La Pucelle
後編



「ねえ、貴方……」
 私は羞恥を抑え込んで、彼に尋ねてみた。
「なぜ、さっき、私の顔を見つめていたの?」
 心からの疑問だった。
 メフィストフェレスは彼が私の魅力に引き寄せられたという。
 だが、確かめたかったのだ。
 悪魔の言葉ではなく、直接に彼の言葉で。
 私の問いに、店員は恐縮したように背筋を伸ばした。
「それは……」
 顔を赤く染めて、口篭もる。
「それは?」
 私は少々苛立った。
 私の視線に、決意したのか彼は「それは…」の後を続けた。
「それは、貴女が、とても綺麗で。つい、その失礼だとは思ったんですが、見惚れてしまって。あっ、オレ、何言ってんだろ」
「私が美しい?」
 私は目を丸くした。
 祖国の為に手を血に染めて戦ってきた私。
 救世主として崇められ、聖女として敬われたことはあれど、一人の女性として「美しい」と言われたことはなかった。
 敵を屠り、返り血を浴び続けて、すっかり忘れていた。
 いや、忘れようとしていたのかもしれない。
 私は女だったのだ。
 彼の言葉が心に響いた。
 神は異性の心をくすぐる方法は教えてくれなかった。
 だが、メフィストフェレスは違う。
 私は剣で相手を斬ることを捨て、化粧で自分を変える嬉しさを知った。
 血と埃に塗れた甲冑を脱ぎ捨て、美しいドレスを身に纏う楽しさを知った。
 馬に乗り隊列を乱さぬ行進を捨て、優雅に歩く術を知った。
 私は、女であることを思い出した。
「私は、美しい?」
 私は確かめるように、彼に尋ねた。
「ええ、とても美しい。まるで女神のようだ」
 頬を赤く染め、彼は答えてくれた。

 女神、か。
 私は今、神から最も遠い所にいるというのに。
 だが、悪い気はしない。
 女を楽しんでいる。
 胸が踊った。
 彼と知り合ってから、心が弾みっぱなしだ。
 それから、しばらく彼との会話を楽しんだ。
 私は、かつてないほどに饒舌になっていた。
 彼も延々と語り続けた。
 話していて楽しい。
 時を忘れる。
 私が酒場を出たのは夜更け過ぎ。
 彼は「家まで送って行こう」と言ってくれたが、私には帰る家などない。
 適当に誤魔化し、「明日また……」と約束のくちづけを交わして、別れた。
 すでに、私以外に道を歩いているものはいない。
 月光が、私の足先を照らしている。
 私は、メフィストフェレスがルーアンの火刑場から私を連れてきた森へと足を向けた。
 森の中には入り、しばらく歩く。
 鳥の鳴き声一つしない中、ふと、水の音がした。
 見れば、小さな湖がある。
 慣れぬ酒を大量に飲んだ為か、私は喉の渇きを覚えた。
 自然と足はそちらを向いていた。

 私は、彼との恋を楽しんでいた。
 恋だ。
 私は、湖に映る自分の姿に酔っていた。
「貪欲なれ。恋に貪欲なれ。美に貪欲なれ。生に貪欲なれ」
 自分に向かって呟く。
 私の金色の髪がざわめいた。
「私は恋をしている。私は美しい。私は生きている。ああ、素晴らしい」
 ザワザワと髪が舞った。
 私の髪の間から尖った耳が顔を出す。
 にょきり、にょきりと、尾っぽがドレスの隙間から、はみ出してくる。
 一本、二本、三本……。
 合計九本。
 白面金毛の美貌が、激しさを増す。
 ああ……。
 私は自分の姿に嘆息した。
 爪が伸び、牙が伸び、髪が伸びた。
 ああ、私は、私のこの姿は……。
 私は自分の中で陰気が強くなっているのを感じていた。
 人であって、人ではないのか。
 でも、目が離れない。
 自分に惹かれていた。
「奇麗……」
 変わり果てた自分を見つめる。
 完成された美は、浮世離れしていた。
「メフィストフェレス」
 私は悪魔を呼んだ。
「お呼びになりましたかな、乙……女……?」
 私の後ろに姿を現したメフィストフェレスは目を丸くした。
「貴方は乙女なのですか?」
「どう、奇麗でしょう?」
 彼の驚愕が示すように、私の変貌は彼の魔力によるものではない。
 私は自分で変わったのだ。
「乙女よ、貴方は人間ではなかったのか!?」
「人間よ。私は人間。恋を知ったから変わったの」
 私は目を細めて、コンコンと笑った。
「聖女の心にこれほど強大な魔物が存在していたとは……」
 メフィストフェレスは額に手をやり、大きく息を吐いた。
「聖女たらんとして抑圧してきた欲望の反動か、それとも貪欲はすべての人間のあるべき姿なのか……」
 そして、肩を竦めて笑った。
「だが、だが、しかし、契約さえ成されれば、貴方の魂は私のモノ。強大な力が手に入る」
 メフィストフェレスの言葉を私は笑った。
「私は満足などしていないわ。きっと私はこれからもっと楽しいことを知るわ」
「すべては貴方の言葉通りに……」
 メフィストフェレスは、私に軽く頭を下げると闇に消えた。
 私は、人の姿に戻り、紅い唇を撫でた。
 笑みの形だ。

 翌日。
 私は夜明けとともに、酒場に足を運んだ。
 店は閉まっていたが、彼は地下の倉庫で酒の管理をしていた。
 酒の品質を保つ為なのか、倉庫は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。
 私は彼を連れ出すことにした。
「貴方のような素敵な人が、朝から日の届かぬ辛気くさい酒の倉庫で働く必要なんてないわ」
 唇が勝手に動き、私は彼の手を引いた。
 空が青い。
 太陽が暖かい。
 彼と街を歩き、川を渡り、海を見た。
「キミは一体、何者なんだ? 何で、そんなに魅力的なんだ?」
 彼は何気なく言った。
「私は貴方。貴方は私。私は私に忠実に生きている。私は貴方に恋をしている。だから、私は美しいの」
 私は彼に背中を預けた。
 彼は私を後ろから抱き占める。
 優しい目。
 彼の瞳に吸い込まれそうだ。
 私たちは、唇を重ねた。

 時の流れは留まることを知らない。
 彼と知り合って九日目。
 毎日毎日、彼と会い、私の人生を充実させた。
 私と彼は、互いを必要としていた。
 昼に彼と愛を紡ぎ、夜には自分の美貌を月光に照らした。
 私の魔性は日に日に強まっていた。
 今夜も、私は湖のほとりで、自らの姿を見つめる。
 美しい。美しい。美しい。美しい。美しい。美しい。美しい。美しい。美しい。
 人外の姿ながら、私は自分に見惚れた。
 私はまだまだ美しくなれる。
 果て無き欲望と契約したことに、悪魔メフィストフェレスも後悔したかもしれない。
「私は貴方。貴方は私。私は貴方が欲しい……」

 その日もまた、私は彼の元へ出かけた。
 彼と愛を育む。
 私は今まで一度も、彼の元に泊まったことがなかった。
 だが、私は自分の心の中の衝動を抑え切れなくなっていた。
 彼が欲しい。
 彼が欲しい。彼が欲しい。彼が欲しい。彼が欲しい。彼が欲しい。彼が欲しい。彼が欲しい。彼が欲しい。
 彼と離れたくない。
「ねえ、今夜は朝まで一緒に……」
 私の誘いに、彼は頷いてくれた。
「ああっ、ありがとう。私は貴方を愛しているわ」
「オレもキミを愛しているよ」
 身体が熱い。
 彼と交わる。
 快楽。
 愛は成就する。

 私は、もぞりと身体を起した。
 隣には彼は眠っている。
 私の唇は紅く染まり、髪が伸びる。
 身体が変貌していく。
「欲しい」
 私は魔物に姿を変え、彼の頬を撫でた。
「乙女よ」
 背後から声がかかった。
 私は振り向く。
 悪魔が立っていた。
「メフィストフェレス。呼んではいないわよ」
「乙女よ。満足なされたか? 貴方の愛は成就した」
「満足したならば、約束通り魂を寄越せと? 満足などせぬ。まだ、足りぬ。まだ、足りぬ。愛を生を私に給れ」
 彼を愛してる。
 あいしてる。
 アイシテル。
 愛してる。愛シてる。アイしてル。愛しテる。
 アイ死テル。
 欲しい。もっと欲しい。彼が欲しい。放さない。逃がさない。食らいたい。壊したい。
 私は隣で眠っている彼の身体に馬乗りになった。
 長く伸びた金髪が、彼の顔にかかる。
 それを払いのけて、彼の首に両手を差し伸べた。
 離さない。
 私の愛。
 美貌の源泉。
 快楽の種。
 ぎりぎりっと、彼の首を締め上げる。
「──っ!」
 彼は苦しそうに目を開けた。
 彼は私の手を引き離そうと必死にもがいた。
「フッ、フフフッ……」
 私は紅い唇から笑みをこぼれさせる。
「愛してる。離さない。祖国のように、神のように、私を裏切ったりしないで……」
 絞める手に更に力が篭もる。
「私だけのものになって……」
「……っ! ば、化物!」
「!」

 彼の言葉に私は茫然自失となった。
「化物?」
 私は化物?
「おおっ、おおおおおおおおおおっ……」
 私が化物?
 彼の首を絞める手を離した。
「私が化物。ワタシはバケモノ。私ハ美しくナい。愛がなイ。愛がナい」
 あああっ、怯えの視線。
 私は髪を振り乱して、彼から離れた。
「ココロがモドラヌ。スガタがモドラヌ。愛は壊せ。貪欲に食われ貪欲に呑まれ、愛死合えないワタシ」
 私に捧ぐは羨望の眼差し。
 私に捧ぐは恋焦がれる眼差し。
 魔物を見る目。
 その目で私を見ないで。
 貪欲に溺れた女の姿。
 私だとわからぬも無理はない。
 人外の美貌。人に理解できぬも無理はない。だがだが、その目で私を見ないで。
 楽しい日々が消えていく。
 私の美貌が崩れてく。
 貴方は私。私は貴方。貴方が私を見捨てるならば、私の生に意味はない。
 これが怖くて壊したかった。私のものにしたかった。
 されど、されど、もはや手遅れ。
 彼の心は幾星霜。
 彼方の彼方で、私は魔物。
 白面金毛九尾の狐。
 私はよろめき、手で顔を隠した。
「あさましい。私は貪欲。貪欲なる私。あさましい。私は愛で貪欲を得た。私は貪欲で愛を得た」
 力なく後ろに下がる私。
「ああっ、失意だわ。失意だわ、メフィストフェレス」
 嘆く私に、メフィストフェレスは何も言わない。
 言葉はないか、メフィストフェレス。
 私に素晴らしい人生を与えてくれるのではなかったのか。
 無言で腕を組む悪魔の向こうで、「彼」が起き上がった。
 恐怖と混乱を綯交ぜにしたその顔で、私を見つめる。
 終わったのだ。
 私の恋は終わったのだ。
 ああっ。
 ああっ、終わってしまった。

 ふと、彼の顔に赤みが差した。
「キミは……」
「えっ?」
「キミは、まさか……!」
「ああっ」
「キミは……」
 彼はわなわなと肩を震わせて、やさしい目で私を見た。
 私の目から涙がこぼれた。
「私だとわかってくれたの?」
 彼は頷いた。
「ああっ、でも、貪欲に染まった私の心はもう戻らない。私は貴方を食らってしまう。貴方が欲しくて堪らない」
「オレを食いたいというなら食え」
「!」
「オレはキミを愛している。キミと一つになれるのに何の躊躇いもない!」
「私が、このような姿であっても?」
「キミはキミだ。キミは美しいよ」
「おおっ、おおおおっ」
 彼の言葉に私は歓喜した。
 この人外の美貌を彼は認めてくれた。
 有り難かった。
 彼は、私に迎えるように両手を広げた。
「さぁ、オレは後悔しない」
「できぬ。できませぬ。私は、貴方を食らいたい。だけど、貴方に死んで欲しくない」
 私は彼の喉に食らいつきたい欲望を抑えこんで、荒い息をついた。
 彼は涙を流した。
「オレは無力だな。キミの心を救うことができない」
「違う。私は楽しかった。生まれ変わって良かった。でも、私のこの姿は……」
「人の心には欲望がある。オレにだってある。人の心には皆魔物が住んでいる。そして、少なからず、魔物になることを望んでいる」
「私は望みました。神に裏切られ、悪魔に唆されて。でも、望んだのは自分自身です。私は貴方に巡り会えて良かった」
 心を震わせて、私は言う。
「私はもう、貴方の元を去るしかないのです。貪欲になりすぎました。私は貴方を殺したくはない。もう私はこの美しい瞬間を刻むだけで良い」
 私は息を吸った。
「私はこの瞬間の為に生きていたのです。私は確かに、貴方を愛していた」
 私の愛は、言葉によって現実に刻まれる。
「時よ、止まれ! おまえは美しい!」
 どんっ!
 胸に突かれたような衝撃が走り、意識が眩む。
「時計は止まれり。針が落ちる。事は終わった!」
 メフィストフェレスは哄笑した。
「すべては私の想い通り。いかに魔物に変じようとも所詮は人の心を持つ者よ」
 悪魔は言う。
「人は不可解な生き物よ。過大な幸せよりも、不幸のどん底にある微かな幸せを求める。ハハハッ、私の勝ちだ」
 彼の姿が遠ざかっていく。
 ああ、私の愛しい人よ。
 二度と、貴方の手を握ることはないでしょう。
 私の意識は暗闇に落ちた。

 気がつくと、私は宙に浮いていた。
 見渡せば、あの森だった。
 ルーアンの火刑場から連れてこられた悪魔の森。
 私はメフィストフェレスによって、身体から抜き取られた魂といったところだろう。
「さあ、美しき乙女よ。私とともに魔界へ」
 メフィストフェレスが、手を差し伸べてきた。
 私の魂は、彼との契約に従って魔界に呪縛されるのだろう。
 私の左手は、私の意志とは関係なく、メフィストフェレスに向かう。
 手と手がふれあう、まさにその瞬間。
 突如、私とメフィストフェレスの間を裂くように、地面から光が立ち上った。
「眩しい!」
「むうっ!」
 私は尻餅をつき、悪魔は顔を覆って後ろに跳び下がった。
「私の邪魔をするのは何者だ!?」
「"光を愛せざるもの"よ。久しぶりですね」
 静かな声とともに、美しい女性が光の中から姿を現した。
 百合の刺繍が施された衣を身に纏い、細身の剣を腰に下げている。
 背には真っ白な翼。
 天使だった。
「き、貴公は、ガブリエル!?」
 メフィストフェレスが驚愕の声をあげる。
 神の使徒、大天使ガブリエル。
 神の玉座の左に位置を占める慈愛の天使。
「この者の魂。貴方に渡すわけには参りません」
 ガブリエルは、慈愛に満ちた表情で、私の前に立つ。
 一方、メフィストフェレスは嘲笑を含んだ表情で、ガブリエルに対した。
「何を言うのか。彼女は神を見放し我らを望んだ。 見よ、彼女の姿を! 彼女はすでに堕ちた!」
 メフィストフェレスは哄笑して私を示した。
 悪魔の言う通り、私の魂は、白面金毛、九尾の魔物へと変貌を遂げている。
「魔物に心を食らわれた者に今更神が一体何の用があるというのだね?」
「神は関係ありません。私は私の意志で彼女を救いたいのです」
「ほう、これは意外なことを言う。貴公の称号は『神は我が力なり』ではなかったか?」
「神は偉大ですが、神のみが私の行動基準ではありません。故に神は私に意志を与え、私の行動を束縛はしない」
「神の牢獄に囚われたままの身で自由を語るか、いと美しき百合の淑女よ。私を見よ、私こそ自由。そして、我が盟主"明けの明星"こそ自由の象徴」
「だが、天より高く昇ろうとした"明けの明星"は地に堕ちたではないですか」
「勝敗は時の運。勝ち負けよりも見るべき箇所はあるぞ。反乱には、天使の三分の一が従ったという事実があるではないか」
「……」
「盟主には大義があった。傲慢にして独善的な神の独裁を拒むというな」
 陶酔した表情でメフィストフェレスは言う。
「神の行為は独裁に過ぎぬ。知恵の実を独占し、人に与えようとしなかったではないか。だが、私は知恵を欲する者に与えるぞ」
「貴方は知恵ではなく、知識のみを与えるのです。その知識を正しく扱う術は与えない」
「そのようなことはない、そのようなことはないぞ、慈愛の天使ガブリエル。私はただただ、求める者の手助けをしているだけだ」
「貴方の言葉は虚偽に満ちている! 貴方は他人を嘲ることでしか自分を表現できない。他人を批判することでしか自分に価値を見出せない」
「そのようなことはない。そのようなことはないぞ、ガブリエル。私は充分に召喚者の願いは叶えている。その代償に、魂を頂いているだけだ」
「世迷言を。貴方は真の理を与えはしない。貴方はただ、真理を与えるフリをしているだけで、最後の最後に裏切りと嘲笑を浴びせる」
「そのようなことはない、そのようなことはないぞ、ガブリエル。私は…」
「もう偽りを吐く舌を止めなさい、メフィストフェレス。その気位いの高さゆえに慈悲を忘れた者よ」
「……」
「その傲慢さゆえに天に許しを請うことを拒み続ける哀れなる者よ。天に帰りたいと思っているのに。神に反逆したことを悔やんでいるのに」
「……」
 ガブリエルの言葉にメフィストフェレスの顔が強張った。
 地獄の紳士メフィストフェレスはガブリエルの言う通りに心底、堕天したことを悔やんでいた。
 天に帰りたいと思っていた。
 だが、彼の過大な自信は、神に膝を折ることを良しとはしなかったのだ。
 そして、その憂さ晴らしに人を嘲っていたのだ。
「……残念だよ、ガブリエル。天使の中でも、頭の回転の速い淑女だと思っていただけに。私を怒らせた報いを受けてもらおう」
 暗い怒気を含んだ声とともに、メフィストフェレスの身体が変化していく。
 紳士の仮面は剥がれ落ち、目は赤く染まり、口は耳まで裂け、背中に蝙蝠の羽が飛び出した。
 そして、夜会服を着た竜のような姿となる。
「ガブリエルよ。大天使長ミカエルに次ぐといわれる剣の冴え、見せてもらおうか」
「メフィストフェレスよ。我が"正義と真理の剣"に賭けて、貴方を成敗する!」
 ガブリエルは、メフィストフェレスの変貌にも臆せず、むしろ哀れみの表情で、細身の剣を抜き放った。

 目の前で、天使と悪魔が戦っている。
 メフィストフェレスの炎が、大天使の身体を焼き、爪が裂き、尾が打つ。
 ガブリエルの剣が、悪魔の身体を斬り、炎をはね返す。
 どっちが勝っても、私には関係なかった。
 メフィストフェレスに私をくれてやっても構わなかった。
 でも、ガブリエルは私を彼には渡さないと言う。
 彼女が勝ったならば、私は天国に行くことになるのだろうか。
 天国には、私を見捨てた"神"がいるのだろうか。
 ガブリエルには悪いが、そんな天国はご免被りたかった。
 かといって、メフィストフェレスが私に真理をくれたわけでもない。
 唇が歪んだ。
 何だか、可笑しくなってきたのだ。
 果てしなく可笑しい。
 まるで、ルーアンの広場で火刑に処されたあの時のように可笑しい。
 だが、その可笑しさの先に、この世の真理があるのだとわかった。
 私はすでに理解していた。
 神も悪魔も、何も与えてはくれぬことを。
 人に希望を与えてくれるのは、人のみだ。
 だが、人は愚かだ。
 欲望のまま振るまい、他人を虐げ、罪を擦り付け、互いに殺し合う。
 真理を知るは遠い。
 だが、私は知っている。
 その欲望こそが、人の心を豊にし、人をより高みに導くことを。
 心に欲望という魔物が住まぬ人間など、すでに人間ではありえない。
 聖女たらんと、救世主たらんとしていた自分にはよくわかる。
 欲望を解き放たれ、堕した自分だからこそよくわかった。
 目の前で殺し合う天使と悪魔。
 神も悪魔も人の心が作り出したものだ、と。
 メフィストフェレスの嘲りも真理なら、ガブリエルの節制も真理なのだ。
 この世の向こうに真理はあり、真理を知れば、神や悪魔と化すのだ。
 そして、真理の代償に世界を動かす力を失う。
 この世にあらざるものが、この世を動かすことはできない。
 だから、神も悪魔も人を誘惑するのだ、と。
 神も悪魔も人と関わりなくしては、存在できぬものたちなのだ。

 目の前の戦いは慈愛の大天使に分があるようだった。
「なぜだ。なぜ、私は押されているのだ」
 メフィストフェレスがガブリエルの華麗な剣撃を防ぎながら呻き声をあげる。
 一心に信じるものがあるものと、天界を追われた後悔に塗れるものの差だ。
 他者にとっていかなるものであろうと、ガブリエルにとっては神は唯一絶対なのだ。
 対して、メフィストフェレスは、盟主に従い天界から堕ちたことを後悔している。
「神は我が力なり!」
 遂にガブリエルの剣が、メフィストフェレスの胴を薙いだ。
「わ、私は、……慈悲など請わぬっ!」
 メフィストフェレスは、倒れる間際に天に手を伸ばした。
 爪は何もない空間を切り裂き、悪魔は地に伏した。
 そして、メフィストフェレスの身体は砂が崩れるように消え去った。

「悪魔は滅びました」
 ガブリエルは剣を収め、優しげな笑みを浮かべて、私に言った。
「さあ、私とともに神の御許へ、参りましょう」
「ガブリエル。今の私は美しい?」
「乙女……?」
「魔物に見えて?」
「神の慈愛により貴方は人の姿に戻れるはずです」
「我が貪欲なる心は美しくないと……」
「……?」
「エデンの統治者よ。私は神の元に召されるつもりはない」
「なぜです? 悪魔との契約は大罪です。神の慈愛を拒否し、地獄に落ちれば、贖罪の炎が貴方の身を焼くでしょう」
「ルーアンの広場での火刑のように?」
 私の皮肉にガブリエルの顔が強張った。
「そ、それは……」
「神は、よほど私を焼くのがお好きらしい」
「……ならば、貴方は、これからどうしようというのです?」
 力ない言葉でガブリエルが問う。
「私は私の心に忠実でいたいの。そして、真理が知りたいだけ」
「真理なら、私が与えましょう。神の力によって」
「違う。神の真理でも、天使の真理でもない。誰のものでもない私だけの真理」
「それは一体……?」
「貴方にはわからないでしょうね。敬虔なる神の使徒の貴方には。貪欲ならぬ貴方には」
 私は九尾を羽ばたかせて、上昇した。
「さよなら、ガブリエル。私は……、私は神に慈悲は請わない」
 メフィストフェレスの最期の言葉をなぞった私に、ガブリエルは哀しそうに俯いた。
「でも、……悪魔にもすがらないわ。私は彼が認めてくれた貪欲の美貌を胸に行くだけ」
「貴方は……!」
 ガブリエルが、はっとして顔を上げた時には、すでに私の精神は、さらなる真理を求めて飛翔していた。

 現代。
 とある臨海都市。
 少女は転生していた。
 龍の力を秘めた古き血筋。
 絶大な魔力を持った魔物は、更なる力を取り込み、果てしなく貪欲であった。
 神を信じた自分も、悪魔にすがった自分も、自分であったが、今の彼女は別の自分。
 黒き衣(メフィスト)を纏った乙女(ラ・ピュセル)の背中から、白き美しい翼(ガブリエル)の幻影が舞った。
 影が九尾の狐の形を取る。
「めきょめきょっ、ピエロの笑顔は泣き顔メイク。仮面の下には何もない。な〜んにもない。すべてを知ってて、すべてを知らぬ」
 彼女は、ただひたすら、真理を求める。
 神の真理ではなく、悪魔の真理でもなく、人の真理を。
 欲望こそが、人を破滅に導き、人を絶望から救う。
 欲深きは罪なれど、貪欲ならざるものの生は輝かぬ。
 人の想いは何よりも強く、人の心がすべてを変える。
 人の心には、魔物が住まう。
 美に貪欲なれ。愛に貪欲なれ。生に貪欲なれ。
 貪欲に力を求めよ。
 力は真理にあらず。されど、力の先に真理あり。
 霊力は何の為に。魔力は誰の為に。心の魔物は人が人である為に。
 人は神も悪魔も支配できる。
 現に、七十二柱の悪魔を使役し、最強の魔獣である竜すらも従えた。
 いつか、神をも跪かせ、運命さえも下僕にしよう。
 人が人で良かったと思えるように。


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