ザザザーッ、と森林に積もった落葉が、水のように切り裂
かれていく。吹き上げられた落葉が波のように揺れ、再び深
閑とした立冬の大地の上に沈んでいく。その小型エア・クラ
フターの描く軌跡だけが、森林の奥へ奥へと伸びていく。
小型エア・クラフターの上には、二人の男が風にあおられ
て立っていた。二人とも、水色を基調とした、ジャンパー・
スーツ姿だった。フロイ統合管理機構のユニホームである。
腰のベルトの左右に、白いポケット・ケースを付け、左胸と
左肩の下に、フロイの全景をデザインした、フロイ統合管理
機構の徽章がついている。
小型エア・クラフターを操縦している青年は、ビル・フォ
ードといった。フロイ統合管理機構第八管区所属の、総合科
学要員である。そしてもう一人は、高杉光一だった。ビル・
フォードよりは、ひとまわり年配である。高杉は、フロイ統
合管理機構第八管区総合科学主任の肩書きをもつ。この総合
科学とは、ここでは文字どおり総合的な科学をさし、新しい
科学文明基盤へ向けての、ニュー・パラダイムの建設に当た
っていた。
「すっかり寒くなったな」高杉は、片手をポケットに突っ込
み、きちんと刈込んだ黒い髪をなびかせながら言った。
「ええ、」ビル・フォードも、豊な褐色の髪をなびかせ、高
杉に微笑してうなずいた。首に、防寒用の白いマフラーを差
込んでいる。
高杉の方は、艦隊の帰還セレモニーのままで、コバルト・
ブルーのネクタイをきちんと結んでいる。襟と胸のポケット
の上にも、まだ艦隊勤務での臨時階級章が付いたままだ。高
杉の査察巡航作戦での身分は、小佐だった。
高杉は、ひどく疲れていた。また、ひどく緊張もしてい
た。が、エア・クラフター上で、額に風を受けながら、今は
ただボンヤリとしていた。極度の疲労と、大きく期待のふく
らむ緊張の中で、彼はこうした“時”の移りゆくのを静かに
楽しんでいた。
査察巡航作戦における高杉の任務は、旗艦オリオンを離れ
た時点で終了している。が、今や彼の本来の職務の方に、一
大事件が勃発していたのだ。三年近くもの間、息をのむよう
に待っていた異変が、ついに起こったのである。そして、こ
の地球ガイア・システムに関連すると思われる異変こそは、
人類の科学文明史上、まさに最大の出来事となる可能性が大
きかった。
しかし、コトの重大さとは裏腹に、艦隊帰還のような大セ
レモニーもなく、寒々とした立冬の森林の奥への急行だっ
た。もっとも高杉自身、いまさら気にもしなかった。総合科
学者として、そうしたことはすでに身にしみて知っていたか
らである。彼等にとっては、真理の探求こそが全てだった。
ビル・フォードは、チラリと高杉の方を見た。そして、軽
く足を踏ん張った。アクセルをしぼり、小型エア・クラフタ
ーを傾け、大きくカーブを切っていく。高杉も、ポケットか
ら手を出し、両手で安全フレームをつかんだ。そして、無言
でビル・フォードに合せ、重心を傾けた。エア・クラフター
は、時速60キロメートルで軽快にカーブを切り、ユラリと
大きく揺れ戻した。落葉が、ザーッ、とひときわ大きく片側
へ吹き上げられていく。
「もうすぐです、主任」
「ああ、」
「これで、いよいよ、ポイント・ゼロ・プログラムが発動に
なりますね」ビル・フォードは、若者らしく、屈託なく笑っ
た。
「しかし、ビル、それは大変なものだぞ」
「ええ、分ってます・・・ああ、それから、聞きましたか、
主任。やはり、7.5ヘルツの電磁波のレベルが、急激に高
まっていました。これは、帰還セレモニーの騒ぎが関与して
いるんでしょうか?」
「たぶん、そうだろう。意識ホログラムのコヒーレンスな流
れが、急激に高まったためだ」
エア・クラフターは、直線コースで数秒間加速した。そし
て、ゆるいカーブに入ると、ゆっくりと減速に入った。高杉
は、安全フレームを握りしめ、油断なく上空や周囲の森林を
観察した。もっとも、具体的な目標物を捜しているわけでは
なかった。空中や森林に拡散した、残留エネルギーや残留思
念、残留サイ波動を感知しようとしたのだ。
むろん、すでに十分な初動捜索がされているはずである。
が、ただ、こうした感応には、個人差、生物学的な意味での
“個体差”というものが常にあった。したがって、単に意識
感覚やESP(超感覚・・・テレパシー、透視、予知など)
能力が強力なら、それでいいというものではなかった。その
人間の全体である“人格”が、強く影響するからである。ま
た、場合によっては、選ばれた者、エリートというものが濃
厚に反映することもある。しかも、探査の対象が未知の領域
となれば、なおさらこうした人間原理ストーリイの、不確定
性要素が強く出てくるのである。
「どうですか?」ビル・フォードが聞いた。
「ふむ、何もないようだ、」
それから、高杉は最後に、チラリと後の方を振り返った。
が、その瞬間、ほんの一瞬だったが、彼の意識が、何かとほ
うもない巨大なものに触れた。計測もできないような、巨大
なサイ情報系の塊だった。しかし、これほどのサイ・エネル
ギーの蓄積は、むろんフロイには存在しないはずだった。当
然、考えられるのは、地球生態系で蓄積したサイ・エネルギ
ーである。
<ここで言うサイ・エネルギーとは、サイ現象のエネルギー
をさす。サイ現
象とは、簡単に言えば、ESPや念力、バ
スター効果、霊的現象など、これまで地球上で超常現象とさ
れてきた全般である。超微粒子によるサイ粒子群、サイ波動
も、このエネルギー系の形態とする。また、このエネルギー
系により、サイ情報系が形成されるものとする。むろん、こ
れは我々の世界の現象の一つの側面であり、最終的には一般
エネルギー系と統一されるものとする。>
「前と同じでしょう、主任・・・ESPアナライザーにも、
目新しいものはかかっていませんから・・・これは、本当に
“形態形成場”のパワーなんでしょうか?」
高杉は、ビル・フォードを片手で制した。そしてもう一
度、さきほどと同じように、チラリと後方を振り返ってみ
た。が、すでに、感知できるものは何も存在しなかった。一
帯の森林にも、フロイの空にも・・・
「ビル、念写テープを持っているか?」
「いえ。しかし、ESPアナライザーは、予備が何台もあり
ます。何かキャッチしたんですか?」
「ああ・・・すごいものをな、」
「どんなものです?」
「ビル、まさに、驚くべきものだ。しかし、口で言うより
は、念写を見てくれ。そのほうが正確だ」
「はあ、」
「本当だ。ま、見れば分る。まるで計測不能なサイ情報系の
塊だった。巨大な超意識体だ」
「本当ですか!」
エア・クラフターが、グラリと揺れた。
「ああ、」
「しかし、主任!」
「とにかく、念写を見れば分る。やはり、何かが動き出して
いる」
「はい・・・そうですね・・・」
高杉は、葉のすっかり落ちた白樺が、ゆっくりと目の前を
過ぎていくのを眺めた。その白樺の木立の中に、エバート時
間研究グループのエバート女史が立っているのが見えた。若
い女と老技師と一緒に、何かを測定しているようだった。
彼等は資材小屋の前で、小型エア・クラフターを降りた。
高杉は、問題の小高い笹山の方に目を投げた。その、まだ緑
を残している笹山一帯を、腰のポケット・ケースのESP増
幅装置を使い、捜索した。変ったものは何もなかった。それ
で、今度は鋭く思念をしぼり、虫メガネで覗くように、あた
り一帯を細密に点検していった。
まだ、水パイプ破裂の残留物である、パラダイス・スノー
(天国の雪)の降った痕跡が残っている。笹薮や落葉が、か
すかに濡れている。しかし、前の二回までは、笹山まで及ん
だことはなかったのだ。
このパラダイス・スノーというのは、問題の未確認エネル
ギーの噴出によって、水パイプ中の水が変質したものと考え
られている。が、これは、実際にはスノーというよりは、灰
の感触に近いものだった。ただ、二時間前後で解けて水にな
ってしまうので、パラダイス・スノーと名付けられたのであ
る。が、パラダイスが、パラダイム(特定の科学の基礎とな
っている、支配的な理論的枠組み)と発音がよく似ているこ
とから、科学者たちの中にさえ、パラダイム・スノーと呼ん
でいる者が多い。しかも、超大型実験人工島フロイの最大課
題は、まさに文明のパラダイム・シフトにあったのである。
フロイを建造した“ビッグ・フロイ計画”も、このパラダイ
ム・シフトの推進にあり、そうした意味でも、しっくりとし
ていたわけである。
このパラダイス・スノーという奇妙な新物質では、特に水
素原子が強い影響を受けていることが分っている。が、この
水素原子への影響一つを取ってみても、これまでの素粒子論
では説明のつかないものだった。むろん、サイ・エネルギー
理論体系からのアプローチも、試みられてはいる。が、こっ
ちの方も、まだ手の届きそうもない状況である。サイ・エネ
ルギーやサイ情報系は、理論体系そのものが、まだ未成熟な
段階なのである。が、このサイ・エネルギーが、近々地球を
一つの有機生命体として覚醒させることは、十分な予測がで
きていた。また、その全サイ情報系によって再構成されるグ
ローバル・ブレインは、地球ガイア・システムの、超人類的
な頭脳にあたるものと考えられている。これは、人間でいえ
ば守護霊に相当するようなものだが、その威力は、人間には
測り知ることもできないほど偉大なものだと推定されてい
る。これは、ちょうど一つの白血球や、一つの脳細胞が、人
間全体を知ることができないようなものである。そうした、
人類の集合体をはるかに超越した上位ホロンが、そこに全く
新しく顕在化してくるのである。
(ホロンとは、亜全体である。これは、下位に対しては全体
として君臨し、上位に対しては部分として振る舞う概念。た
とえば、人間の各器官は、下位
の細胞に対しては全体とし
ての顔を持ち、上位の人間全体から見れば、部分
として振
る舞う。また、細胞は、下位のミトコンドリアや核に対して
は全体としての顔を持ち、上位の器官に対しては、部分とし
て振る舞う。)
高杉は、笹山の下に広がる雑木林を透かし、水パイプ分岐
点にいる二人の男を眺めた。それにしても、そこにたった二
人しかいないというのは意外だった。おそらく、最初に押し
寄せた連中は、サンプルやデータをかき集め、そそくさと引
き上げていったものらしい。
道の終点の方は広場だった。そこに、木造の資材小屋が二
軒並んでいた。小屋の前に、輸送用大型エア・クラフターが
二台あり、数人の技術要員が資材を下ろしていた。他に研修
生が何人かいて、万能工作ロボットを使って何かを組み立て
ていた。
研修生は、高等専門教育課程を終了した、科学者の卵たち
である。彼等は研究基地の中で、雑用と研究補助に従事して
いる。これは高杉自身も経験していたが、最先端科学の現場
から、クラブのウェイターまで含まれていた。が、そうした
中で、むしろ大科学者に接するチャンスも多かったし、話を
聞いたり、親しく声をかけてもらうこともできた。しかし、
そんなことよりも何よりも、この研修生の二年間は、科学者
としての将来を決定する重要な時期と言われている。つま
り、頭脳がもっとも柔軟であり、大発見や大理論なども、こ
の時期に芽生えることが多いからである。
高杉は、作業に当たっている連中に手を上げた。それか
ら、小屋の前に放置されていたESPアナライザーを使い、
例の巨大なサイ情報系の塊を念写した。作業をしていた技術
要員や研修生たちも集まってきた。ザワザワと騒ぐ中で、高
杉は何度も念写をくり返した。そうしていると、研修生の一
人が、そっと高杉の背中に手をかけた。振り返ると、ナンシ
ー・カーマイケルだった。彼女はそっと笑って見せ、高杉の
背中に当てている手に力を入れた。
その後、高杉は一人抜けだし、水パイプ分岐点の方へ歩い
た。雑木林の山道を少し行くと、後ろの方で、ザッ、ザッ、
と落葉を踏む音がした。ナンシー・カーマイケルが、彼に追
いついてきていた。ほっそりとしたソバカス娘で、長い栗毛
の髪が美しかった。ナンシーは、高杉の腕を取り、スキップ
を踏むように、落葉をかき分けた。
「どうした?」高杉は、ナンシーの後に腕を回した。「素敵
な恋人は、まだできんのか?」
「恋人はいるわよ。ここに、」ナンシーは、まだ少女っぽさ
の抜けない顔を紅潮させ、髪をサラリと振って見せた。
「安っぽい恋人だ」
「勉強の方が大変なのよ」
高杉は、彼女の棒の様な腰を抱き寄せ、ブラリ、ブラリ、と
歩いた。そして、ナンシーの髪をなで下ろした。まだ、こん
な頼りない体をしている娘だが、今期第二階生の中では、上
位にいた。が、それ以上に若杉は、彼女の着想の良さに舌を
まくことがしばしばあった。
「もう、行かなくちゃ。後で会えるかしら?」
「いや、この騒ぎでは無理だ。それに、ひどく疲れてる」
「それじゃ、明日は?」
「考えとこう」
「きっとよ、」ナンシーは、立ち止まった。高杉に、グイと
腰を押し付けた。それから、髪をフワリとなびかせ、資材小
屋の方へ走ってもどった。
高杉が、査察巡航作戦に駆り出されたのは、一ヶ月前であ
る。が、今はこのあたりも様相が一変していた。出かけた時
は、雑木がまだ鬱蒼と茂っていたものだ。それが今は、全て
がガラリと透けて見渡せる。200を越えるセンサー類も、
そのほとんどが見えている。それらのセンサーの一つ一つ
が、高杉にはなつかしかった。それぞれの機能、干渉、ク
セ、理論的信頼性の幅など、全て知りつくしていた。これま
で、それらのデータの流れに、一喜一憂の日々を送っていた
のである。
それにしても、このフロイの内殻は、完成してからすでに
十六年がたつ。最初の三年間は、樹林の成長は地球の自然環
境の四倍で促進された。そしてそれ以降は、完全に地球の自
然環境に合わされてきている。十六年間、樹林や原野は順調
に成長し、年々落葉を降り積もらせてきたのである。その腐
葉土からできた本物の土の感触が、疲労している高杉には心
地よく、ひどくなつかしい感じがした。が、十六年間程度で
は、とても本物の土壌とは言えないのかもしれない。将来、
数十年もたてば、ようやく本物らしい森林や、本物らしい土
が出来るだろう。が、現在は、こうした土壌そのものが、宇
宙文明にはほとんど存在していないのである。
水パイプ分岐点の破裂した所に、前回と同じように、沼の
ような水溜まりが出来上がっていた。その水溜まりの上に、
数体の観測機材が、岩のように頭を出している。その観測機
材の一つを使い、一心に作業をしているのは、周永峰だっ
た。そして、その水溜まりのほとりの監視小屋の前で、ボン
ヤリと突っ立っているのは、東タクだった。両名とも、フロ
イ統合管理機構の要員である。
「おい、東!東じゃないか!」高杉は、木立の中から手を振
りかざした。
東も、ボンヤリと高杉の方を見ていたが、ようやく手を振
り上げて笑った。
「おう、高杉か!いつ帰った?」
「たった今だ!ここへ直行だ!」高杉は、ザワザワと、大股
で落葉をかき分けた。
「ハッ、ハッ、ハッ!」
「全部見たのか?」高杉は聞いた。
「ああ、見たとも!すごいものだった!」
東と高杉は、同期性だった。中等教育課程最後の地球研修
旅行でも、ずっと一緒に行動をとった仲である。
東は、高杉が査察巡航作戦に駆り出されている間、この第
八管区に臨時移動になっていたのである。しかし、本業は社
会科学者であり、フロイ統合管理機構の総局に勤務してい
た。そこで、古武道の教官も務めている変り種だった。子供
時代以来の趣味が高じ、とうとうその教官にまでなった男
である。
高杉は、半径50メートルの、集中センサー・ブロックに
入った。そこは、雑木林がきれいに刈り払われていた。そし
て、一帯の濡れた落葉が、ひどく踏み荒らされていた。が、
これはいつものことだった。高杉には、一刻前までの混乱し
た状況が、手に取るように分った。
「だいぶ、パラダイス・スノーで濡れているな」高杉は、落
葉を足でかき回して言った。
「ああ。今度は大量に降った」東は、低い声で言った。古武
道の教官らしく、ボンヤリと突っ立っている姿にも、スキが
感じられなかった。
「うむ。これだけ濡れてりゃ、相当なものだ」
問題の水パイプ分岐点は、水溜まりのほぼ中央だった。そ
の真上あたりで作業をしている周永峰は、第八管区技術部長
である。痩せていて、ひどく長身で、野外活動が多いため
に、浅黒く日焼けしていた。高杉が、最も敬愛している上司
の一人だ。
それにしても、東と周永峰がここに残っていたのは、高杉
にとっては奇遇だった。この程度のものが“共時性”(意味
のある偶然の一致)と呼べるかどうかは別だが、フロイでは
確かにこうした偶然性が増加してきている。これは、純粋統
計的にそうなのである。もっとも、“共時性”ばかりでな
く、ESP(超常的感覚)の純化と拡大も起こっていた。こ
れは、理論的予測では、すでに臨界量に到達した地球のサ
イ・エネルギーの海が、形態形成場(生命現象において、過
去や現在に存在した、あるいは存在する“同種”の間には、
時空を越えたつながりがあるとする概念。それが“種”の共
通現象として、繰り返し現れてくる)の超サイクルを通っ
て、フロイの回転内殻の中に影響しているからだとされてい
る。むろん、この水パイプ分岐点の破裂も、ついさっき出合
った巨大なサイ情報系の塊も、そうした理論上で考えられて
いることである。
それにしても、ESPの純化拡大や“共時性”(意味
のある偶然の一致)の増加は、人間にとってはきわめて都合
のいいものだった。これは冗談ではなく、きわめて高度な
“人間原理”の問題なのである。
また、フロイでは、こうした目に見えないものに対し、か
なりの期待を寄せてもいた。さらに、“ビッグ・フロイ計
画”全体としても、相当な確率の、未知なる必然性が流れて
いるはずだった。そして、こうした不可解であり未知な要素
は、フロイの社会全般を陽気にしていた。が、別の一面で
は、陰口をたたかれ、けなされたりもしていた。しかし、い
ずれにせよ、ESP拡大の文明的影響もさることながら、
“共時性”といわれる意味のある偶然性の増加は、さまざま
な方面に、文明基盤を再構成するような波紋を押し広げてい
たのである。
「周!」高杉は、周永峰に声をかけ、挙手の格好をして見せ
た。
「ああ、高杉、帰ったか・・・」周永峰は、観察メカから顔
を上げ、腰を伸ばした。
「ええ、ただ今帰りました」
「大変な騒ぎになった。とにかく、高杉、こっちへ来て、こ
れを見てくれ」
「ええ・・・ま、一息つかせて下さい。セレモニーから、す
っとんできたもので、」
「ふむ、」周永峰は、笑って優しげにうなずいた。非常に長
身なせいか、薄い肩がややネコ背になっている。「それから
でいい」
周永峰は、また観察メカの方に顔をもどした。
「ところで、東、パラダイス・スノーだけでなく、パラダイ
ス・フラワーも降ったそうだな」
「ああ、そう・・・雪の結晶のようだが、掌ほどの大きさの
やつが降ってきた。豪快な眺めだった。薄っぺらで、半透明
で・・・うーむ・・・ちょうど雲母のような感じだった」
「硬いのか?」
「いや・・・まあ、柔らかくはない。しかし、とにかく薄い
んだ」
「で、それも全部解けてしまったのか?」
「ああ。ここではもうみんな解けてしまったよ」
「成分は?」
「パラダイス・スノーと同じらしい。ただ、全部ではない
が、いくらかは、明らかに変ったものがあった」
「ほう、」
「金属的な色というか、ピカピカに磨き上げた銅板のような
色といったらいいかな。とにかく、この我々の世界では、説
明できないような色彩だった」
「ふーむ、金属的な色彩か・・・で、そいつも解けたの
か?」
「ああ、ここでは解けた。解けた水の分析は、現在進行中だ
ろう」
「サンプルの方は、何とかなりそうか?」
「分らんな」東は、首を振って見せた。「周永峰の話では、
どうもダメらしい。あらゆる手を尽くしているんだろうが、
みんな解けて水になってしまう」
「そうか・・・パラダイス・スノーと同じか。サイ・エネル
ギーによる封じ込めは?」
東は首を振った。
「じゃあ、超低温の方は?」
「さあ、」東は、同じように首を振った。
「金属水素や、スピンをそろえた水素原子の中へ封じ込めた
はずだが、」
「ああ、ロザリンのグループのやつか」
「うむ、」
「成功したとは聞いてないな。もっとも、どれも今頃が正念
場だろう。しかし、ゼロ点波動や、振動波を合せただけでは
な、」
「いや、これも物質には違いない。振動波を合せるというこ
とは、大事なことなんだ。振動は、ともかく、この世界の基
本だからな」
ところで、これまでも、パラダイス・スノーの解けた水
は、分析しても純粋な水としか理解できない。収束した未確
認エネルギーが、水パイプの中の水に強い影響を与え、それ
がパラダイス・スノーに変質したと推定されている。そして
、再び水にもどったということは、おそらく未確認エネルギ
ーが消失したことを意味しているだろう。が、それでは、消
失して、そのエネルギーは何処へ去ったというのだろうか。
何処からやって来、何処へ去ったのか。しかも、今回は、ス
ノーだけではなく、フラワーまで降ったわけである。これ
は、未確認エネルギーのレベルが、一段と高まったためだと
考えられる。
しかし、いずれにせよ、この水パイプの分岐点は、今回で
三度目の破裂である。高杉たちも、ポイント・ゼロ・プログ
ラムの発動を当て込んで、万全な観測体制を敷いてあった。
したがって、マイクロ・セコンド単位での水の消失質量、パ
ラダイス・スノーの出現速度とその総量をはじめ、200基
以上の精密センサー類が、この特異場の現象を補足している
はずである。
これまでに、同僚のアレクセイエフ・ロマノフが、偶然に
パラダイス・スノーの解けた水から、安定化した水素原子の
単体を見つけている。こんなものは、自然界には存在しない
ものだった。むしろ、安定した水素原子ガスを作り出すため
に、大変な努力を重ねた時代もあったのだ。これは、水素原
子がきわめて活性で、水素分子を形成したり、他の原子や分
子と結合してしまうからである。ところが、この問題の水の
中には、フラチにも、いたってのんびりとコトを構えている
やつが、相当数あった。もっとも、相当数といっても、水1
リットルを分子数に換算すれば、莫大な数量である。そうし
た水の中に、極微量含まれているということである。それ
も、不活性のために、本来の水素原子の働きをしない。アレ
クセイエフが見つけたのは、微妙なスペクトル(光を分光機
を使って分解し、波長の順に並べたもの)の解析からの推理
だった。
この安定化した水素原子の存在は、物理学的な側面推移だ
けを見ても、かなり根源的な現象にまで遡っていく。なぜ、
この安定化した原子状の水素が問題になるのかと言えば、こ
れが唯一“ボーズ/アインシュタイン凝縮”を起こす“量子
気体”だからである。唯一の“量子液体”である液体ヘリウ
ムの方は、超流動などの奇妙な現象を起こすことは、古くか
ら知られている。が、“量子気体”であるこの水素原子ガス
も、さらに奇妙な性質を示す。これらは、高温に特有な無秩
序運動とは異なり、絶対零度近くでの量子的コヒーレンスな
運動が、マクロ的レベルにまで拡大されるからである。光が
コヒーレンス(波の振幅、周波数、位相が、時間的にも空間
的にも一定であること)に収束した場合、レーザー光線とい
う脅威的な威力を示す現象に、よく似ていると言える。
ところで、この常温での何気ない安定化した水素原子の何
処かに、超空間共鳴現象、形態形成場の超サイクルにシンク
ロできる、何等かのカギがあるのではないかと考えられてい
る。むろん、形態形成場の効果は、物質レベルにもある。そ
して、有機生命体レベル、さらに意識精神レベルでも顕著と
考えられる。こうした超サイクルの実質的解明は、これから
本格化していくと考えられる。
いづれにしても、この水パイプ分岐点が、ポイント・ゼロ
となることは確実となった・・・そうなれば、全人類を巻き
込んだ、ポイント・ゼロ・プログラムが発動することにな
る。それにはまず、フロイの全能力が、この座標の解明に動
き出す。そして、地球、火星、アステロイド、その他の宇宙
コロニー群も、続々とこれに参加してくるだろう。もとも
と、“ビッグ・フロイ計画”そのものが、こうした汎太陽系
的なプログラムなのである。これは、すでに地球ガイア・シ
ステムが、新しい進化の段階に突入していると考えられてい
るからである。そして、これまでに数々の理論が予測してい
るように、そうなればグローバル・ブレインや、その影響座
標であるガイア・フィールドが動き出すと考えられている。
そして、この地球ガイア・システムの覚醒及び成長と共に、
モ・サピエンスの文明にも、ニュー・パラダイムの一大変革
期が押し寄せてくるものと推定されている。
「それで、」と、考え込んでいる高杉に、東が言った。「そ
っちの査察巡航作戦の方はどうだった?」
「ああ・・・相変わらずさ。雑魚を相手に、大機動艦隊を動
かして遊んでいるだけだ。しかもその雑魚も、どうもダミー
じゃないかって話まで出てくる始末だ」
「ふむ、」東は、彼の癖で、下唇を舐め回し、ほくそ笑ん
だ。「ま、必要なのさ。アウト・ロー共の、頭を押さえ付け
ておくためにはな。それに、軍内部の引き締めと、移動もあ
るんだ。将軍連中には、武勇伝と勲章で、花道を作らなきゃ
なるまい」
「そりゃ、そうかも知れんが、引回されるこっちはたまった
ものではない。すっかり睡眠不足だ。そうやってシゴくの
を、訓練だと思ってる」
東は、笑って頷いた。
「で、今回は、フロイからは何人だった?」
「306人だ。民間から235人、統合管理機構から71
人。しかし、おれは一人で抜け出してきた」
「よく出られたもんだ」
「この管区の、総合科学主任ということでな。が、実際に
は、ソレンセンの野郎に、強引にネジこんだんだ。あいつも
今度、中佐に昇進した」
「ほう。あいつが中佐かねえ・・・たぶん、威張ってるんだ
ろうな」
「いや、ソレンセンも変ったさ。威張っているというより
は、キレ者だな。エリートだが、幕僚タイプだ」
「ほう・・・」
「信頼もされてるし、評判もいい。軍が、水に合ってたんだ
ろう。結局、そういうことだ」
「うむ。ま、何もなけりゃ、きわめて閉鎖的な社会だから
な。軍事機構や警察機構なんてものは、無くても在っても厄
介な代物だ」
「文明の保険だからな」
「いや、高杉、それほど消極的なものでもない。存在するこ
とそのものが、社会秩序保持の威力なんだ。人間とはそうし
たものだし、基本的なことだ」
「なるほど。社会科学的な、人間の側面か、」
後ろの観察小屋の前に、手作りのベンチが二つあった。杭
を打ち込み、雑木を何本かわたしてあるものだ。これまでは
一つだったのが、新しいのがもう一つ出来ていた。
高杉は、そっちの方へ歩いて行き、ベンチに腰を下ろし
た。雑なものだが、座り心地は上々だった。必要な時に、必
要なものがあれば、それは最高のものだった。そこから高杉
は、水溜まりの中で膝まで水に浸かっている、周永峰を眺め
た。
周永峰は、また水の上に出ている観察メカを操作してい
る。真剣で、一つ一つ小気味よい手さばきだった。水中をフ
ァイバー・スコープで覗き、マニュピレーターの感触を確か
めているようだ。フロイの科学者たちは、よく、こうした感
触や意識感覚や直観力という、人間的側面を大事にすると言
われる。しかしこれは、“人間原理”という、ナマの対象と
取り組んでいるからである。そして一方、洪水のようなデー
タの収集処理評価等の煩雑な仕事は、全面的にマザー・コン
ピューターと、管区管制コンピューターにまかせてしまうこ
とが可能だからだった。
高杉は、周永峰と一緒に仕事をするのが好きだった。それ
に、周永峰の仕事ぶりを見ているのも好きである。陽気で、
真剣で、一つ一つの動作に自信と確信を込め、的確に仕事を
処理していく。そうした周永峰を見ていると、問題に行き詰
ることや、解決不可能な問題など、およそ在り得ないように
さえ思えてくる。そうした行動や動作の中に、一つの方法論
的な哲学が確立されているようにも見えた。
周永峰は、第八管区技術部長だが、専門は宇宙人工島工学
である。そして、その分野では、全太陽系の中でも、現役の
第一人者だった。特に、宇宙人工島や、核融合炉、大型宇宙
実験施設など、巨大システムの危機に際し、数々の武勇伝を
記録している。その彼の危機管理能力は、宇宙コロニーのマ
ザー・ブレインの解析能力などとは、別種のものだと言われ
ている。いわば、それは、天性の直観力から来るものらし
い。が、いずれにしても、この周永峰こそは、“ビッグ・フ
ロイ計画”にとっても、またSOL50宇宙コロニーにとっ
ても、最も貴重な人材の一人なのである。
これまで、周永峰のなしとげてきた危機管理の足跡は、詳
細に記録されている。また、分析も、研究もされ、太陽系コ
ンピューター・ネットワークに情報提供もされている。した
がって、システム的には、同じ危機は二度と起こらないはず
だった。しかし、危機や破局の可能性は、エントロピー増大
宇宙の中では、それこそ無限大の組合わせが用意されてい
た。そしてそれは、大宇宙の人間ストーリイの運河化(カナ
リーゼーション)により、きわめて人間的にくり返されてき
たわけである。
それにしても、如何に自動システムが完備しても、結局そ
れは人間の補助でしかない。文明は絶えず変化し、前進して
いるのである。そして、それを統制支配しているのは、我々
人間なのである。が、さらに、有機生命体としての広い視野
から眺めれば、そうした人間的なミスというものは、必要な
のかもしれない。そうしたミスを侵す柔軟さが、よりフレキ
シブルに未来へ対応していく、適応の縦深構造なのかも知れ
ない。もし人間にとって、何かが完成し、それで完璧という
ようなものが出来上がってきたらどうだろうか。文明も生命
も、つぎつぎにその完璧性を押し広げ、やがては全ての大完
成、全ての大停止に突き当たってしまうだろう。我々の宇宙
に、カオスや不確定性原理が導入されているのは、まさに幸
いというべきである。そこに、進化や発展や無限のストーリ
イが描かれていくからである。また、“人間原理”の視野か
ら見れば、その完璧性が無いがゆえに、この世界は完璧とも
言えるわけである。
それにしても、連綿と続く無限のストーリイ、それを集め
て流れる歴史の大河とは一体何なのだろうか。文明的レベ
ル、あるいは社会的規模の愚行は、戦争の歴史の中に最も顕
著に見ることが出来る。戦争は、実に、人間的な誤謬のショ
ウ・ウインドウのようである。そもそも戦争とは、相互の誤
謬から始まると言われるが、それ以降、各レベルの珍妙な誤
算が、くり返しくり返し、命がけの真剣さで演じられてい
く。そして、宿命的な人間的誤謬のくり返しは、現在もな
お、この宇宙コロニー文明の中で演じられているのである。
怠慢、過信、偏見、単純ミス、そうしたものの相乗効果が、
しばしば巨大な破局やニア・ミスを生み出している。
しかし、それにしても、こうして営々として流れ続けてき
た人間性の本質というものを、今後どう評価していくべきな
のだろうか。これが、いわゆるホモ・サピエンスの文明であ
り、我々の歴史そのものだからである。もともと豊な感情の
波は、二律背反的な感性の波動から生まれる。そしてそれ
は、生きていくための、快不快の原初的な分裂から始まって
いるのである。また、そうした誤謬や愚かさにも、それぞれ
に真実の光はあるのであり、それゆえに、我々はそれを愛し
てきた。しかし、グローバル・ブレイン覚醒後のホモ・サピ
エンスの進化は、高シナジー(共に動く)社会への移行と言
われる。文明のパラダイムが、二律背反や因果律の色彩か
ら、統一的無境界へシフトすると言う。これは、仏の言われ
た“涅槃”の世界であり、キリストの説いた“神の王国”で
あろう。そこは、いわゆる苦しみの無い、欲望のみの満たさ
れた世界というわけではない。苦しみも欲望も共に超越し
た、そうした分裂や波動の無い、統一的無境界なステージな
のである。しかし、そうした時、人間的誤謬の楽しさや、激
しい感情のうねり、愛すべき“個体差”や孤独感は、どの様
に彩られていくのだろうか。
あるいは、こうした豊な感情は、旧パラダイムにおける、
単なる感傷にすぎないように思えてくるのだろうか。生命に
は、本質的に目的性や進化の段階があり、こうした豊な感情
の時代も、青春のように、容赦なく通り過ぎていく、一通過
点なのだろうか。原核細胞の段階から、真核細胞の段階へ。
そして、単にエサや光を求める段階から、雌雄の段階へ。さ
らに、雌雄でも、群生からより高度で緊密なペアへ。そして
最後に、羞恥心と抽象概念をもつ、ホモ・サピエンスに至
る。しかし、そのさらに上位のステージとなると、一体何が
待っているのだろうか。唯一、我々ホモ・サピエンスにも透
かしてかいま見えるのは、ESP(超常的感覚)の拡大や、
トランス・パーソナル(超個的)な世界、そしてニルバーナ
(涅槃)の統一的無境界世界等である。そして、その先を知
ることができるのは、上位ホロンのグローバル・ブレインと
いうことになるのかも知れない。
高杉は、監視小屋からブーツを出してきてはいた。防水カ
バーを膝の上まで引き上げ、ザブザブと水溜まりの中へ入っ
た。手で水をすくうと、ひんやりと冷たかった。もう、十二
月なのだ。高杉は、水に浮いている落葉を二、三枚すくい上
げ、注意ぶかく観察した。それから、落葉を握りつぶしてみ
た。特に、変質している様子は見られなかった。
「周、どんな状態ですか?」
「うむ、」
周永峰は、おもむろに、観察メカのファイバー・スコープ
の接眼部から顔を上げた。日焼けしている顔をゆるめた。ひ
どく長身の上、日焼けした額が、ずっと上の方まで禿げ上が
っている。
「とにかく、見てくれ、」
「ええ、」
高杉も、観察メカから、もう一本の接眼部を引き上げた。
そして、電子回路を切換え、水底の様子を覗き込んだ。
「ほう・・・こいつは、すごいですね、」
「ああ。前の二回とは比較にならん。破裂ではなく、爆発だ
った」
周永峰は、精巧なマニュピレーターで、破裂した水パイプ
の端を、小さく弾いて見せた。内径50ミリの、特殊加工さ
れた鉄パイプである。その特殊鋼が、ポキッ、と欠け落ち
た。
高杉は、息を詰めた。まばたきもせず、水中のマニュピレ
ーターの動きを追った。マニュピレーターは、水パイプや、
まわりの近接観測機材を、つぎつぎに突ついていった。特殊
鋼も、ニッケルも、セラミックスも、プラスチックも、全て
同様に変質していた。むろん、薬品に侵されたものではな
い。酸化したのでもない。強いて言えば、物質がその結合力
を失っているような状態である。このことは、パラダイス・
スノーの、安定化した水素原子にも共通していた。つまり、
分子間結合力を失っているのだ。金属にいたっては、結晶化
をやめてしまっているように見える。が、水素原子の場合、
時間と共に、徐々に分子が形成されていった経緯がある。こ
れはおそらく、今回もそうだろうが、未確認エネルギーの有
力な手掛かりである。今回は、この方面でのアプローチは、
相当に進みそうだった。状況によっては、ポイント・ゼロ・
プログラムの突破口になる可能性もある。
「見たまえ、高杉・・・ほら、落葉や枯れ枝は、何ともな
い」
「ええ。プラスチックは崩れましたね。バクテリアやウイル
スは?」
「そっちの方は、現在分析中だ」
「それにしても・・・」高杉は、つぶやくように言った。そ
して、ファイバー・スコープの倍率を高め、同軸のマニュピ
レーターを操作した。
「このあたりの鉄やニッケルだが、金属疲労のようなものに
近い。高杉、こっちの鉄パイプのマルティンサイトの相を見
てもらいたい。破裂の中心点から、2メートル離れた所から
採取したものだ」
周永峰は、観察メカを操作し、その鉄パイプをディスプレ
イ上に映し出した。
「どうだね?現段階ではまだ詳しいことは言えんが、念力な
どのサイ・エネルギーを加えた破断相とは、明らかに異なる
だろう。金属疲労に近いと言うのは・・・ほら、このあたり
のマルティンサイトの相だ」
「ええ・・・この群粒は?」
「今のところ、分らん。全く初めて見るものだ」
「そうですね・・・」高杉は、マーカーを使い、丹念に画像
チェックを進めた。「しかし、この状態で、ポキッと折れる
んですか?」
「いや、このあたりは折れない。分岐点から、もう2メート
ル以上離れてる」
ひと通り見終わると、高杉は腰を伸ばした。おおきく息を
吐き、空を見上げた。ブルッ、と肩を縮めた。さすがにフロ
イの中は、もう立冬の季節だった。高杉は、疲労と寒さを感
じながら、ようやく一段落ついた気持ちになった。この三度
目の破裂は、確かに大きな前進になるだろうと思った。が、
この全体を、どう判断すべきだろうか・・・形態形成場に
は、サイ・エネルギーが関与しているが、ここでは明らかに
未確認のエネルギー形態が介在している。それが、破裂や、
パラダイス・スノーや、奇妙な水素原子を作り出しているの
だ。それに、周囲の物質の、原子レベルでの変質がある。
が、分岐点から2メートル離れた所では、超振動的な金属疲
労が観測されているわけである。
三度にわたる、未確認エネルギーの噴出。さきほど遭遇し
た、巨大なサイ情報系の塊。その他50ヵ所以上に及ぶ、同
様なフロイ内特異点。また、ESPの純化拡大と、共時性
(意味のある偶然の一致)の増加。さらに、地球や火星、及
び宇宙コロニー各所で起こっている、さまざまな異変の波。
人類文明の、ストーリイ形成の変調。太陽系では、地球生命
圏を中心に、明らかに巨大な何かが動き出しているようであ
る。
しかし、こうしたゲシュタルト(全体に、統一ある構造を
もった形態)を、どう把握し、どういう方向へ持って行くべ
きなのだろうか。それとも、グローバル・ブレインにより、
すでにサイ現象や共時性によって導かれているのだろうか。
すでに、演繹法や帰納法、構成法という科学的手法も、そう
した巨大な流れの中に呑み込まれ、組込まれてしまっている
のだろうか。
「我々は、」高杉は、周永峰に話しかけるともなく、ボンヤ
リとつぶやいた。「いったい、何処へ流れて行ってしまうん
ですかね、」
「何と言った、高杉?」
「いえ、独り言です」高杉は、静かに口もとを崩した。
周永峰は、腰を伸ばし、濡れた手をタオルで拭いた。それ
から、タオルを観察メカの白いセラミック・カバーの上に掛
けた。
「このポイント・ゼロは、」周永峰は、すでにポイント・ゼ
ロという称号を使って言った。「きわめて難解なものになり
そうだな」
「ええ・・・」高杉は、パン、と観察メカのカバーを叩い
た。「しかし、それだけかかってくる獲物も大きいというこ
とですから、」
「確かにそうだ」
「仮に、イザイラ・シムノンの言うように、次元的な波動が
重なっているにしても、何故フロイの中に起こったかです」
「うむ、大問題だ・・・地球生命圏そのものの、形態形成場
が動き出したのかどうか・・・」
高杉は、腰に手を当て、また空を見上げた。何度目かのた
め息をつき、目を閉じた。たまっていた疲労が、どっと全身
をおおってきた。
周永峰は、胸のポケットから、葉巻を二本つまみ出した。
一本を高杉に渡した。地球産の高級葉巻だった。
高杉は、周永峰からライターの火をもらい、小さく煙りを
吐き出した。煙りの通りがあまり良くなかった。それとも彼
自信が、ひどく疲れているせいかも知れなかった。今はた
だ、疲労が全身をおし包み、体が小刻みに震え出した。
「高杉・・・えらく疲れているようだな」
「ええ、睡眠不足です」
「うむ。覚えがある。艦隊勤務では、シゴキが訓練だと思っ
ているようだ」
「彼等は、伝統と言ってますがね」
「ふーむ。伝統だったら、軍だけでやってもらいたいものだ
な」
「同感ですね」高杉は、葉巻を大きくふかした。「しかし、
これには、戦略的な理由があるそうです。軍は、こうするこ
とで、フロイに対して支配権を確立しようとしているとか、
」
「ふむ。バカな話だ。フロイは、そういうものではない」
「しかし、ガキ大将的な発想ですが、彼等の考えていること
は、そういうことです。今後、“ビッグ・フロイ計画”が及
ぼす影響力は、絶大なものになりますから、」
「そういう側面もあったな。それに、確かに軍は、社会コン
トロールのプロフェッショナル集団だ」
「非常時における、です。現在は、十分にシビリアン・コン
トロールが確立されていますから。それに、太陽系開発機構
も、“ビッグ・フロイ計画”も、予算面では軍をはるかに凌
いでいます。ヘタに手を出すわけにはいかんでしょう」
「が、腐っても、サムライというわけか。高杉、君は連中の
やり方をどう思うかね?」
「ま、彼等はガキ大将なんですよ。それに、主導権の争奪
は、官僚機構のゲームです。いつの時代でもそうでした。我
々科学者が、真理を探求するように、彼等は権力や名声や英
雄を求めます」
「そういうものかね、」
「たぶん、」
「はっ、はっ、はっ、」
「芸術家が、美を求めるように。商人が、利潤を求めるよう
に」
「うむ」
「何もそこになきゃ、でっちあげるわけです。査察巡航作戦
そのものがそうですし、帰還セレモニーだってそうです。し
かも、巨大な機構です。それを社会に定着させてしまいまし
たね」
「だいぶ、軍について勉強してきたようだな」周永峰は、白
い歯を見せた。「なるほど、君は総合科学者だった」
「しかし、連中はいいヤツ等ですよ。それに、いざという時
には、あの大機動力は役に立ちますね。そういう時代に、突
入したようですから」
「そう見るかね?」
「ええ。今回の三度目の破裂で・・・“サイ・ストーリイ仮
説”の世界軸と、人間の“自己創出性風景”とは、相補的な
関係にあります。人間のリアリティー(真実)の一面が、こ
こにあるということは、我々の想像しているものは、もうそ
こまで来ているということです」
「しかし、必ず実現するという保証はあるのか?別のものが
来るということは?」
「確かに、“サイ場”にはズレがあります」
「その関数は聞いている」
「ええ。しかし、マクロのスケールになると、理論体系の完
成を待つしかないですが、基礎的直観の範囲なら、人間の
“確信”で十分でしょう。そして、この“確信”こそが、今
のこの我々の“自己創出性世界”の推進力ですから。世界
は、我々の外にあるのでも、内にあるのでもなく、我々の全
体が世界ですから」
「なるほど。そういうことだろうな・・・分ってはいるんだ
が、わしは君等のように、もう一歩が踏込めんのだ。その勇
気がないのだな、」
「いえ、周には、指令部に居てもらわなくては困りますね。
ぼく等が居るのは最前線です。総崩れになる危険性もありま
す。ですから、全般的状況を、冷静に判断する指令部が必要
になります。足腰の重い委員会ではなく、機敏に的確な反応
のできる、小数のカリスマ的人間です。特に、“ビッグ・フ
ロイ計画”のような、軍事作戦にも似た複雑で未知なものに
なれば、なおさらでしょう」
「ま、わしには、やれと言われても、君等のような真似はで
きんがね。できることは、そう・・・」
「・・・」高杉は、どんよりとしたフロイの空を見上げた。
「ポイント・ゼロ・プログラムが動き出すとなれば、もう軍
も介入はできんだろう」
「そうですね。しかし、これからが難しくなります」
「わしは正直なところ、半信半疑なのだ。この今のパラダイ
ムに固執している、人類の残滓なのかも知れん」
「ぼくは、周永峰を頼りにしています。先が見えないのは、
ぼく等も同じです。そして頼れるのは、唯一過去の歴史で
す」
周永峰は、葉巻の灰を落とし、空を見上げた。
高杉も、また寒々としたフロイの空を眺めた。よく晴れ渡
っていれば、上空5、6000メートルに、ホログラフィー
の青空が見える。が、今日は、その下に本物の雲が薄くかか
り、どんよりとしていた。しかし、西の方の空に、淡い太陽
が見えている。風もないせいか、その日射しがかすかに温か
かった。むろん、その太陽も、太陽ホログラフィーと呼ばれ
ているものであり、精巧な熱源になっている。
ここでは、フロイの内空間を越えるようなものは、ホログ
ラフィーや人間的錯覚が作り出している。もっとも、ホログ
ラフィーや人間的錯覚が、全て偽物かといえば、必ずしもそ
うではない。地球上においても、宇宙空間においても、世界
とはもともとそうしたものによって構成されている、人間的
風景の器なのである。また、一方、人間の記憶や思考や夢
も、もともとがホログラフィー的なものなのである。
二人は、葉巻をふかしながら、太陽を眺めていた。する
と、どこかでエア・クラフターが、ひときわ甲高く唸りを上
げた。やがて、ビル・フォードの乗った小型エア・クラフタ
ーが、雑木林の上に浮び上がってきた。フル・アクセルで浮
上し、ゆっくりと笹山の方へ動いていく。笹山には、五、六
人が集まっていた。ジャンパー・スーツの管区要員の他に、
私服も二人加わっいてる。どうやら、笹山の上で、何かを始
めるようだった。
周永峰は、何も言わなかった。葉巻を口にくわえ、右手を
開き、また固く握りしめた。それから、超ベテランの技術者
らしく、再び観察メカのファイバー・スコープの方に顔をも
っていった。
高杉の方は、水の中に立ちつくし、ボンヤリと笹山の頂上
を眺めていた。そして、この現在の状況を、彼の本分とする
総合科学者の立場から検討を始めた。
高杉は、この三回にわたる水パイプ破裂のイベントに、超
意識レベルの何者かが関与していると、あらためて確信し
た。むろんこれは、いわゆるグローバル・ブレイン仮説に立
つわけである。また、地球人類ホモ・サピエンスの、内か外
かということでは、ホモ・サピエンスそのものという中間に
立つ。また、そうした立場でも、“人間原理ストーリイ”
の、チェック・ポイントとして見る視野に重心を置く。が、
この重心は、楕円軌道を描くように、他の仮説をも捜索し
た。そして、楕円軌道は歳差運動(太陽を周回する水星軌道
のように、少しずつ楕円の角度をずらしていく。アインシュ
タインは、一般相対性理論の正しさを、この水星軌道の歳差
運動で証明した。)をとり、的を絞るようにした。もっと
も、これは、高杉のアプローチにおける図式の好みの問題だ
った。が、この視野を俯瞰したのは、総合科学が推進してい
る、“人間原理空間”建設の経過と関係していた。つまり、
数学的に建設される“人間原理空間”内に置ける、意識の座
標系、意味体系の限界、自己創出性風景のベクトルという、
ホログラフィー解の建設推進過程である。
しかし、このイベントに、超意識体がからんでいるとすれ
ば、むしろアートマン(真我。釈迦牟尼やキリストのような
特異な人間)がいた方が自然だった。が、そのアートマンが
存在していないし、影すら見えない。もっとも、地球規模
の、いわゆる物理的なイベントの流れもあるわけである。地
球磁場の変動や、氷河期の周期、巨大隕石の落下等である。
しかし、こうした惑星レベル、あるいはホモ・サピエンスの
文明史レベルのストーリイの運河化(カナリーゼイション)
の検証は、ようやく“サイ・ストーリイ仮説”によって開始
されたばかりである。有機生命体の遺伝子情報発現の光景
を、後成学的風景(エピジェネティック・ランドスケープ)
というが、それを宇宙における文明発現のレベル、地球生命
圏発現のレベルにまで押し広げたものである。が、こうした
分野も、依然として漠然とした段階であり、とうてい物理科
学、生命科学、意識科学の融合点までは到達していなかっ
た。
風がいくらか出ていた。水溜まりの水面全体が、かすかに
揺れ動き始めた。高杉は、ザブザブと水をこぎ、岸の方へ向
かって歩いた。極度の疲労で、頭の中がボンヤリとしてきて
いる。すでに、一歩一歩を踏出すのもやっとだった。
「東、」
「何だ、」
「ここには、ビル・フォード以外に、総合科学要員はいない
のか?」
「アレクセイエフと、ムラビヨフがいる。笹山の上だ」
「アレックスがいるのか、」高杉は、笹山の方を見上げた。
が、そのとたん、思わず体がぐらついた。水の上にひっくり
返りそうになった。ザブッ、ザブッ、と横に踏込み、ようや
くこらえた。
「オイ、大丈夫か、高杉?」
「ああ・・・腰から力が抜けちまってる・・・」
高杉は、腰に両手を当て、頭を振った。大きく息をつき、
水面に広がる波紋を見つめた。
「とにかく、少し休んだ方がいい」周永峰が言った。
「ええ・・・」高杉は、西の空に目を投げ、今度はゆっくり
と、慎重に岸の方へ歩いた。
「そうだ、ついさっきまで、サラ女史がここに居たんだ」東
が、水溜まりの縁で言った。「イプシロン空間研究機関の連
中も一緒だった。連中は、超波動サイクルを探索する、イン
フィールド・センサーを設置していったよ。あそこに、青い
頭の見えるやつがそうだ。超高感度リアクションで、アクテ
ィブ・タイプのやつだ」
「アクティブ・タイプだと?」
「ああ、そう言ってた。重力波干渉計と、歪を起こすんじゃ
ないかと議論になった。しかし、許可は出ているんだ。歪
は、コンピューターで消去できるということらしい」
「で、そこに、サラ女史が居たんだな?」
「ああ、そう言うことだ」
「うむ。だったら、大丈夫だろう」
サラ女史は、第八管区の長老の一人だった。もっとも高杉
は、長老だから信用したわけではない。科学的真理の探求
は、そんな人間関係的なものではなかった。高杉は、サラ女
史の人格と判断能力を、これまでずっと高く評価してきたか
らである。
高杉は、最後の四、五歩を、またザブザブと歩いた。それ
から、水から掻き上げられた落葉を踏み越えた。ドッカリ
と、ベンチに腰を下ろした。
「オイ、何か食べるものはないか?」
「何がいい?」東は、傍らに突っ立って聞いた。
「あったかいものがいいな」
「じゃあ、インスタント・スープを作ってやろう」
高杉は、ベンチの上で、ゆっくりと左腕を捲り上げた。そ
して、腰のポケット・ケースから、栄養剤の圧搾カプセルを
一本取り出した。セロファンのカバーをはぎ取り、消毒布の
方で腕を少し拭いた。それから、それをクルリと逆さに立
て、プシュ、と皮膚に射ち込んだ。
風にのって、笹山の上の話し声が流れてきた。しばらく眺
めていると、ピッ、と稲妻のようなものが光った。それで、
どうやら、超深度ポリグラフ探査を開始するらしいのが分っ
た。
これは、植物相から微生物相が形成する、微弱なサイ情報
系を対象としたアナライザー・システムである。培養や育成
によるバイオ・センサー類とは違い、自然の植物相や土壌中
の微生物相を探査するものだ。
眺めていると、アンテナのトップから、ピッ、ピッ、ピ
ッ、ピッ、と薄紫色の光パルスが、軽快に出始めた。一帯の
DNA遺伝子情報系を、直接刺激しているのだ。そうやっ
て、まず、DNAの陰にあるサイ情報系ホログラムを遊離す
る。そして、超深度ポリグラフのフィールドを形成し、希薄
なサイ情報を読み取り、増幅処理していく。したがって、手
のかかるひどく根気のいる仕事になる。が、これはウイルス
にまで及ぶ、膨大な微生物領域まで探ることになる。特に、
微生物領域において、解明されていないサイ情報系ホログラ
ムが多くあり、しばしば突拍子もない情報を提供してくれ
る。それに、何度となく回数をかさねていくうちに、しだい
にそうした情報フィールドとのコミュニケーションも成立し
てくると言われる。シャーレの中の微生物や培養細胞でも、
人がちょくちょく見てやると、生き生きとしてくるというの
は、こうしたコミュニケーションが成立してくるからであ
る。
しかし、こうした情報フィールドの記憶も、時間がたてば
急速に薄れていく。総合科学要員がすぐに手を付けたのも、
そのためである。また、このアブストラクト的記憶を刺激し
ておくことにより、それは強く残るようになり、増幅され、
つぎの段階では学習していくようになる。
「おい、できたぞ」東が声をかけた。
「ああ・・・」高杉は、大きく息をつき、監視小屋の方を振
り返った。
「ひと眠りすりゃ、元気になるさ」
「うむ、」高杉は、紙コップのスープを受け取った。