La Pucelle
前編



 私は心の底から湧きあがってくる可笑しさに耐えかねていた。
 可笑しくて堪らない。
 きっと、顔にも笑みが浮かんでいるだろう。
 乾いた笑みが。
 背筋が寒くなるような笑みが。
 狂っていると誰もが思う笑みが。
 何故なら、私は今から死ぬのだ。
 それなのに笑っている。
 ただ死ぬのではない。
 処刑されるのだ。
 それなのに笑っている。
 声も立てず、表情だけで。
 私は今、十字架に磔にされている。
 両掌と両足は釘に貫かれ、鈍い痛みが時折襲ってくる。
 血。血。血。真っ赤な血。
 脈を打つたびに、赤い液体が溢れ出す。
 衣に染みこむ血を見ながら、私は笑っていた。

 私の人生は何だったのか。
 私は何の為に生きていたのか。
 私は何の為に。
 何の為に存在していたのか。
 何の為に手を血に染め、戦場を駆け抜けたのか。
 神よ、貴方はかくも無慈悲なのか。
 神よ、貴方は何ゆえ私に啓示を与えたのだ。
 神よ、貴方は何ゆえ、私に多くの命を奪わせたのだ。
 私は馬の乗り方も、戦い方も知らなかったというのに。
 戦場に駆り出したのは、他でもない、神よ、貴方だ。
 神よ、戦場で数多の血を溢れさせる事に飽き足らず、私の血をも欲するのか。
 私は絶望していた。
 絶望があまりに強く、あまりにも哀しかった。
 意味のない人生。
 英雄など、どこにもいなかった。
 救世主(メシア)は、哀れな娘。
 ロレーヌの森の羊飼いの少女は、聖女ではなく魔女。
 オルレアンの乙女(ラ・ピュセル)は、悪魔と通じた女。
 私の人生は何なのか。
 生きて生きて生き抜いて、結局は処刑される最期。
 何なのだ。
 私は今まで生きたことを理解しているようで、何一つ理解できてはない。
 絶望。虚無。無為。滅。滅。滅。
 意味がない。
 死ぬだけの人生。
 処刑される為に生きてきた人生。
 そんな自分が堪らなく可笑しくなったのだ。
 だから、私は笑っていた。
 涙は枯れていた。
 絶望のあまり、笑うことしかできなかった。
 私は生まれて初めて、神を呪った。

 足元に積み上げられた藁に、炎が点けられた。
 死の蛇が衣に燃え移り、脚を焼き始める。
 熱い。
 私の人生が終わる。
 熱い。
 灰になる。
 熱い。
 大地に還える。
 血に染まった大地に還える。
 嫌だ。
 嫌だ、死にたくない。
 神よ、私は貴方を呪う。
 心の底から呪う。
 私は魔女なのだから。
 もう聖女でないのだから。
 神を恨んで良いはずだ。
 私は……、私は……、まだ死にたくない!
 まだ死にたくないっ!
 まだ十九年しか生きていないっ!
 死にたくないっ!

 悪魔よ!
 神の玉座の上に昇ろうとして地の底に堕とされた王よ!
 明けの明星よ!
 私を救ってください!
 私は何も理解しないまま、死にたくない!

乙女(ラ・ピュセル)よ、呼びましたかな?」
 炎に身を焼かれ、苦痛に苛む私の耳に、ソレは話しかけてきた。
 神の啓示とは違う。
 頭に響くような声ではなく、囁くような声だった。
 禍禍しくも甘美な声だった。
「おまえは、誰だ……?」
「私はメフィストフェレス。盟主とともに天より堕とされしもの」
「悪魔か……」
「まあ、そうなりますな。ですが、貴方に害を為すものではありませんよ。貴方が盟主にすがられたから私は来たのです」
「私はまだ死にたくない。私はまだ生きていたい」
「そして、意味のある人生を望まれている」
「その通りよ」
「まあ、この烈火の中では私はともかく、貴方には辛いでしょう。場所を変えましょうかな」
 悪魔の声とともに、私の目の前が暗くなった。

 気づくと私は、森の中にいた。
 全身が痛む。
 掌を見れば、磔にされた時の傷が生々しく残り、処刑場で炎に焼かれた肌は火傷で爛れ、髪は縮れ、衣はぼろぼろであった。
 目の前に、黒い夜会服を着た男が立っていた。
 聡明そうな切れ長の瞳に、きっちり切り揃えられた顎鬚が印象的だ。
 口元に微かな笑みを浮かべている。
 この男が、死の瞬間に囁いた悪魔、メフィストフェレスなのだろう。
「まずは火傷を治しましょうかな。美しき女騎士よ」
 メフィストフェレスが軽く手を振るうと、私を蝕んでいた傷が跡形もなく消え去った。
「教会の司祭にはできぬ芸当ね」
 私は自分の声の平板さに驚いた。
 驚くべき力を見せられて、驚かぬ自分に驚いていた。
「神よりも悪魔が優れているという証拠です」
 メフィストフェレスは優雅に言った。
「刑場から私を救い、火傷を治した。他には何ができるの?」
「貴方が望めば何でも。世界の真理を見せることができます。望むなら、富も権力も与えましょう。最高の快楽を与えましょう」
「世界の真理……」
 私の人生を台無しにした神が、決して与えてはくれなかったもの。
「もし、それで満足なさったならば、かつて救世主とまで呼ばれた貴方の魂を頂きたい」
 悪魔の言葉は魅惑的だった。
「快楽を得る為に魂を売れというのか?」
「その通り。貴方は聖女ではなく魔女ゆえ、悪い話ではありますまい」
 そうだ。
 私はすでに聖なる乙女ではなく、救世主でもない。
「ならば、私に至福の瞬間を味合せることができたなら、私に『時よ、止まれ。おまえは美しい』と言わせることができたなら、おまえに魂を捧げよう」
「よろしい、契約は成されましたぞ」

「まずは、この宝石を纏いなさい。このドレスを纏いなさい」
 メフィストフェレスはそう言って、手を一振りした。
「宝石は天空に瞬く星々のように、ドレスは大地に咲き乱れる花のように、貴方を飾ってくれることでしょう」
 火あぶりで炭化した私の衣は、上質の絹で織られたドレスに変わり、数多の宝石が私を飾った。
 金の髪飾りに、銀のネックレス。
 ダイヤモンドを埋め込んだ腕輪に、ルビーの指輪。
「おおっ、素晴らしい。今の貴方は最高だ。誰もが貴方を羨み、誰もが貴方に恋することでしょう」
「そうなると、良いけれど」
 私は悪魔の大袈裟な称賛に溜め息をついた。
 確かに、宝石は綺麗だし、ドレスも美しい。
 だけど、私自身はどうなのだろうか。
 宝石でもなく、ドレスでもなく、私の顔を見てくれる人はいるのだろうか。
 その不安を知ってか知らずか、メフィストフェレスは、私の手を取った。
「さあ、街へ参りましょう。早く他の者たちにも貴方の類稀なる輝きを見せてやりたい」

 街に出ると、妙な違和感があった。
 視線を感じる。
 すれ違う若者が驚いたような顔で私を振り返る。
「皆、貴方に見惚れている。隣に私がいることにも気づかぬほどに」
 メフィストフェレスが耳に囁いた。
「嘘。皆、私を笑っているのよ。似合わない格好をしたバカな女だと」
「疑り深い御方だ。それでよく神に仕えられたもの。少し腰を落ちつけましょう。落ちついて周囲をよく見、よく感じることです。そうすれば、誰もが貴方に惹かれていることがわかるでしょう」
 メフィストフェレスは通りの先の酒場を指で示した。
「貴方はとても魅力的だ。ただ経験がないから認めることができない。厳粛に神に仕えていたから表に出すことができないだけだ」
 悪魔は私を連れて、酒場の扉を開けた。
 店内の客の視線が集まった。
「見なさい。このような酒場に、貴方のような貴婦人が何の用かと驚いている」
「違うわ。新しい客が入って来たから見てみただけに決まってるわ」
 私の否定に、メフィストフェレスは応えず、手頃な席を見つけて座った。
 私はその向かいに腰を下ろす。
 店員が机の前まで来て、止まった。
 綺麗な顔立ちの、とてもやさしそうな若者だった。
 彼と私の視線が交わった。
「……」
 彼は、呆けたように私の顔を見つめる。
「……?」
 私は首を傾げた。
 この店員は注文を取りに来たのではないのかしら?
「……」
「ちょいと、キミ。何をボーっとしているんだね。注文を聞きに来たではないのかね」
 メフィストフェレスが、店員の顔を覗き込んだ。
 店員は、彼の声で我に返ったようだ。
 慌てて、姿勢を正す。
「し、失礼しました。ご注文は?」
「赤ワインを。乙女(ラ・ピュセル)、貴方もそれでよろしいか?」
「ええ」
 私は頷いた。
「では、ボトルで頂こう」
「赤ワインのボトルでございますね。かしこまりました。少々お待ちください」
 店員は私と視線が合うと、頬を赤く染めた。
 そして、視線を泳がせて、奥に戻って言った。
「彼、具合でも悪いのかしら?」
「くっくっくっ、貴方は面白いな」
 メフィストフェレスは私の疑問を喉で笑った。
「彼を呆けさせたのは貴方の魅力だというのに」
「私が?」
「そうだ。私は何度も言っている。貴方は魅力的だとね」
「彼の顔を見たでしょう。とてもハンサムで、気の良さそうな人だったわ。きっと恋人もいる。私に興味なんか抱いてくれるはずがない」
 メフィストは曖昧な笑みを浮かべた。
「貴方は彼に興味を引かれたみたいですな」
「私は、ただ彼の様子がおかしかったから……」
 とても、優しそうな人だと思ったわ。
 とても、暖かそうな人だと思ったわ。
 とても、誠実そうな人だと思ったわ。
 でも、一目惚れなんて。

「お客さま。赤ワインをお持ち致しました」
 ボトルと、ワイングラスを手に、店員が戻って来た。
 頬が熱い。
 私は俯いた。
 いくらなんでも、自分が少し情けなくなった。
 私は男を知らない。
 だが、男と話したことは山ほどある。
 王、将軍、騎士、村人、老人、子供。
 数々の身分の人間と言葉を交わして来た。
 今更、この体たらくは何なのだと思わずにはいられない。
「お客さま?」
「いやいや、何でもないよ。さあ、乙女よ。キリストの血を頂くとしよう」
 メフィストフェレスが杯を手に取った。
「神の御子の新しき人生に乾杯」
 皮肉を込めた酷薄な笑みを浮かべて、メフィストフェレスは赤ワインを口に運んだ。
 私も杯に口をつける。
 液体が胃に流れ込み、それを追うように熱い感覚が通り抜けて行った。
「キミも、飲み給え」
 メフィストフェレスが店員に杯を突き出した。
「えっ? いや、私は仕事中で……」
「ならば、キミの時間を買おう。こちらの御方はそれがお望みだ」
 そういって、悪魔は懐から一握りの砂金を取り出した。
 私はメフィストフェレスの強引さに頭に来た。
「私はそんなこと!」
「きっかけをつくってあげようと言うのです。愛を知らぬは、人生の半分以上を無駄に過ごすことになる。貴方はまた無意味な人生を過ごす気か?」
 文句を並べようとする私へメフィストフェレスは語気を強め、店員へも鋭い目を向けた。
「店長には私が話をつけよう。それとも、キミはこのレディの相手は絶対に嫌だと?」
 メフィストフェレスの言葉は、逆らうことを許さない威厳があった。
 魔術と言うわけではないだろうが、この悪魔は舞台を整えることにかけては天才的であるようだった。
「い、いえ。そんなことは、このような美しい女性に対して……」
「ならば、このレディの相手をしっかりと頼むよ」
 メフィストフェレスは満足そうに、店員に席を譲り立ち上がった。
 そして、店の奥にいる店長らしき男と、二言三言、言葉を交わして戻ってくると「邪魔者は消えましょう」と優雅に頭を下げた。
「どこへ行くの?」
「どこへも行きません。私はいつでも傍らにいる。必要な時に、呼んでください」
 メフィストフェレスはそう告げて、酒場を出て行った。
 私は頬を桃色に染めて、店員と向かい合った。


>> BACK   >> NEXT