安らぎを貪るもの
其の一



 その女にとって外界の多くは雑音であった。
 何年か前までは、その女も音楽を愉しみ、愛する人と一緒に詩を育んだこともあった。
 だが、今はない。
 愛する人が永遠に姿を消したその日から。
 そう、今あるものは、深遠なる闇だけだった。

 ――その夜は満月だった。
 静寂の中、女はあてもなく歩を進めていた。
 夜の散策は彼女の数少ない趣味の一つである。
 昼は人間の雑踏で見えない、さまざまなものが夜は見えるから。
 もちろん、煌々と輝くネオンによって闇の消された大都市では、夜の風情はないに等しい。
 その点、この街は、昼は一大都市の活気を持ちながら、夜は静まり返った、それでいて趣のある雰囲気を漂わせていた。
 美しく、静かな夜が、彼女には心地良かった。
 傍らには、唯一信頼する友がいる。
 友もまた、快い沈黙を守り、彼女に従っていた。
 ふと、夜風が、静寂に旋律を運んできた。
 歌声のようだ。
 女は立ち止まる。
 歌声は、近くの公園から聞こえてくるようだった。
 女の耳に届く歌声は、雑音ではなかった。
 それは、音楽として、女に認識された。
 興味を覚え、傍らの友に公園に寄ると無言で告げる。
 友も女の意志に従った。

 月嶺(つきみね) (ひびき)は、すでに辺りが暗くなっているのにも構わず、公園のシーソーに腰掛け、一心不乱に新曲の作詞をしていた。
 仮のメロディを口ずさみながら、外灯を頼りに詩を流す。
 リズムに乗って時たま、響のショートカットヘアが揺れる。
 澄んだ歌声が、夜に包まれた公園を和ませていた。
 人影に気づいて、響はハミングを止めた。
 ――こんな時間に誰かしら?
 人影へと視線を向ける。
「……」
 視線の先に立っていたのは、どことなく暗い雰囲気のする女性だった。
 黒いロングコートに黒いロングスカートという井出達。
 バッサリと切られた髪の毛は服装よりも黒い艶やかさで、二十代前半と思われる若く美しい顔立ちは対照的に白い肌をしていた。
 ただ、その白さは病的なもののように感じられる。
 女性は両瞼を閉じていた。
 どうやら、響の唄に聞き入っていたらしい。
 女性がゆっくりと目を開けた。
「……!?」
 女性と視線を交わした瞬間、響の背筋に悪寒が走った。
 ――何て、冷たくて、暗い目なの。
 女性の眼に宿っている色は、心が底冷えするように暗く、冷たい殺気に似たものを醸し出しているように感じられた。
 威圧的で高圧的な雰囲気が、響の心臓を跳ねあがらせる。
 ――怖い。
 ――ああ、神さま!
 響は足がすくんで動けなかった。
 この女性に殺されるのではないかと思った。

「……良い歌声だ」
 女性が静かに言った。
「えっ?」
 女性は声の雰囲気も冷たいものだったが、紡ぎ出された言葉には真実の響きが含まれていた。
 そして、響は気づいた。
 女性の瞳に、溢れ出るばかりの憎悪に隠れて、哀しみと苦しみが宿っていることに。

 響は少し戸惑ったが、すぐに笑顔で、女性に近づいた。
「ありがとう」
 女性に礼を言うと先ほど手にしていた手帳を彼女に見せた。
 この女性をそれほど恐ろしがることはないと思った。
 この女性は哀しみを抱いて傷ついているんだ。
 響は持ち前の世話好き精神を発揮し始めていた。
「今、歌ってたのはまだ、未完成なの。作詞中ってトコかな」
「……」
「見てみる?」
 響は返事を待たずに、手帳を女性へ渡す。
 表紙には『Lunar』という文字が書かれていた。
 響が所属するバンドの名前だ。
 手帳の中にはいろいろな言葉や、文が、そして、過去の完成品と思われる作品の数々が並んでいた。
 少女の想い、少女の言葉、少女の夢、いろいろなものが詰まっていた。
 響の宝物に違いない。
 女性は手帳を閉じると、響に声をかけた。
「もう少し、歌を聴きたいものだ」
「えっ?」
 女性の言葉に、響は少し恥ずかしそうに、そして、とても嬉しそうに、頷いた。

 それから小一時間ほど、ささやかなコンサートが行なわれた。
 気づけば、かなり遅い時間になっている。
「いっけない。もう、こんな時間。帰らなきゃ……」
 少々慌てた様子で響は、チラッと女性の顔を見た。
 女性は相変わらずの無表情だったが、殺気じみた雰囲気が幾分和らいでいるように感じられた。
 ――少しは役に立てた、かな?
「名は?」
 女性が帰り支度を始めた響に尋ねてきた。
「あっ、まだ、名前も知らなかったんだね」
 響は頬を掻きながら応える。
「私は響。月嶺 響よ。猫ヶ崎高校で『Lunar』ってインディーズバンドを組んでるの」
「……月嶺 響。良い名前だ」  響は微笑んだ。
 熱気の漂うライブの中で歌うのが大好きだったが、こういう静かなところでたった一人の観客を目の前にして歌うのも心地良かった。
「じゃあ、私はこれで…」
 響は軽く頭を下げると、急いで公園を後にした。

 女は本当に久しぶりに心が少し軽くなったのを感じていた。
 そして、そのことに戸惑っていた。
 ――この私が……?
 そんな女を気づかうように、友が寄り添ってきた。
 女は友に応え、手を彼の首にまわした。
 そして、ふと、それに気づく。
 響の手帳がシーソーの上に忘れられていた。
「……」
 女は手帳を手に取ると、丁寧にロングコートの内ポケットへ仕舞った。
 と、女の肩がピクリと震えた。
「……魔の、気配?」
 女が鋭い視線で周囲を見回す。
 だが、公園には、彼女ととも以外の姿はない。
 女は静かに息を吐き、再び、手帳を懐から取り出し、眺める。
 しかし、そこからも少女のあたたかさしか感じられなかった。
 ――気のせいか?
 女は無言で、手帳を仕舞い直すと、友とともに公園を後にした。

 響は、その日、久しぶりにぐっすり眠れることを期待していた。
 今日のコンサートはとても楽しかったから。
 ここ数日、いやな夢を見て、ろくに眠れずにいたのだ。
 いやな夢。
 だが、その内容はほとんど覚えていない。
 起きると忘れてしまうのだった。
 いやな夢。
 その感触だけが頭と身体に残り、再び眠る気にはなれないのだ。
「今日は大丈夫よね」
 自分に言い聞かせるように呟き、響は両眼を閉じた。

「おいおい、大丈夫かよ? 顔色悪いぜ?」
 次の日の放課後、バンドの練習中に、響の異変に気づいたのは、ギター担当の諸刃野(もろはの) つるぎが最初だった。
 彼女は鮮やかな赤に染めた長い髪で、顔の左半分を隠すように垂らした前髪に金色のメッシュをかけている特徴的な容姿をしている。
「響さん?」
 次いで、つるぎに玩具にされていた少年が響に駆け寄ってきた。
 少年は、ドラム担当で、名前は(おおとり) 朱鷺(とき)
 強気のつるぎの尻に敷かれているひ弱な少年というイメージを受けるだろう。
 実際、朱鷺は真面目な優等生、つるぎはどちらかというと不真面目な生徒だったが、実のところ、二人はこの猫ヶ崎高校でも有名な恋人同士なのだ。
 その二人のアンバランスさから、猫ヶ崎高校名物凸凹カップルなどとも呼ばれている。
 だが、つるぎをはじめ、『Lunar』のメンバーは、朱鷺が芯の強い男だと知っていた。
「大丈夫よ。何でもないわ」
 響は、気丈にも仲間に笑顔を見せが、足元がおぼつかない。
「響さん。無理はいけませんねぇ」
 ふらつく響を支えるように、メンバーの最後の一人――髪を金色に染めた少年が手を差し出す。
「秀一郎」
 彼は、風祭 秀一郎。
 朱鷺とは正反対の軟派な性格で、彼を見た人間の第一印象は概して「口が達者な優男」というのが相場になっていた。
 『Lunar』では、ベースを担当している。
 普段は第一印象通りの女の子を口説くことに熱心なだけの男だが、今は響を心から気遣ってくれているようだ。
「本当に大丈夫。ちょっと、寝不足なだけよ」
 響は秀一郎から離れると、椅子に座った。
「寝不足?」
 つるぎが不審そうに尋ねる。
「また、作詞でもしてて徹夜かよ?」
「え、ええ……」
 本当は違う。
 昨日も、悪夢にうなされて眠れなかったのだ。
 体力も気力もなにかに吸い取られたように、響は弱っていた。
「仕方がないな……」
 ごんごんっ。
 つるぎが、響に休んでいるように指示しようとした、ちょうど時、軽音部の部室の扉がノックされた。
 がらがら。
 扉が開き、女生徒が一人、中に入ってきた。
天之川(あまのがわ)か。何か用かよ」
 女生徒の顔を見て、つるぎが舌打ちをする。
「用があるので来たのですが」
 天之川と呼ばれた女生徒は、抑揚のない声で応えた。
「ムカッ……」
 つるぎのこめかみが引き攣る。
「つるぎさん、そんな食って掛かることないでしょう?」
 朱鷺が、つるぎを押しとどめる。
「香澄さん、今日もきれいだね」
 軽薄な態度も露わに秀一郎が天之川と呼ばれた女性とに近づく。
 香澄というのは、この女生徒の名前なのだろう。
「風祭さんに用はありません」
 香澄は秀一郎をバッサリと切り捨て、椅子に腰掛けている響の傍らに移動した。
「香澄ちゃん、私に用なの?」
 しんどそうな声で、響が尋ねる。
「剣道部との合同合宿のことです」
 香澄は剣道部の副主将を務めている。
 響は軽音部の部長であり、また、『Lunae』のリーダーである。
 香澄は夏に剣道部と『Lunar』で行なう合同合宿の内容の話をするために来たようだった。
「おいっ、天之川、見てわかんないのか?」
 つるぎが朱鷺を振り払って香澄に詰め寄った。
「響は調子が悪いんだ。話なら、あたしが聞いてやるから、響は休ませてやれよ」
「……ごめんなさい」
 香澄はキロリと響の蒼白な顔を見て、自分の不明を謝るために頭を下げた。
「本当に辛そうですね。大丈夫ですか?」
「え、ええ、ごめんなさい」
「本当にごめんなさい。お話は今度にしましょう」
 香澄はもう一度軽く頭を下げる。
「よし。響、もう帰って休んだ方が良いよ」
 いつになくやさしく、つるぎが響に言い聞かせるように言う。
「うん、ごめんね」
 響も素直に頷いた。
「そうですね。涼風(すずかぜ)さんに送って行ってもらいましょうか?」
 香澄が思いついたように言った。


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