた黒金の鞘の柄に己の吐血に濡れたままの右手を掛けた。
「家に帰りなさい」
 その言葉は少女に向けられていたが、その視線は少女に向けられていない。
 少女は霧刃の紅い目が険しさを帯びているのに気づき、びくりと肩を震わせた。
 そして、霧刃が見ているものに恐る恐る視線を向ける。
「うっ……あっ……」
 少女の顔に恐怖の表情が浮かんだ。
 闇と壊れかけの街灯の光に彩られた公園の中央に、いつの間にか、それは立っていた。
 異形。
 天にも届きそうな巨躯、上半身は裸形で、点滅する街灯の光によって、小山のように盛り上がった赤銅色の筋肉が、闇の中から照らし出されている。
 腰には大きな徳利を下げており、下半身を覆う袴には赤黒い染みがところどころにできている。
 それは、霧刃にとっても、見覚えのある赤黒さ。
 ゆえに、それが返り血の乾いたものだと理解するのに時間はかからなかった。
 そして、この異形のもっとも特徴的なものは、仮面を被っているということだった。
 憤怒の仮面。
 その面も、そこかしこに赤黒い色が染みついている。
 蓬髪の間から二本の捻じれた角が突き出ているが、それが異形自身のものか、仮面の装飾なのかはよくわからなかった。
「鬼か」
 霧刃が呟くように言う。
 少女はその横で恐怖に震えていた。
「おねえちゃん、こわい。たべられちゃうよ!」
「行きなさい」
「お、おねえちゃんは?」
「私は大丈夫。だから、はやく……」
 霧刃は少女を『鬼』の目から妨げるように、『鬼』の正面に立った。
 そして、振り返らずに後ろの少女へともう一度言った。
「行きなさい」
「おねえちゃん……」
 少女は霧刃の背に隠れるようにして、『鬼』の立つ場所とは正反対の方向へ走って行った。
 しかし、公園から出ようとはしなかった。
 近くにある回転遊具の影に隠れ、顔だけを出してこちらを見つめている。
 霧刃のことが気にかかっているのだろう。
「……」
 霧刃は何も言わなかった。
 あれだけ離れていれば、これから始まるであろう戦いに巻き込まれることはないだろう。

「巨大な霊気に誘われてきてみれば、なんと女とは」
 乱雑に牙の並んだ鬼面の口から、地獄から響いてくるような重低音が発せられた。
「我は酒呑童子(シュテンドウジ)
 鬼――酒呑童子が、腰に下げた徳利を揺らす。
 ちゃぷちゃぷという音が夜の公園に響いた。
「退魔師を狩り、その力を美酒に封じ、呑む者だ」
「私を呑みに来たか」
 霧刃が目の前を覆い尽くすような巨躯の鬼に問うと、酒呑童子がくふぅと息を吐いた。
「いかにも。遠目には、肺病(はいびょう)病みの遊女の如き色白さと、吐血の(さま)に、我が感じた霊気の巨大さは間違いであったかと思うたが」
 酒呑童子の言うように、霧刃は労咳(ろうがい)を患った遊女のように不健康な白い肌をしており、襟元からわずかに見える鎖骨も浮き出ており、肉体的な貧弱さを感じさせずにはいられない。
 顔立ちこそ、すれ違った十人の男が十人とも振り返るような美しさだが、その雰囲気は幽鬼と間違われても仕方がないような危険で不気味な色香を漂わせている。
 ただその両目だけは、憎悪に彩られた瞳が、禍々しくも鮮烈な真紅の輝きを放っており、その視線はすべてを凍りつかせるように冷たく、その殺気はすべてを燃やし尽くすように熱い。
 これこそが、酒呑童子に霧刃が強大な霊気の持ち主であることを再確認させ、満足させ、歓喜させた。
 そして、霧刃が腰に帯びた黒金の鞘もまた、彼女自身の霊気の強大さとは別に、酒呑童子に目の前の獲物が狩るに足る存在だということを教えていた。
 鞘に納められているだろう退魔刀から、霧刃の全身から放たれる殺気とは真逆の、神々しく美しい霊気が溢れ出ているからだ。
「対面してみればやはり、強大なる霊気の持ち主。しかも、禍々しき力を宿しながら、相反する光り輝く清浄の退魔刀を得物とするとは、な」
 街灯のチカチカと点滅する光による悪戯か、まるで鬼面が笑ったように見えた。
 霧刃が退魔刀の柄を握り、腰を落とす。
 右手から、ぬるりとした感触。
 自然、握りが甘くなる。
 しかし、霧刃は気にした様子もない。
「女、その吐血も発作も、胸を病んでいるわけではないな」
「……だったら、どうした? おまえの知ったことではない」
「言うわ。ならば、うぬの命、遠慮なく狩らせてもらおう。くかかっ、僥倖(ぎょうこう)僥倖。我が美酒の素にはうってつけよ」
 霧刃は居合の姿勢のまま、表情を変えない。
 息苦しいほどの灼熱の殺気を含んだ夜風が黒髪を揺らし、身体の芯から凍えるような視線で酒呑童子を睨みつけている。
 相手が人間であれば命乞いをせずにはいられまい。
 いや、殺気を受けただけで死んでしまうかもしれない。
 鬼である自身の魂さえも削られるような威圧を感じながら、鬼面の奥で酒呑童子の目が赤く光った。
 酒呑童子が、目の前の地面を力強く踏みつける。
 それが、鬼と死神の戦いの始まりだった。

 轟音とともに酒呑童子の足下に亀裂が入り、地面を削りながら衝撃波が霧刃に向かって進んでいく。
 霧刃は日本刀を抜き打ちするようにして、衝撃波を斬った。
 割れた衝撃波が、勢いを失い拡散する。
「立ちはだかるものは、すべて斬り捨てる」
 斬れぬものはないと言わんばかりに、霧刃は両手で退魔刀の柄を握り直した。
「ならば、我も斬って見るが良い」
 酒呑童子が、両腕を胸の前で交差させ、気合いの声を上げる。
 筋肉が膨張し、その全身へ妖気が見る見るうちに満ちた。
 そして、ゆっくりと霧刃へと近づいていく。
 酒呑童子は動かない霧刃が己の間合いに入ったと見るや、思い切り踏み込んだ。
 一直線に貫き手突きで攻撃。
 霧刃は動かない。
 酒呑童子の貫き手が、霧刃の腹に突き刺さる。
 ぐしゃりという何かが潰れた感触が、酒呑童子の腕に伝わってくる。
 ひしゃげたのは霧刃の骨肉ではなく、彼女の後ろにあったベンチだった。
 それを理解した瞬間には、貫いたと思った霧刃の姿はゆらりと消えていた。
 残像。
「!」
 酒呑童子は後ろに気配が生じたのを感じた。
 霧刃が黒髪と千早の裾を揺らして立っていた。
 鬼は焦らない。
 振り向きざまに裏拳。
 ぶぅんと風を切って到来する巨大な拳の甲に、霧刃が無造作に差し出した左手の細い指が当てられる。
 巨大な鬼の拳と、華奢な女の手。
 そこにあるのは、目に見えてわかる圧倒的な体格差。
 防げるはずもなく、打ち抜かれた霧刃が木の葉のように舞う。
 だが、落下する霧刃の身体もまた、木の葉のように音もなく地に足から着地した。
 その背後で、酒呑童子の裏拳の勢いで生じた衝撃波によって、公園に設置されていたブランコの支柱が破壊される。
「衝撃を受け流したというのか!」
 あり得ない現象に、さすがの酒呑童子も驚愕する。
 霧刃は表情を変えない。
 崩れ落ちたブランコによって舞い上げられた土煙の中で、呪詛に彩られた紅の瞳を暗く光らせるだけだ。
 とんっ。
 霧刃が地を蹴った音は軽かった。
 瞬間移動と見間違えるような速さ。
 酒呑童子は一瞬にして間合いを消されたことを、己の胸を走る灼熱の激痛によって知った。
 神気を纏った退魔刀が厚い胸板をいとも容易く切り裂いていた。
「ウオオオオオオオッ……!」
 鬼の絶叫。
 酒呑童子はしかし、噴き上がる血もそのままに、反撃の巨拳を繰り出していた。
 とんっ。
 霧刃が重力を感じさせない動きで、今度は一瞬にして間合いを広げる。
 鬼の拳は空しく空を切った。
 酒呑童子は胸を左手で押さえるが、無論そんなことでは溢れ出る血を止めることは叶わない。
 深手だ。
 もう一撃食らえば、死ぬ。
 しかし、霧刃はすぐには追撃して来なかった。
 夜風に肩より少し上までの黒髪をゆらりと揺らし、息を整えている。
 その真紅の瞳がちらりと回転遊具の陰に隠れた少女へと向けられる。

「余所見など、慢心したか」
 酒呑童子が不快そうに唸ったが、同時に、好機であることも確信していた。
 対峙している敵から視線を外すなどという動作は、戦況が己に対して圧倒的に有利に展開しているための余裕によるものだろうが、集中力に隙が生じている証拠でもあった。
 霧刃の動きは確かに、酒呑童子に比べて格段に速い。
 神速と表現しても過言ではないだろう。
 しかし、それだけに反撃を合わせることさえできれば、その速度によって霧刃自身が酒呑童子の放った致命の拳へと飛び込むことになる。
 酒呑童子は裂けた胸を押さえていた左手を下ろした。
 血濡れの胸板を張り、仁王立つ。
 大きく息を吸い、ゆっくりとゆっくりと吐き出した。
 仮面の奥で鈍く輝く双眸に、狩りの前の猛獣の緊張が漲る。
 霧刃の一挙手一投足を見逃すまいと、瞬きすらせずに凝視する。
 外野の幼子に視線を向けた霧刃とは正反対に、霧刃以外の風景を視界から消す。
 その真っ白な世界で、退魔刀が淡く光り、霧刃の真紅の瞳が死を突きつけてきた。
 とんっ。
 霧刃がまったく重力を感じさせない動きで、跳んだ。
 見える。
 酒呑童子の極限まで研ぎ澄ませた集中力が、霧刃の動きを捉えていた。
 死神は、一瞬にして、鬼の目と鼻の先にまで迫っている。
 速い。
 速過ぎる。
 酒呑童子は総毛だった。
 だが、怯まない。
 逆に全身の筋肉を脈動させる。
 すべての湧き出す力を右の拳へと流し込む。
 その目の前で、振り上げられる退魔刀。
 酒呑童子の耳の横を、青白く透明で清らかな霊気を引いた刃が通り過ぎていく。
 紙一重。
 退魔の力が大気を間に挟みながらも、鬼面を軋ませる。
 だが、避けた。
 避けてみせた。
 霧刃が今まで彼の攻撃に対して寸前で避けてきたように。
 刀は血に染まった鋼の肉体に掠りもしなかった。
 酒呑童子が全体重を込めて踏み込む。
 地面がひび割れる。
 酒呑童子の巨体と霧刃の華奢な身体が重り、ズンという重く鈍い震動が、公園全体を揺るがせた。
 瞬きの間を経て、霧刃の退魔刀が、握力の消えた手からすっぽ抜けるようにあらぬ方向へと飛んで行った。

「がはっ……!」
 霧刃の両目が大きく見開かれ、逆に真紅の瞳孔が針の先のように窄んでいる。
 酒呑童子の巨大な拳が、霧刃の腹に深々と埋まっていた。
 何かが砕ける音が酒呑童子の耳に確かに聞こえた。
 だが、酒呑童子は得も知れぬ違和感を持った。
 しかし、その違和感はすぐに打ち消された。
 霧刃の腹部に深々と埋まった拳の衝撃が、黒基調の千早の背中の部分を裂き千切り、さらにその後方の大木を震わせたからだ。
 すさまじい威力。
 霧刃の口から、内臓を損傷した証明でもある大量の血が吐き出される。
 酒呑童子が霧刃の腹に埋まっていた拳を引き抜くと、ぐぼりっという生々しい音がした。
 打ち込まれた衝撃によって捻じり破られた白衣から露わになった霧刃のほっそりとした腹部には生々しい打撃痕が、受けた衝撃から回復に至らずに深々と刻まれている。
 霧刃は、そのまま腹を押さえながら、地面に片膝を落とした。
 新たに喉の奥から競り上がってきた血を、激しい咳とともに吐き出す。
 内臓を破壊され、退魔刀という得物を失ってしまっている。
 酒呑童子にとって、完全なる勝機。
 地に膝をついている霧刃の天蓋を粉砕すべく、拳を振り下ろした。
 風が巻き起こった。
 次いで。
 ――轟ッ!
 雷鳴の如き音が響き、落雷の如き揺れが起こった。
 脳天を砕かれたのは、霧刃ではなく、酒呑童子。
 蹲るように地に膝をついたままで、霧刃が酒呑童子の拳を絡み取り、打撃の勢いを利用して、巻き込むように、酒呑童子の巨体を投げたのだ。
「ハァッ……、ハァッ……、ハァッ……、ゼェーッ……、ゼェーッ……」
 もともと蒼白な顔をさらに白くした霧刃が肩で息をしながら、ゆらりと立ち上がる。
 両脚はガクガクと震え、唇の端から新たな紅の筋が垂れ落ちる。
 その姿は瀕死にも見えるが、禍々しい眼光は些かも衰えていない。
 大の字に倒れている鬼の巨体がピクリと震えた。
「蹲ったままで我の拳を捌くか。バケモノめ」
 頭頂部を破壊する一撃から蘇生した酒呑童子がゆっくりと起き上がる。
 鬼面の奥で、双眸が憤怒に燃えている。
 再び、太い腕を分厚い胸の前に出して構えを取る。
「――ッ!」
 だが。
 酒呑童子は、その姿勢のまま硬直した。
 得物を失い、吐血に身を濡らしながら、青白い顔で佇む霧刃は、美しくも儚い幽鬼のようにも見えた。
 しかし、その幽鬼は、とてつもない殺気を放っていた。
 幽鬼のようでありながら、霧刃の本質は死神。
 否、無尽蔵の殺気は、闘神。
 酒呑童子は、踏み込めない。
 踏み込めば、死。
 確実な、死。
 相手は徒手空拳。
 だが、それでも、酒呑童子は悟った。
 勝てない。
 この女は、遥か、格上。
 どこに打ち込んでも殺される。
 絶対的な差がある。
 ならば。
 ならば、なぜ、一撃を与えることができた?
 あの時に感じた違和感は?
 刀だ。
 刀の軌道がおかしかったのだ。
 自分に向かって振り上げられるはずの刀が、わずかにずれていたような気がする。
 酒呑童子は、刀の飛んでいった方向へ視線を移した。
 そして、知った。
 酒呑童子は確かにあの時、何かが砕ける音を聞いた。
 実際、霧刃の肋骨は数本砕け、内臓も損傷を負っているはずだ。
 しかし、あの時に聞いた破砕音は、霧刃の骨の砕ける音ではなかった。
 刀が飛んでいった先、そこには、少女が身を隠していた回転遊具があった。
 壊れた姿で。
 金属疲労で脆くなっていたのだろうか。
 この戦いの大地や大気の震動で結合部が外れたのだろう。
 回転遊具は台座から転がり落ちていた。
 少女はその横で、回転遊具から逃げるようとする姿勢で怯えたような表情を浮かべていた。
 そして、少女と壊れた回転遊具の間に、霧刃の刀はあった。
 刀は回転遊具の残骸を少女の方へと向かわせないための楔のように、地面に突き刺さっていた。
「ぬぅ……」
 酒呑童子は唸り、構えを解いた。
「鬼神に横道なし。我が拳はうぬの命を削ったが、うぬが隙は幼子の無事を取ったが故。ならば、この先の戦いにて、うぬが命を刈ったとて、我が拳の(ほまれ)にはならぬ」
 酒呑童子の拳の一撃は、霧刃の肋骨を砕き、内臓を破壊した。
 だが、鬼は知ってしまった。
 その一撃が偶然でしかなかったことを。
 その偶然に付け入って得た勝利では満足できないことを。
 そして、何より、女の強さの次元が違うことを知ってしまった。
 相手の偶然の不運に付け入った勝利では満足できぬが、偶然の不運に付け入らねば勝機すらないことを。
 次の一撃を与えることができれば、勝てるかもしれぬ。
 だが、次の一撃を当てることができないのだ。
 唯一の勝機は偶然に生まれただけ、次の一撃を当てる偶然が来る前に殺される。
 それほどの歴然とした実力差があるのだ。
「我との勝負より、幼子(おさなご)の無事を取ったか。口惜しいことよ」
「……」
 吐血の痕を手で拭いながら、霧刃が僅かに眉根を苦痛に歪め、胸に手を当てる。
 咳き込み、しかし、それを無理やり押さえ込んで、酒呑童子に真紅の瞳を向ける。
「鬼よ。力とは、……なんだ?」
「何?」
「私は力を求めている。力こそが唯一の真理なのだ。力さえあれば何でもできる。道を妨げるものを殲滅することも、大切なものを守ることも。ゆえに、無力は罪だ。私は私の望んだままに動いただけだ」
 だからこそ、霧刃は、酒呑童子の一撃を受けることも厭わなかった。
 己の望みのままに。
 少女の無事のためという、己の望みを押し通すために。
「……なるほど、正論だ」
 正論だが、それは鬼にとっての正論だ。
 確かに、己の意を通すためには力がいる。
 それは真実だが、霧刃の言葉には、力のない他者を踏み躙ることも厭わないという響きが含まれていた。
 人間としては捻じり曲がっている。
 魂が歪んでいるか、精神が焼き切れているのか、狂気を感じずにはいられない。
 酒呑童子はそう思ったが、指摘はしなかった。
 なぜならば、彼は人間ではなく、鬼なのだから。

「女よ、おまえと酒を酌み交わしてみたいものだ」
「酒は飲めない」
「……そうか」
「特に、人を漬け込んだ鬼の酒は、な。……こほッ……、ごほごほッ……」
 霧刃が胸を押さえ、咳き込む。
 再び、その膝が折れた。
「おねえちゃん!」
 少女が駆けてきた。
 その目には恐怖が浮かんでいるが、恐怖に耐える力強い光があった。
 懸命に霧刃の背をさする少女を見下ろしながら、思う。
 少女の目に浮かぶ恐怖に耐え、他者に手を差し伸べようとする力。
 すべてを斬り、すべてを飲み込む鬼の力とは異質なものだ。
 幼子に慕われ、付き添われる女は、鬼として生まれた自分とは違い、鬼に成り切れていないのではないか。
 ならば、この異質な力――ヒトの力――を、目の前の禍々しき闘神も持っているのだろうか。
 気づけば、霧刃が蹲ったまま、酒呑童子を睨みつけていた。
 鬼面の奥で、酒呑童子が、くぐもった笑い声を上げた。
「そう怖い顔をするな。幼子(おさなご)など喰ろうても、腹の足しにはならぬ」
 霧刃は能面のように無表情だった。
「女よ。酒は飲めぬと言ったな」
 いつの間にか、酒呑童子の手には、美しい意匠を凝らされた一本の横笛が現れていた。
「酒の代わりの我が礼、受け取られよ」
 そう言った鬼が横笛を仮面の口の部分に持っていくと、透明な音色が流れ出した。
 霧刃の表情は変わらなかったが、少女はびっくりしたように鬼を見上げた。
「きれいなおと……」
 笛の音は、激闘が終わり、静寂さを取り戻した公園の中に浸透していくように、響き渡る。
 夜の風を振るわせ、樹木の葉を揺らした。
 少女の顔から恐怖の表情が消えていき、その黒く澄んだ目が聞き入るように閉じられる。
 酒呑童子は横笛を吹きながら、ゆっくりと遠ざかり、やがて夜の闇の中へと消えた。
「おねえちゃん」
 少女が目を開け、霧刃の顔を覗き込んだ。
 霧刃は少女の頭に手を置き、やさしく撫でた。


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